ブログ 「ごまめの歯軋り」

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NATO リビア制裁 軍事介入辞せずというが

2011年03月02日 | 時事問題
asahi.com 2011年3月1日23時41分
英「軍事力行使排除せず」 NATOと飛行禁止空域協議
【ロンドン=橋本聡】リビア情勢をめぐり、英国は北大西洋条約機構(NATO)に加盟する各国と「飛行禁止空域」を設ける協議に入った。英各紙が1日、伝えた。キャメロン首相は前日の英議会で「軍事力の行使を排除しない」と語り、国防相に対し、同盟各国との検討結果を数日中に報告するよう指示した。  しかし、外交関係者の間では、軍事介入には国連安全保障理事会の同意が必要との見方があり、拒否権をもつロシアや中国が反対する可能性もある。
asahi.com 2011年3月2日6時46分
NY株大幅反落、終値168ドル安
 1日のニューヨーク株式市場は大幅反落。大企業で構成するダウ工業株平均は前日比168.32ドル(1.38%)安い1万2058.02ドルで取引を終えた。原油相場が再び上昇し、燃料費の上昇が企業活動や個人消費に悪影響を与える懸念が強まった。 同日のニューヨーク商業取引所の原油相場は、中東・北アフリカの混乱が深まったことを受けて大幅反発。国際指標となる米国産WTI原油の先物価格は、前日比2.66ドル高い99.63ドルで取引を終えた。

NATOの空爆はユーゴ動乱、イラク戦争についで3回目の主権侵害の暴挙となるか。アメリカ、イギリスのアングロサクソン諸国の「正義」にはもううんざりだ。腹の中が見えていますよ。リビアの事はリビアにまかせよ。

前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年03月02日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第10回

3) 古代バクトリア(トハラ、大月氏)の国々
 鉄門を出てからひたすらシェラバード川に沿って南下した玄奘の一行は覩貨邏(トカラ、トハリスタン)に出た。かってのバクトリアの故地である。紀元前2世紀ごろからトハラ人がkの地域に勢力を張ってからローマ共和国もその名を知り、前漢の張騫がたどり着いた大月氏の国であろうと見られる。玄奘が通過した時は突厥の支配下にあった。肥沃な風土が広がっていたと記されている。最初に蜜国(テルメズ)に着いた。玄奘は天山を越えてから初めて本格的な仏寺を目にした。伽藍は十余箇所、僧徒は千人余と記されている。多くの仏塔(ストゥ-パ)があったようだ。この地は2世紀クシャーナ朝(大夏)のカニシカ王の時仏教の最盛期を迎えた。3世紀にはササン朝ペルシャの侵入を受け、4世紀には諸部族の侵入により仏寺は破壊された。583年西突厥が支配して以来再び仏教が甦った。蜜国(テルメズ)からは東に向かい赤鄂衍那国(チヤガナーヤ) 、忽露摩国(ハルマ) 、愉漫国(シュマン) 、鞠和衍那国(クワナーヤ)、珂咄羅国(クツタル)、拘謎国(クマード)にいたる。玄奘は突厥の統葉護可汗の長男旦度への親書を携え、活国へ向かっているのである。クンヅゥズ川を渡り南東に向かいようやく到着した活国は突厥の支国であり、高昌王の娘婿である旦度設が王であった。玄奘が滞在中に王旦度設が殺され、その長男欲谷設が即位した。これが西突厥の分裂の始まりとなった。裏で唐の暗躍があったといわれる。活国からは西に向かい忽懍国(クルム) を経て縛喝国(バルク)にいたる。縛喝国は小王舎城(バクトラ)といわれ、伽藍は百余箇所、僧徒は3千人で、皆小乗の教義であった。縛喝国の歴史は古く、紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャの王ダイオレスの時帝国内で重要な政治拠点であったという。ゾロアスター教の祖がこの地で生まれ、バクトリアと呼ばれた。紀元前4世紀アレクサンドル大王が東進する軍事拠点にもなった。ペルシャとヘレニズム文化の接合点に紀元前3世紀インド文化が移植された。インドのマウリア王朝はアショーカ王がバクトリアに仏教を伝えた。玄奘が訪れた時バクトリアの仏教はなお盛んであった。都城の西南に大きな塔堂伽藍があり、毘沙門天説話が残っている。都城から南へ向かうインド古道にあるルスタムの円塚はナヴァ伽藍の仏塔だといわれている。トプサラ城、パリか城の仏塔には、商人が釈迦から頂いた「頭髪と爪」を入れたという説話が残っている。尚玄奘にとって有意義であったことは、タッカ国の小乗の高僧慧性法師について「毘婆沙論」を学んだことであったという。バルフを立てバーミヤンに向かう旅に、慧性法師も同行してバルフ川を南下した。山に入ると掲職国(ガチ)になった。前に聳える巨大な山が大雪山系である。ペルシャ人もギリシャ人の「鳥さえ越えない」といって恐れた山である。カラ峠、ダンダンシカン峠、ガブチ峠、サブザク峠を越えて南に向かうと、そこはバーミヤンであった。
(つづく)

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月02日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第19回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語 (8)
*抽斎没後13年は明治4年(1870年)である。
医師を降された渋江成善15歳は、東京へ私費留学に向かうことにした。藩は士族の脱籍者を嫌っていたので、藩の大参事西舘孤清の了解を経て東京に行った。当時東京にいたファミリーとしては、山田家に養子に入っていた兄専六が本所割下水にいた。姉安が両国にいた。兄矢嶋優善は浦和にいた。成善は英語を学ぶため、尺振八の経営する本所の共立学舎に通った。さらに成善は海保竹逕の伝経塾、大学南校にも通い、フルベックの個人授業も受けた。学費は五人扶持のうち3人扶持で賄った。8月には弘前県が成善を神社係りという名目で金3両の手当を支給した。浦和の典獄になって勤めていた兄の矢嶋優善が結婚して、埼玉県に職を得た。県の役人はなかなか派振りがよかったそうだ。この年斬髪令が出て、改名をおこなった。成善は保に、優善は優に、専六は脩となった。
*抽斎没後14年は明治5年(1871年)である。
弘前にいた平井東堂が没した。59歳であった。保(16歳)は山田脩の家から本所横綱町の下宿に移った。5月には弘前より母五百(57歳)、陸、矢川文一郎と妹陸夫婦も東京へ移住してきた。保は給費10円が支給される師範学校への入学がかない9月より通学した。この年には弘前から再び東京に移る人々が多かった。五百の兄比良野貞固もその1人であった。妹陸が本所緑町に砂糖店をひらき、繁盛したという。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「春鶯遊梅」

2011年03月02日 | 漢詩・自由詩
衆芳揺落白皚皚     衆芳揺落 白皚皚

疎影横斜春意回     疎影横斜し 春意回る

東岸風和潜報柳     東岸風和かに 潜に柳に報じ
 
南枝鶯囀暗驚梅     南枝鶯囀て 暗に梅を驚す


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(韻:十灰 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 ストラヴィンスキー 「火の鳥」ほか

2011年03月02日 | 音楽
①バレー音楽「火の鳥」 ②バレー「ぺトルーシュカ」
③「小管弦楽のための組曲 第1番」 ④「小管弦楽のための組曲 第2番」
アレクサンダー・ラハバリ指揮 ベルギー放送フィルハーモニー
DDD 1990 NAXOS

1910年「火の鳥」のパリでの大成功に気をよくしたストラヴィンスキーは1911年道化師の物語「ぺトルーシュカ」をつくった。ロシアの民謡やおとぎ話を題材としたバレー音楽である。