ブログ 「ごまめの歯軋り」

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入試不正 学歴格差深刻

2011年03月01日 | 時事問題
asahi.com 2011年3月1日3時0分
入試投稿、警視庁も捜査へ 偽計業務妨害などの疑い
 京都大学(京都市)など4大学で入試問題の一部が試験中にインターネット上の掲示板に投稿された問題で、警視庁は、今回の行為が入試業務を妨げた偽計業務妨害などにあたる疑いがあるとみて、捜査に乗り出す方針を固めた。早稲田大(東京都)と立教大(東京都)が28日、警視庁に状況を報告した。

橘木俊詔著 「日本の教育格差」より学歴社会の実相
学歴社会の基本的特徴とは、卒業した学校によって、その人の人生経路が変わるということだ。有名大学(一流大学、ブランド大学)と役職につくチャンスの問題である。社長、役員という職に就く確率の多い大学のベスト10は、京都、一橋、慶應、東京、神戸、早稲田、名古屋、中央、横浜国大、大阪市大というところである。現在の企業の最高経営者の28%は東大、9%は京大、一橋、7%は慶應、5%は早稲田というところである。現在高校への進学率は1980年以降95%で、大学への進学率は2000年以降50%である。これだけ大学生の数が増えると、大学入学の間口が広くなり有名大学からそうでない大学までの格差がますます大きくなった。1990年代より少子化の時代に入り、大学経営の点から、学力選抜試験から無試験に近い大学まである。2000年以降の不況から高校卒業者の就職難から大学へ入学する学生もあり、少子化現象から大学全入時代も噂されている。こうした大学大衆化路線は私学を中心に行なわれ、高い授業料を修めて卒業しても、昔のような大卒のプライドも待遇も無い、むしろ非正規社員の道しかないような就職状況が待っている。
東大に何名入学という分りやすい教育数値目標を提起して先生と生徒を競わせる教育である。日本の特徴である学校外教育費用(塾など)と成績の関係を文部省が調査した。月当たりにかける学校外教育費に比例して算数の学力が上がるという恐るべき結果が出ている。月5万円以上の金をかけると算数の点数が2倍になるという。

前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年03月01日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第9回

2) 中央アジアの国々
 跋禄迦国(バールカー、姑墨)はタクラマカン砂漠の北西にあり北道の国である。ここから天山山脈を越えることになる。西域で勢力のあった5国、阿耆尼国(焉耆) 、屈支国(クチ、亀茲)、疏勒(カシュガル)、ぜん善(ミーラン)、(ホータン)のひとつである。姑墨には伽藍が数十箇所、仏僧は千人いた。文字は屈支語とおなじブラーフミー文字であるが、言語はトカラ語とは少し違うと記している。ここは1泊だけで温宿に向かった。西突厥の葉護可汗の居城に向かう近道として天山越えを勧められていたからで、ペダル峠の基点である温宿に入った。天山(凌山)はいま中国とキルギスの国境をなしており、玄奘一行のうち凍死したものは10人中3、4名、牛馬はそれ以上に失われたという。ペダル峠を越すと西突厥の国で古くは烏孫の故地である。後漢の2世紀に玄奘とは逆の方向を歩いて中国に入り中国における訳経の祖といわれる安世高は隋代の安国(ブハラ)の出身で、康国(サマルカンド)と同族であった。その安世高に思いを致しながら玄奘は天山を越えて大清池(イシック・クル 塩湖)を廻って素葉城(いまのトクマクの南)に着いた。騒然と活気に満ちた国際的な公易と中継市場の町であった。玄奘は西突厥の葉護可汗(ヤブグカガン)に面会し、高昌国の王麹文泰からの親書と貢物を渡した。玄奘は統葉護可汗の容姿を記録しているがそれは絵に描かれた長髪の突厥人の姿そのものであった。玄奘は国賓級の管弦の宴に招かれ、曲、食物の記録を残した。食後短い説法を行なったという。玄奘は数日滞在して出発したが、王は玄奘に通訳をつけて各国への通達書を持参させ、絹50疋を持たせ迦畢試国(カーピシー)までの安全を保障した。西へゆくと千泉(メリケ)という突厥可汗の夏宮についた。千泉を過ぎてタラス城、白水城を経由して赭時国(石国)に至った。石国は胡六国(康、米、曹、安、石、史)のひとつである。このあたりは突厥、ソグド人の胡商や諸国の公易が盛んで宗教はゾロアスター教、マニ教、ネストリウス景教などが雑居している状況であった。漢の時代に張騫が訪れ「史記」に記された「大宛」の故地も近い。そして更に南進しストリシナ国についたがここも突厥の支配地であった。ここから西北に向かい颯秣建国(サマルカンド、康国)に着いた。紀元前5世紀にマケドニアのアレクサンドル大王が攻め入った所である。天山を越えてからは一番大きな国であった。ここが王立連合国家群である胡国六国の中心で壮麗な壁画がソグド文化の国際性を彩った。宗教はゾロアスター教である。玄奘は高昌国の王麹文泰と統葉護可汗の親書を康国の王に渡して謁見した。王に仏教振興を訴え、一人僧を出家させ一寺を設けたという。玄奘は見なかったが、康国の歴史や国際関係の豊かさを伝える「アフラシアブの壁画」があり、サマルカンドの王ワルフマーンが主宰する新年の祝祭に各国の使節が臨む様子が描かれている。サマルカンドからさらに西へゆくと弭秣賀国(マーイムルグ、米国) 、喝捍国(カリガーンカト、東安国) 、捕喝国(ブハラ、中安国) 、伐地国(戊地国、西安国)、 羯霜那国(ヶシュ 史国) へ玄奘は急ぎ足で駆け抜けた。従って記述は極めて簡潔であった。羯霜那国(ヶシュ 史国)から西南に行くと山に入る。1300メートルの峡谷に「鉄門」という絶壁が阻む峠があった。アレクサンドル大王も逆の方向でこの鉄門を通過したという。
(つづく)

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月01日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第18回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語(7)
*抽斎没後11年は明治2年(1868年)である
4女陸23歳が矢川文一郎に嫁した。陸には母の愛は少なかったが、よく出来た娘で少しも婚を急がず家事をよく見た。文一郎29歳が婿入りをしたようなものであった。矢嶋優善のかっての妻だった鉄を引き受けた五百は鉄と優善の再婚を希望したが、壊れた夫婦仲はもとに戻らず優善が失踪した。比良野貞固は無一文で弘前に戻った。五百は刀35振りを質に入れ25両を借りて貞固の世話をした。
*抽斎没後12年は明治3年(1869年)である。
弘前藩士の録に大削減が加えられ、さらに医者の降格が命じられた。成善は儒者として奉じていたのだが、渋江家は代々医師であったため降格され30俵の録となった。一方失踪していた優善は東京に舞い戻り、芸者街で居候していたが、悪友塩田良三が浦和県に出仕していた伝で、浦和県に職を得た。典獄となった。専六は戸沢惟清の世話で山口源吾の養子になり東京へ移住した。抽斎の6女水木が18歳で馬役村田広太郎に嫁した。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「遊糸千條」

2011年03月01日 | 漢詩・自由詩
新陽風動影揺揺     新陽風動て 影揺揺

水浅留寒花信遥     水浅く寒を留め 花信遥なり

江畔淡霞煙一色     江畔淡霞 煙一色
 
遊絲方是柳千條     遊絲方に是れ 柳千條


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(韻:二蕭 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」、「4つのノルウェーの情緒」

2011年03月01日 | 音楽
ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」、「4つのノルウェーの情緒」
リッカルド・シャイー指揮 クリーヴランド管弦楽団
DDD 1985 LONDON

ストラヴィンスキー(1882-1971)は1910年「火の鳥」で鮮烈なデビューを果たし、ロシアバレー団とともに一躍注目の人になった。「春の祭典」は1913年の初演で、むき出しのエネルギーは当初聴衆の反感を買ったそうだ。