言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第1回
坪内稔典氏はいうまでもなく俳人である。そして子規(1867-1902年)とおなじ愛媛県生まれである。1972年立命館大学文学部を卒業し、高校教師をしながら正岡子規の俳句に目覚めたという。園田学園女子大学助教授、京都教育大学教授、京都教育大学附属京都中学校校長などを歴任。正岡子規や夏目漱石の研究で知られるが、俳人・歌人としても活躍。俳句グループ「船団の会」代表を務める。現在は京都にある仏教大学の教授である。私は坪内稔典氏の著作は岩波新書の、 坪内稔典著 「季語集」(岩波新書)、坪内稔典著 「俳人漱石」(岩波新書)を読んだ。そして本書が3冊目である。岩波新書で活躍する俳人はめずらしい。「e船団」のホームページを覗いてみると、何か庶民的な、そして分りやすいキャッチコピー的な句が楽しめる。本書は講談社版「子規全集」に依拠して、子規の文・俳句をまず冒頭において進める評伝風の「小話」(3-4頁)を時代順に並べてゆく手法である。読み切り風の短文であるので読みやすい。言葉にしのぎを削った俳人の文章は、論を展開するのではなく、短くて人の心に落ち着くのである。掲出されている子規の文は小学校の作文から、妹律の回想文、小学校時代の回覧雑誌の雑報、「漢詩稿」、中学校時代の演説文、友人への書簡、大学予備門時代のノート「筆まかせ」、詩歌集「七草集」、東京大学文学部時代の俳句「啼血始末」、「読書弁」、漱石宛の書簡、木曾紀行文「かけはしの記」、「獺祭書屋俳話」、新聞「日本」俳句時評「芭蕉雑談」、新聞「小日本」小説「月の都」「間遊半日」、五百木瓢亭宛書簡、「俳諧大要」、新体詩「父の墓」、新聞「日本」連載「松羅玉液」、「俳人蕪村」、「病床日記」、「歌よみに与ふる書」、百人十首、河東銓宛書簡、「ホトトギス」、「小園の記」、はがきうた、伊東左千夫宛書簡、「墨汁一滴」、「命のあまり」、「仰臥漫録」、「病床六尺」、「絶筆三句」などである。私は子規の本としては「仰臥漫録」、「病床六尺」しか読んでいない。したがって、たとえ1節だけでも子規の書に出逢えるのは子規への理解が広がった気がする。これが読書の手始めとしては重要なのである。
(つづく)
坪内稔典氏はいうまでもなく俳人である。そして子規(1867-1902年)とおなじ愛媛県生まれである。1972年立命館大学文学部を卒業し、高校教師をしながら正岡子規の俳句に目覚めたという。園田学園女子大学助教授、京都教育大学教授、京都教育大学附属京都中学校校長などを歴任。正岡子規や夏目漱石の研究で知られるが、俳人・歌人としても活躍。俳句グループ「船団の会」代表を務める。現在は京都にある仏教大学の教授である。私は坪内稔典氏の著作は岩波新書の、 坪内稔典著 「季語集」(岩波新書)、坪内稔典著 「俳人漱石」(岩波新書)を読んだ。そして本書が3冊目である。岩波新書で活躍する俳人はめずらしい。「e船団」のホームページを覗いてみると、何か庶民的な、そして分りやすいキャッチコピー的な句が楽しめる。本書は講談社版「子規全集」に依拠して、子規の文・俳句をまず冒頭において進める評伝風の「小話」(3-4頁)を時代順に並べてゆく手法である。読み切り風の短文であるので読みやすい。言葉にしのぎを削った俳人の文章は、論を展開するのではなく、短くて人の心に落ち着くのである。掲出されている子規の文は小学校の作文から、妹律の回想文、小学校時代の回覧雑誌の雑報、「漢詩稿」、中学校時代の演説文、友人への書簡、大学予備門時代のノート「筆まかせ」、詩歌集「七草集」、東京大学文学部時代の俳句「啼血始末」、「読書弁」、漱石宛の書簡、木曾紀行文「かけはしの記」、「獺祭書屋俳話」、新聞「日本」俳句時評「芭蕉雑談」、新聞「小日本」小説「月の都」「間遊半日」、五百木瓢亭宛書簡、「俳諧大要」、新体詩「父の墓」、新聞「日本」連載「松羅玉液」、「俳人蕪村」、「病床日記」、「歌よみに与ふる書」、百人十首、河東銓宛書簡、「ホトトギス」、「小園の記」、はがきうた、伊東左千夫宛書簡、「墨汁一滴」、「命のあまり」、「仰臥漫録」、「病床六尺」、「絶筆三句」などである。私は子規の本としては「仰臥漫録」、「病床六尺」しか読んでいない。したがって、たとえ1節だけでも子規の書に出逢えるのは子規への理解が広がった気がする。これが読書の手始めとしては重要なのである。
(つづく)