ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

放射線影響による健康被害とは せめてレベルは理解しておこう

2011年03月16日 | 時事問題
館野之男 著「放射線と健康」(岩波新書)を読んで参考にしよう 

確定的影響
 チェルノブイリ原発事故や東海JCO臨界事故、原爆被爆は高被爆線量による放射線傷害に分類される。極めて多量の被爆により死亡するとか、幸い被爆線量が少なくて一時的不妊、白内障、血液変化、胎児被爆の時の奇形・精神発達遅れが見られるなどの影響である。放射線傷害は早期に影響が現れ、影響の被爆線量に閾値が存在するために確定的影響と呼ばれる。
1990年国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた確率的影響の閾値を下に示す。
大部分の組織---年あたり数グレイ
生殖腺---1回 0.15グレイ
眼の水晶体---急性 2~10グレイ
骨髄---急性 0.5グレイ
子宮内胚死亡---0.1グレイ

 結論として胎児を含め0.1グレイ(100ミリグレイ)以下での放射線なら確定的影響は心配ないとされる。ちなみに東海JCO臨界事故では0氏は8グレイ以上を被爆して死亡、S氏は6グレイ以上を被爆し死亡、Y氏は4グレイ以下を被爆したと推定された。
過去に臨界事故は18件、放射線装置事故は267件、放射線核種事故が77件,合計364件の放射線事故が発生した。今回はまだ臨界事故ではありません。放射能漏れでありレベルが違います。人知を尽くして冷却に成功しますように!
なお茨城県東海原子力モニターによると、16日の発表では300-1000NaI線量率nGy/h(ナノグレイ)であった。昨年のほとんどのデータは20~59nGy/hの範囲にあった。そういう意味では今日は一桁以上の増加である。しかし人体に影響するのは100mGy(ミリグレイ)以上で、今回の1000nGyのレベルには1万倍高い値での話である。
1999年9月30日午前10時35分頃(株)ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所(茨城県那珂郡東海村)にお事故の場合、半径10km圏内の住民の方に屋内退避要請が行われるなど我が国の原子力開発利用史上最悪の事故となった。その場合500-3000nGy/hの線量率が観測された。福島原発事故の影響は茨城県東海村近くでも大きな影響を与えているようだ。
(つづく)

読書ノート ぺートル・ベックマン著 田尾陽一訳「πの歴史」 ちくま学芸文庫

2011年03月16日 | 書評
円周率πの計算精度を上げる歴史から数学の幅広い展開へ 第2回

 本当かどうかは保証の限りではないが、著者は推測だがと断った上で、円周率を求める一番原始的な方法を示している。まず中心をきめて一定の長さの縄の端を中心に固定して、砂の上で縄の他方の端に棒をつけてぐるりと1周する。すると棒の先は円周の溝を描くだろう。つぎにこの縄の2倍の長さの縄を作る。これが直径である。この直径に相当する縄を円周の溝に入れ、端と端の位置の砂に印をつけ、又縄を持ち上げて何回か繰り返すと3回目の縄の端は出発点の少し前で終わりとなる。この少しのあまりを無視すれば円周率は3といえる。一桁の精度の円周率である。円周上に残った余りの溝に合わせて短い縄を作り、それを直径の上においてゆくと7回やって少し余るが、8回やるとはみ出してしまう。そこで円周率は3・(1/7)<π<3・(1/8)となる。すると円周率は3.142857<π<3.125となり、精度は2桁となった。古代バビロニア人(メソポタミア文明のシュメール人 紀元前3000年程度の頃)はπ=3・(1/8)、古代エジプト人の書記アーメス(紀元前2000年)が記す書によると、伝承として「9単位の直径の円の面積は、一辺8単位の正方形に等しいという作図からπ=3.16049を得たという。古代バビロニアよりほんの少し悪いが、有効精度は2桁である。
(つづく)

文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月16日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第4回

2) 学生時代(明治25年まで)

 明治22年子規は突然血を吐いた。肺病であった。そのとき作った句集が「啼血始末」50首であった。「子規」という名もこの時から始まった。これ以降子規は10年の余命を意識して生きることになる。「啼血始末」と同じ時期に書いた「読書の弁」は、「一生の目的は一巻でも多く読み一枚でも多く書く」事を決意する。この時期読書(学問)で身を立てることにより、境遇を切り開く決意をする肺結核の青年には命(時間)の保証はなかった。学友漱石も書簡で「自愛するよう」勧めている。その年の夏休み、療養をかねて松山に帰省した。野の草や小動物に心を動かせ、この心がやがて写生という文学上の方法を引き出すのである。同年子規はスペンサーの文体論を読んで、「詩歌の起源および変遷」という論文を書いた。このなかで子規は「最も簡単な文章が最面白い」という。短文には余意を含めたる技巧をよしとするのである。子規には学友の特徴を分類して遊んでいるが、なかでも漱石を「畏友」といって尊敬している。子規と漱石の交友は明治22年1月から始まった。子規は言葉の巧さを養うためひたすら書くことに努めたが、漱石は「文章の美は次の次、まずは思想の涵養こそが大事」と反論した。子規は形から入る主義であったようだ。言葉遊び(しり取り、韻押し)或いは比喩、駄洒落に類する遊びを熱心にやった。「余は文学にあらざるところより、俳句に入りたり」という。明治23年7月子規は文科大学哲学科に入学し、翌年1月国文学科に転科した。そして25年5月初めて新聞「日本」に「かけはしの記」が掲載された。子規は「かけはしの記」でもって世間に出た。続いて「獺祭書屋俳話」の連載が25年6月末から始まった。「獺祭書屋俳話」で子規が明確に主張したかったのは。陳腐なものの追放であった。これを子規は「月並」と呼んだ。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「災異痛恨」

2011年03月16日 | 漢詩・自由詩
災異呑人亦愴神     災異人を呑んで 亦た神を愴む

肉親哭死涙痕新     肉親死を哭して 涙痕新たなり

不知慰藉真無計     慰藉を知らず 真に計無し
 
季節春雲幸有人     季節は春雲 幸い人有り


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(韻:十一真 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)