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tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

能登半島の最先端狼煙へ

2017-05-29 21:05:11 | 旅行
5月29日(月)
旅の空は青空が大きく広がっております。
輪島市内の観光を終えて、能登半島の最先端まで行って来ました。
「能登はやさし土までも」といいますが、海沿いの道を、家並みの美しさと海の青さを堪能しながらのドライブです。

今日は珠洲市の内海に泊まっております。
部屋から真っ青な海が見えます。
明日は、最終日ですのできおつけながら旅を楽しんで行きたいと思います。

今日もスマホからupです。

能登半島に来て

2017-05-28 21:25:47 | 旅行
5月28日(日)
過ごしやすい一日でした。
今日は朝早く出かけて、能登半島に来ております。
初めて北陸新幹線に乗って、金沢まで来ました。

駅前でレンタカーで出発です。
羽咋で由緒ある寺をめぐり輪島に来ております。
明日は、輪島市内を観光して、能登半島最先端に行きます。

今日は写真がありません。

平林寺僧堂の紅葉は・・・

2016-11-26 18:03:24 | 旅行
11月26日(土)
朝雨戸を開けた時の静かさで、何となく出かけて見たい心境になり、朝ごはんを食べながら、「今日は静かそうだし出かけて見ない?」そんな会話から出かける事になりました。
さあ~。それからが大変です。

   
   平林寺総門

ここから入って行きます。ここから、禅宗の代表的な建築方式で本堂まで一直線上に並んでおり、総門には金鳳山という山号が掲げられております。

   
   山門

この山門が良く写真などで平林寺を紹介する時に掲載されております。
今丁度紅葉が見頃を迎えておりました。

   
   境内

平林寺の境内は自然林で、よく武蔵野の風情を残しております。

   
   雑木林

この林の中を抜けると、大きな五輪塔の並ぶお墓にでますが、大河内松平家の墓所です。

      
   墓所への参道

一般の人は通る事は出来ませんが、正式な参道になっておりまして、特別な方のみが歩けるところだそうです。
ちなみに、平成21年に、天皇陛下が平林寺に行幸された時には、ここを歩かれたという事です。

   
   松平伊豆守家綱の廟所

「智恵伊豆」と呼ばれるほどのお方で、三代将軍家光を補佐し続け旗本から大名になった数少ない人物でもあったそうで、立派な廟所に奥様と並んで埋葬されております。
こうした大名一属のお墓が一か所にまとまっているのはあまり例がないという事です。

   
   紅葉

先日の雪を照らした日差しに紅葉が一層の輝きを増しております。

   
   睡足軒の森

ここ睡足軒の森は、茶人松永耳庵の屋敷であったところで、広大な森になっております。
そんな中で、呈茶席がありましたので寄って一服頂いて参りました。

1時間半くらい歩きましたので、一服のお茶は丁度良い休息になりました。



五浦海岸と岡倉天心の続きは・・・

2016-10-29 17:35:30 | 旅行
10月29日(土)
昨日からの雨も上がり、爽やかな秋晴れでしたが、午後から強い北風が吹き出し、今も木々を大きく揺らしております。
昨日の拙ブログで書き洩らした事がありますので、追記させていただきます。

五浦海岸の天心邸の展示室に入ると、直面するのが岡倉天心の金箔押のブロンズ像です。

   
   天心像

作者は、平櫛田中で、昭和6年東京美術学校校庭に岡倉天心のブロンズ像を作った時の、上半身の石膏から鋳造したものだそうです。

   
   五浦釣人像

展示場中央に展示されておりました。
この作品も平櫛田中で、天心像を数多く作っておりましたが、その中のひとつだそうです。近くで見るともの凄い迫力です。

   
   小山評定跡

徳川家康が評定を開いたと伝えられている小山市役所に寄って見ましたら、小山市役所の正面前庭に「小山評定跡」という石碑が、場所違いの様に建っておりました。

徳川家康が、慶長5年(1600)7月、上杉景勝討伐のため会津に向かい大軍を進め、ここまで来た時に、進軍をやめて留まった所だといわれております。

誰もがいぶかる中、じっと石田三成の挙兵を待っていた家康が、三成が動き出した事を聞くや、諸将を集めて評定を始めますが、誰もが、家康に味方することを誓ったために、軍を翻して、三成との決戦に出発したところです。
そして、関が原で勝利して徳川幕府を開いたのです。

   

小山市野ホームページを見ますと、「ここでの評定によって徳川家が幕府をひらくことが出来た・・・」小山市は「開運のまち」だと宣言しております。

五浦海岸 岡倉天心を訪ねて

2016-10-28 19:11:55 | 旅行
10月28日(金)
朝から雲が広がっておりましたが、午後には降り出してしまいました。
昨日から出かけておりましが、夕方には無事に帰って来ました。

今日は宿から真っ直ぐに向かったところは、五浦海岸でした。

   
   六角堂

この六角堂は、岡倉天心遺跡のシンボルでありましが、東日本大震災の津波より流失してしまいましたが、復興予算や多くに人達の寄付によって、一年後には創建当時の姿に再建されたと云います。

   
   六角堂内部

海に飛び出しているような崖の上ですので、小さな建物ですが、杜甫の草堂である六角亭子の構造だと云われております。
屋根の如意宝珠は仏堂、内部は炉が切ってある茶室の役割など、アジアの伝統思想がひとつの建物に表現されているそうです。

   
   天心邸

この地に移り住んだ天心が生活の拠点としていた邸宅だそうで、東寺のまま残されています。

   
   ハマギク

この天心邸の中は、見学順路脇には、真っ白なハマギクと黄色のツワブキが一面に植え込んであります。

   
   天心の墓所

見学がおわり、駐車場に向かう左手奥のちょっと高い所に、天心の墓所がありました。
埋葬は東京で行われましたが、天心の希望で、こちらに分骨されたそうです。

今時珍しい大きな土饅頭のお墓でした。
天心らしい・・・

   
   天心記念五浦美術館

ここに、岡倉天心記念館・展示室があります。
落ち着いた雰囲気の中に、天心愛用の茶道具や書簡、そして横山大観等の大作などが展示されております。

今回の最大の目的は、ここ五浦海岸に行くことでしたので、ゆったりと時間を気にせずに拝観することが出来ました。
「茶の本」を著し、世界に日本の茶道を紹介し、それに伴って、日本文化を全世界に知らしめた最大の功労者だと思っております。

もう一度、「茶の本」を読んで見たくなりました。


水族館でリフレッシュ

2016-10-27 17:44:45 | 旅行
10月27日(木)
朝から秋らしい爽やかな一日でした。
明日の金曜日の授業がお休みですので、ちょっと息抜きにでかけてみました。
前から行って見たいと思っていた水族館です。

  
  サメとイワシ

水族館の大水槽の中に、イワシの群れが出来ており、そんなにところにサメが泳いでおります。
イワシの群れは、群れごと右往左往しており、サメが近くに行くた度に、食べられないかと心配してしまいます。
自然の動物たちは、お腹がいっぱいなら決して他の生き物を襲わないそうです。

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    海の中か?

水族館に入るとすぐの水槽にたくさんのイワシが泳いでおりました。
すぐ後ろにいた数人の老婦人が、「わーイワシだ」そこまでは普通でしょうが、そのあと一言「きれい、美味しそう、食べたいね」だったので、思わず後ろを向いてしまいました。目があって、思わずニッコリ

そんな水族館を楽しみました。








親鸞聖人の足跡を訪ねて

2016-10-16 08:06:41 | 旅行
10月16日(日)
朝から秋晴れの爽やかな一日になりそうです。
先日「親鸞聖人の足跡を訪ねて」と云った小旅行をいたしました備忘録的ブログになります。

朝早く出発してひたすら目的地に向かい、午前8時30分、予定通り「板倉草庵」に到着いたしました。

   
   性信上人像

この場所を管理されている方々が待っていてくれました。
普段は拝観するは出来ませんが、事前にお願いをして置きましたので、拝観させていただけました。

以前は、「佐貫草庵」とよばれ、栃木県の佐貫が、親鸞聖人の関東での最初の草庵とされておりましたが、調査研究の結果、群馬県板倉町だという事が証明されて、今に至っております。

ご高齢の世話人の方が、かぼそい声で親鸞聖人と性信上人との話をしてくれました。
性信上人は、鹿島神宮神官の家系に生まれ、幼いころから悪童腕白であったが、青年になると紀州熊野権現に参篭しての荒行を行い、京に上り、法然上人に帰依し教えを乞うたが、上人は高齢のため善信房(後の親鸞聖人)に託したと云われております。

若き親鸞と生涯初めての子弟の契りが結ばれ、法名を『性信』と賜り弟子になり、親鸞のいる所必ず性信房の姿ありと云われるほど常髄眤近(じっきん)の弟子となった岡だそうです。

   
   小島草庵

越後を後にした親鸞聖人が、上野国板倉を経て常陸の国に入って最初に居住したのが、「小島草庵」であります。

   
   小島草庵跡

この草庵に3年間逗留していたといわれております。
この草庵で関東での布教に力を注ぎ、関東での真宗の礎を築いたといわれております。

今は記念の碑が建ち、4基の五輪塔があるのみで、東寺の面影は全くありませんでした。
ただ、「稲田恋し大銀杏」の大木が一本、「小島草庵」はこことばかりに茂っておりました。

   
   光明寺

このお寺も親鸞聖人との深いかかわりがあります。
鎌倉時代、和田義盛の乱で敗れた三浦義忠が落人となって流れ着いたところが、この地であり、夢のお告げで親鸞聖人と出合い弟子となり、この寺を建立したといわれております。

事前にご連絡申し上げところ、「何もなければいつでもいいですよ」との話でしたがこの日は、法事が入っておりご住職の御話は聞くことが出来ませんでした。

親鸞聖人お手植えの菩提樹が門前にそびえておりました。

   
   大覚寺

このお寺は「親鸞聖人法難の遺跡」という看板を掲げております。
常陸の国での親鸞聖人の名声が上がるにつれて、心中穏やかではない人物がおりました。修験道の大家で名を「弁円」といい、この地方ではその道では名前の知れた人物であったそうです。

   
   弁円上人像
このままでは自分の立場が危ういと考えて、この寺の裏山に護摩壇を設け三日三晩祈り続け、親鸞を呪い殺そうとしましたが失敗に終、遂に親鸞聖人を殺害しようと、稲田の親鸞聖人の住居に乗り込みますが、余りの人物の大きさにその場で弟子になってしまったという逸話が残っております。

   
   親鸞聖人像

ご住職の御話を伺う事ができました。
まだ若い方でしたが、わかりやすいお話でしたので、私たちにも充分理解することが出来ました。
恐るおそる、写真を撮ってもよろしいですか・・・「いいですよ」というお許しがありましたので、撮る事ができました。

   
   阿弥陀寺

阿弥陀寺は、親鸞聖人が念仏道場を開き、多くの弟子たちを育てあげ、その時に生まれたのが浄土真宗二十四輩と云われる人々でした。
親鸞聖人が京へ上られる時に十四番目の定信房に委ねたのが、このお寺の始まりと云われております。

ご住職は不在で、お話を伺う事は出来ませんでした。
今では桜の名所として有名になっております。

この後上宮寺へと向かいました。

このお寺を開いたのは、「弁円上人」です。
この人は、親鸞聖人を殺害しようと乗り込んで行き、その場で弟子になってしまったといわれております。
弟子になって以来、忠実に仕え建長3年に遷化したと云われております。

   
   弁円上人の墓

本堂横に弁円は葬られ、今もそこに眠っております。
御住職は不在でしたが、奥様がたくさんお話をしてくださいました。

   
   西念寺

稲田御坊の名で親しまれている稲田禅坊西念寺は、親鸞聖人が恵信尼と共におよそ20年間住み、ここを拠点として、関東一円での布教に務め、元仁元年(1224)には教行信証(浄土真宗の根本聖典)を完成させたといわれております。

親鸞が京都に戻った後は弟子である善性が跡を継ぎ何度か移転を繰り返し浄興寺(新潟県上越市)として越後に落ち着いたそうです。
それでも引続き親鸞上人の旧蹟の地として、稲田は聖地化され続け、神聖視されております。

   
   親鸞聖人の墓

本堂の脇を上って行くと、親鸞聖人の頂骨堂や、太子堂などが点在しており、特に太子堂は創建された当時のままの姿を保ち堂々たる風格を見せてくれます。
親鸞聖人が、家庭生活を営み子供たちを育てたのも、ここ稲田草庵時代の事であります。

   
   林照寺

鎌倉時代に誠信房により開基創設された浄土真宗単立寺院です。
一見、西念寺の別院か塔頭のように、西芳寺の参道に面してあります。ここまで来て、このお寺に寄ることなく帰ってしまう人が多いいらしい・・・

事実、私たちの案内役のボランテアガイドの方も寄ったことが無いし、知らなかったと言っておりました。
写真のような小さなくず屋根のお寺ですが、中はきれいな格天井を持ち何とも落ち着けるお寺さんです。

案内を乞うと、本堂を解放していただき、ご住職が寺の由来やなどを事細やかにお話してくださいました

   
   玉日御廟

親鸞聖人の妻とされる玉日姫(たまひひめ)のお墓と伝えられており、親鸞聖人がいつどこで妻帯されたかは不明だと云われております。
それでも、稲田草庵で家庭生活を営まれたことは間違いのないところで、親鸞聖人が京都に帰る時に玉日姫は自らも剃髪し恵信尼(えしんに)になられたとも伝えられております。

しかし、玉日姫と恵信尼が同一人物であるか否かは諸説があり、未だに解っていないといわれておりますが、私たちは昨年越後の恵信尼のお墓を訪ねておりますので、一同???
これだから歴史は面白いのかも知れません。

   
   光照寺

このお寺さんは、「笠間御草庵」「関東お草鞋(わらじ)ぬぎの聖地」として有名な寺で、樹齢六百年という杉の大木がそびえ立つ山門が印象的である。

光照寺縁起には、「関東において最も古い草庵である」また、御消息集などに「初めて心から落居なされたところ」と書かれている。
ご住職は不在でしたが、奥様が丁寧にお話をしてくださいました。

   
   専修寺

親鸞聖人は、この地に7年間とどまり、北関東の不況の中心として、一光三尊仏㋾安置して堂宇を建立したのが始まりとされております。
広大な境内に、本堂、御影堂、庫裏などが点在して、時の隆盛さを誇っております。

庫裏や総門などは茅葺の趣ある風情を残しております。
訪ねた時には、車を止めてから、どこが門であるのかが分からず右往左往してしまいました。云い換えればそれだけ観光化されていないという事になります。

ひっそりとしたお寺で、私たちだけがあちこちと動き回っておりました。

   
   三谷草庵

三谷の地は親鸞聖人が高田山専修寺建立に際し、仮住まいをしたと伝えられている場所である。
仏間と庫裏の二つの建物からなり、専修寺の境内と共に国の指定史跡になっております。

2日間の慌ただしい親鸞聖人の足跡を辿る旅でしたが、昨年い続いて収穫ある楽しい旅になりました。
同行のみなさんに感謝です。


雨と競争しながらの巡礼は・・・

2016-10-03 19:00:04 | 旅行
10月3日(月)
茨城の海を見ながら朝をすごし、親鸞聖人の巡礼の旅2日目が始まります。
天気予報では午後から雨という事でしたので、ちょっと早めに回り始めましたが、昼食を済ませた頃にポツポツと降り始めました。

   
   稲田西念寺

今回のハイライトとでもいえる、稲田西念寺ですが、山を背にして建立されているので、親鸞聖人のお墓などがすべて山の中腹にあるために、足の弱い人は下で待っているというところでした。

とにかく落ち着いていて思っていた通りのお寺さんでした。

   
   笠間稲荷神社

この神社でボランテアガイドさんと待ち合わせておりました。
今日は、近くの小学校の子供たちが、写生のため境内に座って一生懸命画いておりました。

ここをスタートに点在するお寺さんを巡りました。
写真を整理して、出来ましたら備忘録として掲載したいと思います。



親鸞聖人の足跡を訪ねて

2016-10-02 17:07:11 | 旅行
10月2日(日)
久し振りの青空で、少し歩くと汗ばむほどです。

今日は、昨年に続いて親鸞聖人の足跡を訪ねる旅で、茨城県に来ております。



親鸞聖人が越後から関東に来て初めて草庵を結んだ、小島草庵から巡礼です。
写真はその草庵跡ですが、あまり訪ねる人がいないのか、文字通りの草庵と言うべきなのか、
草に覆われておりました。




今日は、旅先からスマホからのUp です。

旅の資料作りは・・・

2016-09-18 18:43:14 | 旅行
9月18日(日)
朝から雨の一日でした。
こんな日は何処へも出掛けずに家でのんびりするのが一番です。

そんなわけで、近々友人達と出かける旅の下調べをして、何とかまとめて見ました。

   
   表紙

昨年は越後の親鸞聖人の足跡を辿っての旅でしたので、今回は、その続編と云ったところです。
流罪となった親鸞聖人が、ご赦免になっても京に帰らずに越後に滞在し続けて4年、やっと動き出した親鸞聖人が向かったのが、関東でした。

上野国から常陸国に入り20年もの長きを過ごした足跡を訪ねたいと計画を立てました。

   
   内容は

内容は、各市町村にお願いをしてパンフレットを取り寄せる事から始まり、便利なネットの情報も総動員でした。
6月から少しずつ始めて、やっと完成いたしました。

あとは印刷をして製本すれば皆さんに郵送で来ます。
出発まで2週間、ぎりぎりの完成になりました。

皆さん、首を長くして待っている事だと思います。
それにしても不思議な事に、同行する友人たちの誰もが、自分のお寺さんが親鸞聖人が開いた「浄土真宗」ではないという面白さ・・・