ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

東北関東大震災と医療問題  感染症対策も忘れずに 

2011年03月20日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年3月18日) 「東北関東大震災における感染対策」 森澤雄司 自治医大付属病院 感染制御部長 より
 ライフラインの途絶などで衛生状態が悪化している。インフルエンザやノロウイルスに対する警戒が必要です。資材が不足している状態で感染症を防ぐ最低のポイントを示す。咳がある人は公衆の前に出ないようにする。マスクやティッシュを確保してください。咳・発熱・吐き気のある人は、避難所などでの人の配置に気をつけよう。手洗いが出来なければ消毒用アルコールを準備しよう。 栃木県は被害は少なかったが、県で医療を維持し、近隣施設の支援をしている。自治医大病院は大田原赤十字病院や、茨城県筑西市病院の患者の転院を受け付けている。


20日8時の茨城県の空間線量率データー(昨年の平常値は30-50nGy/h)
東海村石神 437nGy/h  風西北西  0.8m/s
水戸市吉沢 127      北北東  0.9
以前よりは下がってきたように思います。


asahi.com 2011年3月19日23時48分
飲用水、1都5県で放射性ヨウ素検出 すべて規制値以下
 文部科学省は19日、全国の上水道の放射能検査結果を公表した。18日に採取した水から栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、新潟の1都5県で放射性のヨウ素131が検出された。一番高い宇都宮市で1キロあたり77ベクレルと、すべて規制値より低かった。放射性のセシウム137も栃木県で規制値より低い同1.6ベクレル、群馬県で同0.22ベクレルが検出された。宮城県と茨城県は断水などの影響で調査されていない。飲料水に設けられた摂取制限の規制値は放射性ヨウ素で1キロあたり300ベクレル、放射性セシウムで同200ベクレル。

asahi.com 2011年3月20日5時46分
連続放水13時間半、2400トン放つ 東京消防庁
 東京電力福島第一原子力発電所3号機の冷却作業で、東京消防庁の緊急消防援助隊による本格的な放水が20日午前3時40分に終了した。19日午後2時すぎに始まり、約13時間半にわたって連続して行われた。2400トン以上の海水が放たれた計算だ。

  

読書ノート ぺートル・ベックマン著 田尾陽一訳「πの歴史」 ちくま学芸文庫

2011年03月20日 | 書評
円周率πの歴史から数学の幅広い展開へ 第6回

2)円周率に偉大な足跡を残した人々(1)
 古代メソポタミア文明は60進法で、古代マヤ文明は20進法であるといわれても、今の10進法を基本とする私たちの生活からはピンとこない。中国では比較的古くから10進法であった。しかし60進法は時計の秒から分、時までに残っている。時から日は24進法で、日から年は365進法で4年に1回は1日を追加して調節している。このように数字は農耕生活のリズムを刻むもので、暦と切り離せない関係を持ってきた。円周率の歴史は古代ギリシャに始まる。紀元前490年マラトンの戦いでペルシャを打ち破ったギリシャは民主主義が生まれて学問が栄えた。哲学者と数学者を輩出した。学問と民主主義は切り離せない同盟関係がある。軍事独裁政権では同質の量や大きさは求められるが、異質な動きは圧殺される。ローマ時代とは科学や思想の革命的進歩が何もなかった凡庸な時代だと筆者は語る。民主主義は異論の存在を尊び、それが進歩の原動力であるとする点で大きな質的転換が行なわれうる時代なのだ。ミルの「自由論」と同じ考え方である。そういう意味でギリシャ時代はいまのヨーロッパ文明の出発点であった。円周率を求める理論的な公式の研究は18世紀前半のオイラーの仕事で終止符を打った。それ以降はπの桁数を上げる腕力と執念の時代になった。第2次大戦後には計算機の仕事になり、1980年以降はもっぱら半導体の集積度を競うだけの仕事となった。πは17桁だけでも過剰な精度といわれているのに、億から兆桁を求めることの実用的意味は無い。国家主義と財政主義と半導体製造能力をバックとした奇妙な人間の営みである。高エネルギー加速器による素粒子研究と同じように、国家権力的研究が流行している。先進国が後進国を差別化するのに内容よりも規模しかないとき、先進国は腐敗する。次にπの画期的研究を行なった数学者の面白い研究を数式と図形なしで説明したい。数式と図形を知りたい人は本書を購読してください。
(つづく)

文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月20日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第8回

4)病床時代(明治33年まで) (3)

 明治31年新聞「日本」に竹の里人の評論「歌よみに与ふる書」が出た。元来古今和歌集は日本文化の手本とされ、雅の伝統の源とされてきたのを、子規は「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にて有之候」とやった。いつもの子規の評論の常套手段であるが、頭から一刀両断で斬って捨てるやり方である。ショック療法といえるかもしれない。いいたいことは「万葉集」の復権である。「・・柿くいて猿にかも似る」という境地から古今集への反旗である。五七五という言葉の組み合わせの数論から、俳句はいずれ終焉を迎えるという変に醒めた見方をする子規が、万葉集を発見し、その万葉集から子規が見つけたもののひとつが滑稽美であった。この自己を笑う感情、自分を茶化すことが滑稽美である。明治31年は短歌の改革に乗り出して子規は多忙であったが、迫りくる死に友人に遺書めいた手紙を送り墓碑銘を指示している。「考えてみれば実につまらぬ身に上にて何のために生きているかと思ひ候へども馴るれば馴るる者にて平日は左程苦にもならず候」という。書いているうちに自分を客観化して、苦しみから逃れることが出来るというのだ。31年雑誌「ホトトギス」に子規は「小園の記」に、「我に20坪の小園あり・・・病いよいよつのりて足立たず・・今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と書いた。そこには森鴎外から貰った草花もあった。中村不折から貰った鶏頭もあった。子規は草花好きの幼年期まで遡って自分を再発見した。その庭を前にして子規は毎月1回「蕪村句集」輪講会、つきに1,2回の子規庵句会を開いている。32年12月の蕪村忌には46名の人が参集した。子規の病床は座談の笑い声に包まれた。私は根岸にある子規の記念館に行ったことがあるが、あの小さな家に46人の人が入れるのかなと思った。確かに記念写真をみればそうなんだが、昔はもっと庭が広かったのだろうか。子規は俳人に招待の「はがき歌」をおくって、こいこいと呼んでいる。淋しがりやの子規が見える。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「避難民」

2011年03月20日 | 漢詩・自由詩
瓦礫累累涕泗流     瓦礫累累 涕泗流れ

避行逃遁去難留     避行逃遁 去って留め難し

作工万事才終廃     作工万事 才終に廃し
 
捜索親親竟未休     親親を捜索し 竟に未だ休まず


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(韻:十一尤 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 エマニエル・シャブリエ 「ピアノ作品全集」

2011年03月20日 | 音楽
エマニエル・シャブリエ 「ピアノ作品全集」(CD2枚組)
①絵画風の小品集 ②5曲の遺作 ③ミュンヘンの思い出 ④3つのロマンティックなワルツ その他
ピアノ:ピエール・バルビビ、ジャン・ユボー
DDD 1982 ERATO

エマニエル・シャブリエ(1841-1894)はフランスパリに育った。役人生活の後1880年音楽に専念したという晩生の音楽家。楽想は平凡だが、洗練された官能性、軽快なリズムはさすがフランスのエスプリか。