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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

古い文献を読み直そう(その3)

2009-08-08 08:55:33 | いま・むかし

しばらく更新が途切れがちになっていたのですが、この夏休みくらいはできるだけ時間を見つけて、こちらのブログの更新をこまめにやっていこうと思います。そのときに比較的書くことを見つけやすいのが、解放教育や人権教育、子どもの人権関係の文献にかかわる話。これだと、家にいてもいろいろ書くことが思いつきますので。そこで、今回からまたしばらく、古い解放教育関係の文献などから、思いつくことを書いてみます。

今、私の手元に、『双書解放教育の実践』(解放教育研究会 中村拡三・福地幸造編、明治図書)という4巻本のセットがあります。これは1960年代末~70年代はじめに、解放教育運動が高まった頃に出された本です。この双書の第1巻は『解放運動と教育』(1970年)で、ここには、次のような中村拡三の言葉が出てきます。(以下、色のちがう部分は、この本からの引用です。)

解放教育を形造ろうとするなら、の子どもたち、親たちの現実のすがたに徹底的に依拠しなくてはならない。その現実に、そこから生まれる要求に、運動の形造る人間の変革に。そこから子どもをみる、教育をみる、である。こちらから、そちらを、ではない。解放教育だからというのではない。教育の対象であり主人公であるところのもの、そのものに依拠すること、それがなくてはどんな教育も成りたたないであろう。(p.12)

あるいは、中村拡三は、各自治体レベルでの「同和教育」に関する研究組織や教職員組合などにかかわっていながらも、実際のの子どもや保護者からのさまざまな要求にうまく対応しきれない当時の教師たちに対して、次のようにも述べています。

つまるところは、自分の姿に応じてしかと教育をとらえられない。自分の姿ににせて解放教育をとらえようとする。と自分みずからにあるものとの矛盾を解決していくすべを知らない。教師・教育の頽廃は、ここから生まれてきている。(p.12)

これは本の出版時期から見て、あくまでも1960年代末頃の状況を、中村拡三の立場から見ての話です。そのことを一定、ふまえた上でも、私としてはなお、この中村拡三の言葉に、「解放教育」なるものの「原点」のようなものを感じます。

大阪市の青少年会館(青館)条例廃止をめぐる諸問題にかかわり始めて、私はこれでもう3年近くたつことになります。なにしろ廃止方針が打ち出されたのは、2006年8月のことですからね。それ以来、条例がなくなってからあともひきつづき、青館所在の各地区の子どもや若者、保護者、地元住民や、元青少年会館職員、地元の解放運動の関係者のみなさんと、いろんな形で接点を持ち続けてきました。また、ここ最近は、もと青館周辺の公立小中学校の教員のみなさんとも、徐々につながりをつくりつつあります。

私としては、青館条例廃止以後の各地区のみなさんの状況を知れば知るほど、自分に何ができるのかを考えたいと思ってきましたし、実際に動けることを見つけて動いてきました。相当くたびれつつありますが、今もなお、その気持ちには変わりはありません。

そして、こうしたかかわりを続ける中で、私としては、本来「解放教育」なるものは、実際にその当事者の人々の声を聴き、生活をともにしながら(あるいは、外から入ってくる人であれば、繰り返し間近に見ながら)、そこでいっしょに悩んだり迷ったりしながら、子どもや保護者、地元住民などと現場の実践者、研究者などが、いっしょに何かを創りだそうとする営みではないかと感じ始めました。また、私はその営みのなかに、何か「解放教育」の「原点」とでもいうべき大事なものがあるように思えてきました。

そういうなかであらためて中村拡三の書いた上記のような文章を読むと、「ああ、やっぱりそうなのだ」と思うわけですね。つまり、時代状況や社会情勢がいろいろ変わったとしても、被差別の子どもや保護者、地元の人々の暮らしにできるかぎり近接して、そこから何が教育の課題なのかをつかむということ。その作業がやっぱり、大事なのだと思うわけです。

一方、研究者であれば、自分の研究テーマや研究方法の側から、自分たちの関心に必要な範囲で、被差別の子どもや保護者、地元の人々の暮らし、あるいは地元学校・保育所などでの諸課題を切り取って、あれこれ論じることができます。また、そのような研究者たちの関心にしたがって切り取ったものに対して、別の観点からほかの研究者が批評を加えることも可能です。

しかし、そのような研究も批評も、被差別の教育課題をいろいろ取り扱ってはいても、はたしてそれが、どれだけそこに暮らす当事者や、その現場で活動している人々の切実な課題意識に通じているかといえば、それはよくわからないところです。そう考えると、「解放教育」に関心がある研究者であれば、自分たち研究者の興味関心や課題意識がどこまで当事者や現場で活動中の人々のそれとつながっているのかを、折に触れて問い直す必要があるのではないか、とも思うわけです。なにしろ、「自分の姿に応じてしかと教育をとらえられない」と中村拡三がかつて言ったわけですが、研究者が一生懸命「解放教育」や「人権教育」を論じていても、それは当事者や現場で活動する人々の切実な課題意識とつながりがないところで、自分たちの興味関心だけを深めているということも、もしかしたらしばしば、起こりうることかもしれないからです。

このような次第で、古い文献を読み直すと、いろいろと気づかされることが多々あります。これからもしばらくの間、こうした古い文献を読んでいて感じたことをまとめる形で、こまめな更新を心がけたいと思います。

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