ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月02日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第19回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語 (8)
*抽斎没後13年は明治4年(1870年)である。
医師を降された渋江成善15歳は、東京へ私費留学に向かうことにした。藩は士族の脱籍者を嫌っていたので、藩の大参事西舘孤清の了解を経て東京に行った。当時東京にいたファミリーとしては、山田家に養子に入っていた兄専六が本所割下水にいた。姉安が両国にいた。兄矢嶋優善は浦和にいた。成善は英語を学ぶため、尺振八の経営する本所の共立学舎に通った。さらに成善は海保竹逕の伝経塾、大学南校にも通い、フルベックの個人授業も受けた。学費は五人扶持のうち3人扶持で賄った。8月には弘前県が成善を神社係りという名目で金3両の手当を支給した。浦和の典獄になって勤めていた兄の矢嶋優善が結婚して、埼玉県に職を得た。県の役人はなかなか派振りがよかったそうだ。この年斬髪令が出て、改名をおこなった。成善は保に、優善は優に、専六は脩となった。
*抽斎没後14年は明治5年(1871年)である。
弘前にいた平井東堂が没した。59歳であった。保(16歳)は山田脩の家から本所横綱町の下宿に移った。5月には弘前より母五百(57歳)、陸、矢川文一郎と妹陸夫婦も東京へ移住してきた。保は給費10円が支給される師範学校への入学がかない9月より通学した。この年には弘前から再び東京に移る人々が多かった。五百の兄比良野貞固もその1人であった。妹陸が本所緑町に砂糖店をひらき、繁盛したという。
(つづく)


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