できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「ほんまもん」を見分ける、「ほんまもん」になる

2008-07-12 10:34:42 | 学問

ひさびさの更新になります。この間、どのくらいの忙しさだったかは、もうひとつのブログを見ていただければおわかりのとおりかと思います。

さて、今日のタイトルは<「ほんまもん」を見分ける、「ほんまもん」になる>というテーマ。このことを書こうと思ったのは、大阪市内のある地区で識字教室の活動にかかわっている方とのメールでのやりとりがきっかけです。少し長くなりますが、その方とのやりとりで思ったことを書きます。

あの飛鳥会事件発覚から、気づけばもう2年。大阪市の青少年会館事業の「解体」、条例廃止から、もうすぐ1年半になろうとしています。この間、まずは条例廃止反対の動きがあり、その後、事業「解体」が本決まりになってからは、市内12ヶ所の青少年会館所在の各地区で、地元住民や保護者たち、地元の若者たちなどが中心になって、「自主サークル」等のかたちで、市民利用施設になった旧会館をつかって、子どもに関する諸活動が営まれてきました。また、事業があった時代から引き続いて、識字教室の活動を含め、おとなたちの学習・文化活動やスポーツ活動が、旧会館の施設を使って営まれています。

正直なところ今もなお、私としては、「なんだかんだといいつつ、地元からこれだけ今もなお利用している人たちがいるのに、なぜ青少年会館事業解体だったのか? なぜ条例廃止だったのか? そういうことをとらなくても、公設民営方式など、別の枠組みで運営する方法もあったのでは?」という言いたい思いがあります。特に、地元の小中学生や高校生が何かあったときに「ふらっと立ち寄って、相談をしたり、学習・文化活動面でのサポートを受けたりすることのできる公的機関」の不在というもの、これは早急になんとかしてほしい、という願いがあります。

ですが、そういうことを訴えていくにも、その前提として、地元の人々の旧会館利用が多様な形であってのこと。また、地元から「もっと、こういう形で旧会館が利用できたら」「もっと、旧会館をつかって、こういう活動をやってくれたら」という希望があってのこと。ですから、私としては、今はまず、市民利用施設として位置づいている旧青少年会館を、積極的に地元住民や保護者、若者などが使いこなすのを、こちらとしては側面から支援していくという、そのことにまずはエネルギーを注ごうと思っています。

と同時に、青少年会館の事業解体や条例廃止という事態を迎えても、「それでもなお、地元の子どもや若者、その活動を必要としている人々のために、なにかやりたい」という願いを持って、旧会館での諸活動にかかわろうとした人が、どのくらいいるのか。きっと、そういう条件の悪いなかでも、「これだけは大事に守りたい、続けたい」という願いって、ほんとうに深いものだと思うんですよね。

たとえば、大阪府や大阪市などの行政施策の縮小や廃止などによって、活動の条件がどんどん悪くなっていく中でも、「それでも、私たちにはこうした活動が必要なんだ」と思い、子ども会づくり、中学生や高校生の居場所づくり、識字教室の活動、和太鼓その他の文化活動・スポーツ活動などに取り組む。そういう人々の思いって、やっぱり、「ほんまもん」だと思うんですよね。たとえ条件が悪い、悪くなる一方の状況のなかでも、人間として、あるいは同じ地域に暮らす仲間として、「こういう活動に取り組むことで、大事な何かを守り育てたい」と願っている。その思いが「ほんまもん」なんですよね。

逆にいうと、今、どういう形であれ、旧青少年会館での諸活動にかかわりながら、その「ほんまもん」の思いをお互いに共有しようとしている人たちとか、あるいは、小さくとも他の人たちとかかわりながらその「ほんまもん」の思いを育てようとしている人たちというのは、なにが「うそっぱち」で「まがいもの」なのかも、よくわかるようになってくるんじゃないでしょうか。

たとえば、今まで自分たちの仲間だと思ってきたような人権教育の研究者・活動家だとか、人権問題に関する運動体の関係者であっても、机の上で「きれいごと」だけ言っているような人と、自分も「ほんまもん」になろうと、今、泥まみれになって大阪市内の各地区の人々と交流し、旧青少年会館での保護者や地元住民、若者たちの間に入っていこうとしている人とのちがい。こういったところで、研究者や活動家、運動体関係者がどのくらい「ほんまもん」なのか。地元で苦労している人たちの側の感性が磨かれてきて、何が「ほんまもん」なのか、鋭く見抜く力が育ってきているのではないでしょうか。

あるいは、人権教育や人権問題に関する諸活動のなかで「エンパワメント」なる言葉が今、はやっています。特にもの書きの世界で暮らしていて、自分の身を安全地帯におきながらこの言葉を発するのは、とても簡単です。

だけど、旧青少年会館でさまざまな取り組みを始めている保護者や地元住民、若者たちにとっては、「自分らとしんどさを共有し、共に悩み、共に動いてくれる人」の存在を感じ取れるような、そんな営みに触れることこそ「ほんまもん」の「エンパワメント」なのではないでしょうか。また旧青少年会館で一生懸命活動している人たちが、お互いに励ましあい、支えあっていけるような「ほんまもん」の人たち・「ほんまもん」の営みに出会える機会を、できるところから地道につくっていくことこそ、「ほんまもん」の「エンパワメント」ではないのでしょうか。そして、こういう「ほんまもん」の「エンパワメント」を、今、私たちなりにできるところから追求していくことのなかで、運動体の再建も、人権教育論や人権問題に関する諸活動の実践論も、今まで以上にレベルアップしていくのではないでしょうか。

ついでにいうと、ソーシャルワーク論の世界では、「エンパワメント」という概念は、アメリカ社会で貧困や被抑圧・被差別の立場にある人々の生活をサポートする実践のなかで生まれてきたとされます。また、その置かれている社会的な環境のなかで減退したパワーを、被差別や貧困といった課題に悩む当事者が取り戻し、さらに力をつけていく。そのプロセスに支援者が適切にかかわっていくこと。そういう意味が、「エンパワメント」という言葉にはこめられています。そして「エンパワメント」という言葉には、、必要に応じて、当事者が支援者とともに、その社会構造の変革に向けて共に立ち上がっていくという、ソーシャルアクションの営みも含まれているのではないでしょうか。

だから私は、今、遅々として進まなかったり、いざこざがあったり、悩んだり迷ったりしているかもしれないけど、旧青少年会館を使って、地元の子ども・若者たちのために何か活動を始めようとする人々や、あるいは、自分たちのために何か活動しようとする人たちの「変わりうる可能性」を信じます。また、日々の旧青少年会館での活動のなかで、みなさんが「ほんまもん」を見分ける感性を研ぎ澄ませていく、その可能性も信じます。そして、旧青少年会館で活動中の人々とかかわるなかで、私自身が「ほんまもん」になる、その可能性にかけてみたいという思っています。それがきっと、大阪市内の社会教育・生涯学習の領域や、あるいは、青少年活動の領域での、「ほんまもん」の「エンパワメント」の実践につながるんではないかな、と思うからです。

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