できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

悲しみを抱えた数多くの人たちといっしょに暮らす社会をつくるために

2020-04-01 10:18:08 | 私の「仲間」たちへ

今日は4月1日。2020年度が今日から始まりました。

とはいえ、私の勤務校も新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、入学式は中止。

また、新入生関連の行事や在学生のオリエンテーションも、新入生に学生証と配布物を渡す程度にして、他のものは4月19日まで一切中止。

それどころか学内の主だった会議も中止か延期、4月19日までは食堂も売店も休み、クラブ・サークル活動も中止で、大学として、学内に学生は「できるだけ来ないで」という連絡をしました。

なので、この新年度開始からも当分のあいだ、私は家に居ることになりました。

ちなみに、現時点での新学期授業開始は4月20日(月)を予定しています。ただ、これもどうなるかわかりません。

さて、そんな状況のなかで・・・。

おととい、志村けんさんが亡くなったニュースを聴いてから、ずっと考えていること。

また、たぶん、他の誰でもなく、私がこの課題を引き受けて考えていきたいと願うこと。

それを、新しい年度のはじまりに書いておきます。

今後、新型コロナウイルスの感染拡大がおさまるまで、まだまだ時間がかかると思う。また、そうなると、悲しいけれども、何人かの方が亡くなると思う。さらに、たとえ幸いにして回復したとしても、呼吸器関係の後遺症を抱えながら暮らしていかなければいけない人もいると思う。そして、亡くなった方の遺族も、後遺症を抱えながら暮らす人の家族もいる。あと、次々に亡くなる方を前に、なにもできなかったことを悔やむ医療の専門家も出るでしょう。

こういう遺族・家族や、後遺症を抱えながら暮らす人、何もできなかったと悔やむ専門家たちを、私たちのこの社会はどのように大事に受けとめて、共に生きていくことができるのか。新型コロナウイルス感染症がもたらした悲しみや苦しみとともに、それでもなお生きていかなければいけない人たちと、私たちはどのような作法で向き合っていくのか。

いままで学校事故・事件の事後対応、特に被害者家族や遺族のみなさんの諸課題について考えてきた自分は、この「新型コロナウイルス感染症がもたらした悲しみや苦しみとともに、それでもなお生きていかなければいけない人たち」の課題とも向き合っていく。こういう人たちを大事に受けとめられるような社会のあり方を考えていく。今後は、そういう仕事にも取り組んでいきたいなあって思います。

ちなみに私、他の大学教員のみなさんが関心を持っている「遠隔授業のやり方」がどうのとか、そんな話には「あまり、興味わかない」状態です(どうしても必要に迫られたら、嫌でもやると思いますが・・・。私にとってのパワーポイントの使用と同じですね・・・)。

むしろ今は、感染症のリスク管理が個々の人間と社会もたらす負の側面とか(ほんとうに「都市封鎖」なんてやってしまったら、その間、さまざまな経済的・社会的な活動が止まってしまうわけで・・・)、その負の側面を緩和するための新しい福祉国家のあり方とか、そして、この「新型コロナウイルス感染症がもたらした悲しみや苦しみとともに、それでもなお生きていかなければいけない人たち」のこととか。そういう課題ばかりが気になって仕方がありません。なんか、この機会に、まじめに人文系の研究者として考えておきたいことが多くて・・・。

あとは、この際、世界史・地理・日本史の「お勉強」をすることくらいですかねえ、いま、関心が向くのは(新年度から「社会科公民科教育法」に加えて、「社会科地歴科教育法」という科目も担当しますので)。

ということで、忘れないうちに、おとといから自分が考えていることをまとめておきますね。

(フェイスブックに昨夜書き込んだことに加筆修正を行って、こちらに転載しておきました)


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