(フロントランナー)教育社会学者・内田良さん クールに「教育という病」分析
2018年8月4日03時30分 朝日新聞デジタル(有料記事)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13617757.html
「「学校でのスポーツにケガはつきものとの思い込みや、ケガをしながら試合に出るのを『感動』と結びつけるような風潮には危うさを感じます」。多くの人が無批判に「善きもの」と信じる教育は、時に深刻な思考停止をもたらし、暴走すると警鐘を鳴らす。」
この記事の文中に出てくる内田さんの言葉ですね。
有料記事だから、リンク先にある文章自体が読めない方もいるかもしれませんね。
もちろん、記者さんが切り取っているので、どこまでが正しい言葉かはわからないわけですが。
また、内田さんがこれまで指摘したり警鐘を鳴らしてきたことのすべてがダメだという気もありません。
ただ、多かれ少なかれ、この内田さんのような「教育」や「学校」の「病理」を指摘するタイプの議論は、次のようなかたちで、「教育」や「学校」への本人の依存度を示すものでもあります。
1つめは、この手の議論を続ければ続けるほど、その自らの議論における「批判や非難の対象」として、常に「教育」や「学校」に何か「病んでいる部分」を見出しつづけなければならない、ということ。
たとえば柔道事故、組体操事故、「二分の一」成人式、教職員の多忙化、といった具合に。
2つめは、その「病んでいる部分」を指摘し続けることの裏返しとして、どこかにこの手の議論が「望ましい」とする「教育」や「学校」のイメージを「生産」してしまう、ということ。
それこそ、この手の議論から生まれる「望ましい学校や教育」のイメージは、「教職員が子どもたちにとって危険なことは一切しないで、ひたすら教室での学習活動にのみ励んでいて、勤務時間を過ぎたらさっさと帰る」というイメージですね。
3つめは、その自らの議論が生み出している「望ましい学校や教育」のイメージについては、何ら、批判や非難を行ったりはしないということ。
実は2つめのところに書いたイメージは、昨今「働き方改革」の名の下で文科省が積極的に推進しているような取り組みともきわめて親和的。
つまり内田さん的な議論を前提にすると、今後は文科省のいうとおりに、「勤務時間の適正化」と「チーム学校構想」のもとで、「教職員には教室での学習活動を最大限、効率的に行うこと」を求めるかわりに、部活動指導員などの人材を積極的に投入して、なにかと「外部委託」でしのごうという、そういう学校や教育のあり方を「生産」していくわけですね。
だから、結果的に、内田さん的な議論は、文科省のすすめる今後の学校改革をどこかで「肯定」してしまう。
でも、その文科省のすすめる今後の学校改革や、そこで営まれる「教育」に対して、彼のような切り口からは「病理」を見ようとしないわけです。
なので、もしも今後、文科省のすすめる学校改革やそこで営まれる「教育」に対して、彼や彼に影響を受けた人々がどういう立場を取るのか、たいへん見ものだなあって私は思っています。
たとえば、もしも彼や彼に影響を受けた人々が、文科省のすすめる学校改革やそこで営まれる「教育」を称賛するのであれば、彼らは自分たちにとって望ましい学校や教育のイメージから、それに合わない従来の学校や教育の姿を批判・非難してきた、ということになります。
そうなったときに、彼や彼らの学校や教育への批判的なまなざしは、「自分たちにとって望ましい学校や教育」を除外するかたちで成立してきた、ということが明らかになります。
一方、彼や彼に影響を受けた人々が、今後の文科省のすすめる学校改革やそこで営まれる「教育」にも批判的なまなざしを向けたとしたら、学校や教育に「病理」を見出すという視点は一貫します。
でも、自分たちの議論が、文科省のすすめる学校改革やそこで営まれる「教育」に一時期、親和的であったことについては、その時、彼らはどのように考えるのでしょうか。
こうやって考えていくと、「多くの人が無批判に「善きもの」と信じる教育は、時に深刻な思考停止をもたらし、暴走する」という言葉を、そっくりそのまま、彼や彼に影響を受けた人々にもお返ししなければいけない場面があること、ありうることに気づくと思います。
なので、そのことを今のうちから、このブログで私は指摘しておきたいな、と思います。