ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月17日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第5回

3) 記者時代(明治28年まで)

 明治25年12月子規は大学を中退して、新聞「日本」に入社した。紙上で「俳句時事評」を執筆した。俳句で政治風刺をやる趣向であった。子規の批評の特徴は最初に過激な断を下すことである。26年の「芭蕉雑談」では「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以って埋め・・・可なる者を求むるも寥寥晨星の如しと」と言い放ち、後の「歌詠みに与ふる書」においては「紀貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集にて有之候」という。子規を弁護して言えば、これは芭蕉全部の否定ではなく、芭蕉を宗祖とあがめる宗匠を批判した文脈である。そしてあとの文章で「老健勇邁の俳句をものにして俄然頭角を現はせし芭蕉は実に文学上の破天荒と謂つべし」と芭蕉をほめているのである。子規も「文学上の破天荒」を目指していたのである。連俳を排し五七五の発句のみを文学とし、もっぱら「俳文」を評価した。そして子規は「奥の細道」は荘重に過ぎ、むしろ滑稽諧謔の勝ったものを俳文のよさとした。明治27年子規は新聞「小日本」の編集責任者となった。月給も40円に上がった。そして故郷から母と妹を呼んだ。子規は新聞「小日本」に自作の小説「月の都」を卯の花舎の名前で連載した。この小説は幸田露伴の「風流仏」に影響されて、美辞麗句の多い文章は散文よりも浄瑠璃や謡の詞章に近い。江戸趣味に溢れた文には子規の面目は無い。そもそも新聞「日本」は政府の欧化主義に反発して国民主義を主張した新聞で、伝統的な詩を革新すべく試みられた。この「小日本」は僅か5ヶ月で廃刊になった。世は日清戦争に忙しく、子規は世に取り残された。寂寥感から子規は小旅行をし、新聞「日本」に郊外散歩の記「間遊半日」を掲載した。これが写生の始まりである。子規は絵の手ほどきを近所に住む洋画家中村不折から受け、「子規庵写生帖」となっていく。「死はますます近づきぬ、文学はようやく桂境に入りぬ」と28年友人への書簡に述べている。日清戦争への従軍が実現することになり、必死の思いは河東碧梧桐と高浜虚子に宛てた手紙に「僕の志を遂げ」と要求するのである。彼らには重荷になり高浜虚子は辞退する。この必死の思いは「墨汁一滴」、「仰臥漫録」、「病床六尺」となって結実した。
(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿