ブログ 「ごまめの歯軋り」

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医療問題 Ⅰ型糖尿病研究基金ー寄付が研究を支える

2011年03月06日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年3月4日) 「Ⅰ型糖尿病研究基金設立5周年シンポジュームー情熱が先端研究を支える」 松本慎一 ベイラー研究所 より

 Ⅰ型糖尿病とは、自己免疫疾患により誤って自己のインスリン産生細胞を破壊してしまう典型的な小児疾患である。若年性糖尿病であるⅠ型糖尿病はアメリカに100万人の患者がいる。インスリンがまったく生産されなくなった患者にインスリンを産生する膵島細胞を移植する治療法がある、劇的に糖尿病から開放された人もいるが、免疫抑制剤を内服したり、途中で移植した膵島細胞の機能が衰えたり、再度自己免疫疾患が再燃するなど研究課題は多い。不治の病が治る病気になると確信して情熱を持って研究している研究者を支える基金がアメリカに生まれた。1972年患者の家族によって「小児糖尿病基金(JDRF)」が設立された。40年間で1200億円の研究費をサポートし、2010年だけで見ると80億円を提供した。松本氏は日本版JDRFを立ち上げたいと日本IDDMネットワークに持ちかけ、2005年に「Ⅰ型糖尿病研究基金」が設立された。日本文化には縁の浅い寄付文化が発足した意義は大きい。その設立5周年を記念して特別シンポジュームが3月12日、時事通信ホールで開かれるという。

読書ノート 近藤宣昭著 「冬眠の謎を解く」 岩波新書

2011年03月06日 | 書評
シマリスから冬眠特異的蛋白質(HP)の発見への道 第1回

 冬眠(Hibernation)とは、季節的な低温に対して、動物が摂食や運動を中止して代謝活動を著しく低下させた状態で冬季を過ごすことであるといわれている。冬眠をする動物には、陸生変温動物としてヘビ、カエル、カメ、昆虫などがいて、越冬するときに冬眠をし、体温は外囲の温度に並行して低下する。恒温哺乳類としてはコウモリ、ヤマネ、シマリス、ゴールデンハムスター、ハリモグラ、ハリネズミなどがおり冬眠時の体温は10度以下に低下する。大型のクマ、アナグマなどは「冬ごもり」を行うが、これは真の冬眠ではなく、むしろ睡眠に近い状態であり、体温の低下も数℃以内で、わずかな刺激でも目覚める。小型の動物では、体重に対する表面積の割合が大きいため、体温を維持するために大量のエネルギーを必要とするので、食料の乏しい冬季では冬眠する方が得策という説もある。冬眠とは生命を保護する驚異的な能力ではないかと著者はいう。冬季に冬眠する動物の体温が環境の気温より数度高いほどに下がっても低温にたえる驚異的な細胞の力に感服するのである。人の体温は30度以下に下がると、自力で体温を元に戻す力は失われ凍死するらしい。人間は冬眠しないが、極低温状態での生存例が報告されている。日本では2006年10月7日に兵庫県神戸市の六甲山で男性がガケから落ちて骨折のため歩行不能となり、10月31日に仮死状態で発見されて救助される事件があった。当初は「焼き肉のたれで生き延びた」などと報道されていたが、実際は遭難から2日後の10月9日には意識を失い、発見されるまで23日間、食べ物だけでなく水すら飲んでいなかったことが分かった。発見時には体温が約22℃という極度の低体温症で、ほとんどの臓器が機能停止状態だったが、後遺症を残さずに回復した。「いわゆる冬眠に近い状態だったのではないか?」と医師が話しているという。ヒトが冬眠するかどうかは別にして冬眠は低温下で生命を維持する生物の進化ではないだろうか。冬眠を研究している学者は少ない。近藤宣昭氏のプロフィールを示す。1950年愛媛県生まれ、1973年徳島大学薬学部卒業、1778年東京大学薬学博士課程終了、三菱化学生命科学研究所の主任研究員、(財)神奈川科学技術アカデミーを経て現在は玉川大学学術研究所特別研究員である。専攻は薬理学だそうだ。
(つづく)

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月06日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第23回 最終回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語 (12)
*抽斎没後27年は明治18年(1884年)である。
抽斎の親友森枳園が79歳で没した。
*抽斎没後28年は明治19年(1885年)である。
保は病気で新聞社を辞め、静岡県犬居村に移住し、静岡英語学校の教頭となった。保(30歳)は静岡士族佐野常三郎の娘松(18歳)と結婚した。
*抽斎没後29年は明治20年(1886年)である。
保は東海新報の主筆となった。静岡高等英華学校、静岡文武館の英語教師を兼任した。尺振八が48歳で没した。
*抽斎没後30年は明治21年(1887年)である。
保は私立渋江塾を設立した。弟脩が静岡に移住し、警察学校及び渋江塾の英語教師となった。
*抽斎没後32年は明治23年(1889年)である。
保は静岡を去り東京に戻った。弟脩は駿河国佐野駅の駅長になって赴任した。

この年以降は「抽斎没後○○年は明治○○年(18○○年)である。」という記述形式が無くなる。年度だけを記してエピソードを語るのである。森鴎外氏も疲れたのだろう。残すところ20ページくらいで長唄の師匠勝久(姉陸)を中心とした記述となるが、私もこの辺でやめる。
(完)

筑波子 月次絶句集 「草花同人不同」

2011年03月06日 | 漢詩・自由詩
麦隴濛濛煙雨垂     麦隴濛濛と 煙雨垂れ

濯枝潤葉草方滋     枝を濯い葉を潤し 草方に滋し

知時柳色花皆好     時を知り柳色 花皆な好く
 
応命容姿貌自衰     命に応じ容姿 貌自ら衰ふ


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(韻:四支 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)