ブログ 「ごまめの歯軋り」

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福島原発事故による緊急被爆への対応 北海道ガンセンターより報告

2011年03月15日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年3月14日) 「緊急被爆の事態への対応は慎重に」 西尾正道 北海道ガンセンター院長より

 13日14時までの情報をもとに放射線被爆についての基本的考え方を示す。12日午後1時原発の敷地境界線で1015μSv/h(マイクロシーベルト/1時間)(約1mSv/h)であったというので、放射性物質が放出されたことは確かである。Svとは人体への影響を考えて設定された線量のことである。一般人の年間被爆線量限界は1mSv、原発従事者や医療関係者の年間被爆線量限界は50mSvで5年間が限界である。自然放射線と医療放射線は年間約5mSv、飛行機に乗ると、0.19mSvを受ける。今回の被爆は急性全身被爆としても、きわめて低線量であり特に問題となる事はない。
急性被爆時の人体への影響は、250mSv以下では臨床的な症状が出ることはない。500mSvで白血球の一時的な現象がみられ、1000mSvでは吐き気や全身倦怠が見られる。今回の被爆では医学的健康被害は深刻ではない。
放射線防護三原則は①距離 ②時間 ③遮蔽である。距離は1kmの線量を1とすると、10kmでは1/100、20kmでは1/400 となる。まず自分の位置と原発の距離を頭に入れておくこと。時間については現場から離れるということで避難の問題となる。遮蔽は室内からでないことであり、コンクリート内部がさらに安全である。被爆予防としてはヨード剤の服用、コンブなどを多く食べることである。甲状腺に放射性物質が蓄積する事を予防する。
要請に基づいて、北海道ガンセンターから放射線治療科の医師を福島に派遣する予定である。

読書ノート ぺートル・ベックマン著 田尾陽一訳「πの歴史」 ちくま学芸文庫

2011年03月15日 | 書評
円周率πの計算精度を上げる歴史から数学の幅広い展開へ 第1回

 本書はプラハ生まれのベートル・ベックマン(1924-1993)によって書かれた。彼は1963年アメリカのコロラド大学電気工学科の教授となってアメリカに永住した人である。本書は、いたるところに反教会主義、反ナチズム、反ソ連、反科学主義への毒舌を散りばめている事もひとつの特徴となっている。そういう意味で彼は啓蒙派知識人である。彼の反骨精神は皮肉をいう程度ではない、毒舌火を噴くのである。私の最も苦手とする数学関係の本を取り上げてしまった。今になってどうしてまとめていいのか反省することしきりである。πとは円周率のことで、円周/直径の比が一定である事にきずいた太古の昔から、人類が綿々とπを求めるために費やした時間と努力を振りかえって見ることはあながち無駄ではないはずだろうという軽い気持ちで読み始めたら、数式をあまり使わないと謳ったこの本の著者の宣伝文句に騙されたことに気がついた。最初からバビロニア(メソポタミア文明発祥の地)人の60進法(時計の数え方)でπを表現するやり方が全く理解できなかった。5000年以上前の文明レベルをも理解できない自分の頭脳にあきれたものだ。私は科学の古典を読んですんなり完璧に理解できたことなんて一度もなかった。私の経験でもケプラーの天体運動の本を読んでも全く理解できなかったし、デヂキントの「数と連続」を読んでも分った様な分らないような曖昧な気分であったことを憶えている。アインシュタインの「一般相対性理論」もちんぷんかんぷんであった。数学は特に演繹の学問で定理から経験の宝庫に下ってゆくもので、ひとつでも分らなければそれ以上は進めないものとあきらめていた。だから私は経験科学の最たる「化学」に進んだ。事実の寄せ集めから一般法則へむかう帰納法の世界で、矛盾だらけの世界で暫くは平気で過ごせるのである。πとは円に関する定数(常数)で、人類の歴史が線と輪から文明が発生したように、円周率は人類の歴史と切り離せない関係を持ってきた。円はすぐさま三角関数と結びついて、円周率と同じように、半径=円弧のなす角度を1ラジアンで表すようになり、360度=2πで等価になった。そしてこれが微積分法と結びついて様々なπの公式が爆発的に生まれた。ついにオイラーが自然対数(e)と結びつけてe(iπ)=-1を得た。
(つづく)

文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月15日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第3回

1) 少年時代(明治23年まで)
 愛媛松山に生まれた子規は、松山藩御馬廻加番正岡常尚を父とし、大原家から嫁いだ八重を母として慶應3年(1867年)に生まれた。9代正岡家を継いだ名は「常規」というが、幼名は「昇」であった。高浜虚子の生家である池内家は隣にあり、三並良の生家である歌原家も1軒置いて隣にあった。子規には少年時代の天才ぶりをしめす特筆すべきエピソードはない。12歳の少年が学校の作文で「国債を償却するには教育しかない」と書いたくらいである。父は大酒飲みで40歳で隠居し子規に家督を相続した直後になくなっている。子規は少年時代から筆写をよくし、貸し本を写した「香雲筆写」という写本が残っている。香雲とは中学生時代の雅号である。子規の筆写として有名なのは明治24年ごろからはじめた「分類俳句全集」がある。小学生であった12歳に学校で回覧雑誌「桜亭雑誌」を作り桜亭仙人の名で小文を書いて遊んでいた。子規は自分が作った明治29年までの漢詩を「漢詩稿」として残している。明治15年ごろまで毎週河東静渓先生に稚拙な漢詩を見てもらっていた。明治13年子規は松山中学に入学した。そのころから政談演説に熱中したという。国会開設の詔勅は出ていたが、明治16年に学校の講堂で行なった国会開設の演説文稿が残っている。子規の母方の叔父加藤拓川の指導を得て、明治16年に東京で勉学する志を得たらしい。子規は明治17年に東京大学予備門(後に第一高等中学校)に入り、23年に卒業した。子規の啓蒙や文学への目覚めを書いた「筆まかせ」というノートを17年から書き始めた。分類と比較に凝って学友の各種評価表を作ったりした。そして米国から輸入された野球にも大変な興味を示した野球少年であった。21年夏休みに帰郷せず向島の桜餅屋「月香桜」に滞在して、漢文、漢詩、和歌、俳句、謡曲、地誌、小説を集めた「七草集」を書いた。子規自身が越えるべき「月並」な作品集である。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「春 来」

2011年03月15日 | 漢詩・自由詩
啼鶯無奈半開梅     啼鶯奈んとも無く 半開の梅

闘草遅伸緑未回     闘草伸るを遅れ 緑未だ回らず

為報東風徐凍色     為に報ず東風 凍色を徐けと
  
村童追狗命春来     村童狗を追い 春の来るを命ず


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(韻:十灰 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)