ブログ 「ごまめの歯軋り」

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日本のメディアのレベルの低さ 首相引き摺り下ろしに躍起

2011年03月04日 | 時事問題
asahi.com 2011年3月4日9時31分
庶民派首相、グルメざんまい? 夫人同伴も頻繁 菅直人首相が夜の会食場所として、最近、都内の高級料理店を利用することが目立っている。政治家との会合に伸子夫人が同席するケースも少なくない。朝日新聞の首相動静を確認すると、首相は年明け以降、3月2日までに計26回の夜会合があった。そのほとんどが、都心の高級ホテルにある料理店や料亭だ。

首相がどこで飯を食おうが勝手だろう。首相はラーメン屋で食うべしといいたいのか。麻生元首相の場合もホテルで酒を飲んでいると非難した。焼き鳥屋か居酒屋で酒を飲んでる方が芝居がかっている。メディアには1国の首相を引き摺り下ろす権限があるのだろうか。「へその下」か「金」のスキャンダル探しに明け暮れる政治番記者の低レベルさもいい加減にして欲しい。メデァアももう少し成長したら。

前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年03月04日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第12回

5) ガンダーラに向かう道 (1)
 玄奘法師は再び慧性法師に導かれ、東流するゴルハンド川を東進して、迦畢試国(カーピシー)を目指した。標高3000メートルのシバル峠を越え、水と緑に恵まれた地に僧伽藍があった。三賢聖の遺物を祀った伽藍は恐らく今日のフォンドゥキスタンの仏蹟に当てることが出来る。さらに東進すると迦畢試国(カーピシー)の肥沃な土地があった。かってアレクサンドロス大王の東方遠征の拠点であり、バクトリア王国の都のひとつが営まれて処であった。(今日ベグラムとよばれている) 王はインドのクシャナ階級(戦士階級)の貴種であった。穀物も豊富で、サフランの香料の産地であった。文字はほぼ覩貨邏国と同じ。話し言葉は全く違っていた。カーピシーにある伽藍は百余箇所、僧徒は六千人とバーミヤンの数倍の規模である。僧は大乗仏教を学んでいた。むかしガンダーラ王国のカニシカ王は領土を広げようと征服戦争を行い、近隣諸国は人質を差し出し、その人質が住まう場所として伽藍を建設したという。(今日の調査ではショクトラの遺跡こそその人質の住む伽藍であったといわれる) 玄奘は一月ほどの滞在で、「観自在菩薩像」、「ラークラ僧伽藍」、「シュヴェーターシュヴァタラ祀城」(バタヴァ遺跡)を訪れ、(バタヴァ遺跡)で「大神変像」などを見物した。「大神変像」はアフガニスタン仏教彫刻の傑作で、今はパリ東洋美術館とベルリンインド美術博物館に収蔵されている。竜を鎮めたカニシカ王の伽藍(トープ・ダラの塔)、アショーカ王の「象堅塔」には舎利が多く埋められ、唐太宗に「舎利と名馬」を献呈している。カーピシーを出る前に、当地の僧の前で玄奘は「法集」という問答を5日間開催した。
(つづく)

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月04日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第21回

伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび (10)
*抽斎没後19年は明治10年(1876年)である。
保の勤めていた浜松師範学校は変則中学校となった。兼松石居は68歳で没した。
*抽斎没後20年は明治11年(1877年)である。
山田脩は母に招かれて浜松に来て同居した。新聞記者という職業を五百が嫌ったためである。
*抽斎没後21年は明治12年(1878年)である。
守は英語学習の夢忘れがたく、浜松中学校を辞して山田要蔵、中西常吉を擁して帰京し、3人とも慶応義塾に入学した。そして母、脩、保は東京に戻った。すれ違いにして矢嶋優は開拓使御用となって北海道へ移住した。森枳園は大蔵省印刷局御用となり古書復刻版に仕事に携わった。
*抽斎没後22年は明治13年(1879年)である。
保は慶應の全科を終了した。山田脩は電信学校に入学、陸の勝久は音楽取調べ所に入学した。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「三月春霞」

2011年03月04日 | 漢詩・自由詩
隣圃桃梨未着花     隣圃の桃梨 未だ花を着けず

紅梅破臘両三家     紅梅は臘を破る 両三の家

淡霞煙蔽孤村遠     淡霞煙は蔽い 孤村遠く
 
残雪融消一逕斜     残雪融消し 一逕斜めなり


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(韻:六麻 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 ベラ・バルトーク 「弦楽四重奏曲全集」

2011年03月04日 | 音楽
ベラ・バルトーク 「弦楽四重奏曲全集」 (CD3枚組)
タカーチ・カルテット
DDD 1984 HUGAROTON

1975年ハンガリーの若手によるカルテットが結成され、ハンガリーの生んだ作曲家バルトークの弦楽四重奏曲全集第1番ー第6番を演奏した。6曲をワンセットとして発表するのはバッハ、モーツアルト、ハイドンまでの伝統であったが、ベートーヴェンでその伝統は崩れた。バルトークはその伝統を復活した。1909年から1939年までかかったが。