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tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

樹齢650年の藤を・・・

2016-05-03 17:41:05 | 旅行
5月3日(火)
今日も朝から雲が広がっておりますが、まだ雨は降っておりません。西の方は降っておりますから、夜半からかのようです。
今日は、ブログ友達に教えられた藤の名所に行って来ました。

   
   見事な藤

樹齢650年の藤だそうで、見応え充分です。
最近は、フラワーパークの藤が脚光を浴びておりますが、これだけの藤が静かに見られるのはとても貴重だと思います。

   
   白藤

この白藤も樹齢が270年だそうで、この外にも長泉寺は境内いっぱいに、たくさんの種類の藤の花が咲き誇っております。
藤の香りに酔ってしまいそうになるくらい堪能してから、近くにある「百体観音堂」に行って見ました。

   
   高窓の里

ここは、「高窓の里」と呼ばれ、養蚕農家独特な様式を持つ家が点在しております。

   
   仁王門

「百体観音堂」は、正確には、成身院の境内のお堂のひとつで、天明3年の浅間屋の大噴火の際に亡くなった人々を弔うために建立されたそうです。

   
   百体観音堂

日本三大さざえ堂に数えられているお堂です。

   
   鰐口

火災から奇跡的に免れた「大鰐口」、これほど大きいものは見たことがありません。
係の方は、「日本一です」と胸を張っておりました。

   
   回廊

回廊には大勢の方々の寄進された仏さまが安置されておりますので、右回りで拝観しながら歩いていると最上階にたどりつきます。
一見二階の様に見えますが、中は三階になっております。

   
   格天井

立派な格天井です。
日本三大さざえ堂と云われるだけの事はあります。

   
   金鑽神社参道

この神社は御神体が社殿後背の御室山(御室ヶ獄)をとして祀っており、山を神体山としているので、本殿は設けないという古代祭祀の面影を色濃く残している神社です。

   
   国宝 多宝塔

参道途中に鎮座しておりますが、国宝だそうで、ただ歩いていると見過ごしてしまいそうです。

   
   神社拝殿

社殿後背の御室山がご神体ですので、ここは拝殿という事になります。

車から降りた時の爽やかな空気が神領に入ったという実感を強く思わせてくれます。
すがすがしい神社でした。

浄興寺界隈を歩くと・・・

2015-09-27 17:03:01 | 旅行
9月26日(日)
今日も昨日の続きです。
海辺の温泉旅館を8時半に出かけて、桜の名所で名高い「高田公園」に行きました。
ところがが、案の定広い城址公園ですので、これから先の事を考えてサラッと観て、この日のガイドさんの待つ寺町駐車場へ行きました。

   

   浄興寺 山門

浄興寺は、浄土真宗開祖親鸞聖人によって創設された寺で、浄土真宗本願寺の中でも、別格ともいえる存在のお寺です。
このお寺の起源は、流罪を許された親鸞聖人が妻子と共に常陸の国笠間に移られ、農民や下級武士に布教されると共に、自らの信仰の念をより深められて、浄土真宗の根本経典である「教行信証」を著したと云われております。

その喜びを、山号・寺号に顕され、「歓喜踊躍山浄土真宗興行寺」(かんぎやくざんじょうどしんしゅうこうぎょうじ)と云う長い長い寺名を親鸞聖人が自ら付けたと云われております。

略して「浄興寺」と云うようになったそうです。

   

   本堂

その後、浄興寺は時代の中で、幾多の戦火にあい、信州へ移転しましたが、ここでも戦に巻き込まれてしまい、上杉謙信の招きにより、この地に再建され今日に至っているそうです。

この本堂は、江戸時代前期に建てられたと云われ、国の重要文化財に指定されている美しい形をした堂々たる建物です。
堂内の柱は全部円柱を使い、その建て方は、東西本願寺につぐ格式を重んじるものと想像させるものがあります。

   

   内陣

親鸞聖人は、浄興寺に留まる事10年あまりでしたが、このお寺は京都の本願寺創設より48年も前に創設されていて、親鸞聖人が遷化されると、聖人の頂骨と造宝物は遺言により浄興寺に安置されたそうです。

   

   御廟(写真は上越市HPより)

親鸞聖人の頂骨が安置されている廟所の門は、6年の歳月をかけた素晴らしいもので一見の価値ありと思います。
あれだけの門が風雨にさらされたままと云うのも凄い事だと思います

この日予定しておりました高田別院は、最も見たかった門が修理中という事で、見る事が出来ませんでした。
寺町表・中・裏とガイドさんの案内で歩いて見ましたが、無住の寺や取り壊された寺などが見られ、びっしりと並んだ寺町を想像していただけに拍子抜けと云った感じでした。

それでも、この町は浄興寺を中心に、依然として寺の街であることには変わりありません。

親鸞聖人の足跡を辿る・・・

2015-09-26 15:26:54 | 旅行
9月26日(土)彼岸明け
雨も上がり何となく肌寒いような一日でした。

今日は彼岸明けですが、お彼岸の中日の23日から24日にかけて、「親鸞聖人の足跡を辿る」と云う旅に行って来ましたので、備忘録的な事になりますが、まとめておきたいと思います。

   

   親鸞聖人像

9月23日10時に、親鸞聖人が上陸したと伝えられている「居多ヶ浜」の見晴らし台に立っておりました。
私がこの地に憧れたのは、「紀野一義著 わが親鸞」を読んでからですから、もう何十年も前の事です。

その頃は、小さな小屋がぽつんと立つ寂しい所だったと書いておりました。
今では立派な夢殿を模した八角形の「見真堂」が立てられ親鸞聖人の像が安置されております。
流人となった親鸞聖人がこの地に上陸されたのは承元元年(1207年)と云われております。

   

   五智国分寺 三重塔

居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人が1年程過ごしたのがの場所と伝えられておりますが、聖人が配所とされた国分寺の場所はいまだに不明だそうです。

現在の国分寺は、上杉謙信が再興したもので、境内には三重塔や、流罪中に過ごしたと云われる「竹之内草庵」や芭蕉の句碑、そして親鸞聖人が水を汲んでいたと云われる「養爺清水」画あります。
今でもこんこんと水が湧き出ております。

   

   居多神社

居多神社は、親鸞聖人が上陸されて最初に参拝された神社だと云われております。
そして、「すえ遠く 法を守らせ居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは」と詠み、早く赦免となるように、念仏が盛んになる様にと祈願したと伝えられております。

   

   片葉の葦

この神社に「親鸞聖人にまつわる七不思議のひとつ「片葉の葦」があります。
葦の葉が西方浄土を向いているとか、罪を許され常陸の国に旅立たれた聖人に引かれて関東の方を向いているとか諸説がありますが、不思議な葦が見られます。

   

   国分別院 上陸の像

親鸞聖人が1年間過ごされた「竹之内草庵」から移り住んだ「竹ヶ前草庵」があった場所と云われ取ります。
ここの草庵で、生涯の妻となった「恵信尼」と暮らしたと伝られておりますが、詳しい事は分かっていなそうです。

   

   竹ヶ前草庵跡の石碑

本堂の左側に「竹ヶ前草庵」の跡を示す石碑、そして右側には、親鸞聖人像と上陸された時の様子を再現した像が建っている。

   

   光源寺 御満悦の御真影

光源寺は、親鸞聖の弟子である最信が開いた寺院と伝えられている。
本堂には、親鸞聖人が罪を許された時に自ら描いたと云われる「御満悦の御真影」が安置されている。

この「御満悦の御真影」は、左手が上がっているために「左上御影」と云われ、全国でも数点しかない貴重なものだそうです。
本堂中央にこの「左上御影」は安置されている。

   

   浄善寺

度重なる火災のために、インドパコタ様式のテッキンコンクリート作りの珍しいお寺です。
堂内には、親鸞聖人が一夜の宿をとった際に枕にした「御枕石」や「親鸞聖人真向の御影」などが安置されている。

江戸時代には「柿崎御坊」と呼ばれていたそうです。

   

   恵信尼廟所

昭和31年に「比丘尼の墓」と呼ばれる五輪塔が発見されました。
樹齢600年と云われる辛夷の古木の根元にあって、昔から「偉い人の墓」と言い伝えられていたそうでしたが、研究者によって、恵信尼の墓と断定されたそうです。

町おこしの一環としてとしてか、墓は整備され公園の様に整備されて、近くには記念館が建ち、立派なたたずまいになっておりましたが、何となく違和感のある風景としか感じられませんでした。

私たちが見たかったのは、辛夷の古木に寄り添うようにして建っている五輪塔であって、公園のようなきらびやかところに鎮座している恵信尼の墓ではないような気がしてなりません。(写真は上越市HPより)

   

   林泉寺 惣門

ここは、上杉謙信ゆかりの寺院です。
上杉謙信の墓があって、幼少の頃、ここの住職の厳しい教えを受けながら、14歳まで過ごしたと伝えられているお寺です。
惣門は春日山城から移築されたと云われ、山門に掲げられている「第一義」は謙信自筆の物と云われている。

   

   上杉謙信像

この日最後にガイドさんの勧めで春日山城に登って見ました。
上杉謙信が高田市内を見つめている像が建っておりました。

ここまでが1日目の全工程になりますが、地元のガイドさんが詳しく説明をしてくれましたのでしっかり見て歩くことができしました。

親鸞聖人の足跡を辿る・・・

2015-09-24 19:50:56 | 旅行
9月24日(木)
昨日から越後の国に、「親鸞聖人の足跡を辿る旅」と云う、何ともマニアックな旅に行って来ました。
親鸞聖人が京都から、流人となって越後の国に上陸したところから旅の始まりと云う徹底ぶりでした。

   

   上陸地の記念堂

見晴らし台からは穏やかな日本海がに望む上陸の地ですが、今は海水浴場になっていて、夏の間は賑やかな浜辺のようですが、親鸞聖人が小舟に乗せられて上陸した時は、どんな浜辺であったのでしょう。

    

   上陸した浜

案内の方は、「私共が子供の頃は、今よりずっと浜辺は広がっておりました」と云っておりました。

   

   親鸞像

親鸞聖人の関係する寺院では、何処のお寺でも親鸞聖人の像が建っております。
私たちの行く先々の寺院すべてと言っていいほどでした。

少しばかり疲れておりますので、日を改めて備忘録としてまとめて書いて見ようと思っております。
こうした、狭い地域をゆっくり見ながらの贅沢ともいえる旅でした。

善光寺御開帳から戸隠神社式年大祭まで・・・

2015-05-06 20:08:28 | 旅行
5月6日(水)振替休日
五月晴れの連休が続いております。
最後の休日ですので、長野まで行って来ました。
   
   

    善光寺御開帳

長野に在住する卒業生が、「御開帳の間に是非お出で下さい」と誘ってくれましたので、言葉に甘えて行って来ました。
長野には8時半ごろ着き、彼女の案内で善光寺に向かいましたが凄い人出です。

それでもあまり待つことも無く回向柱(えこうばしら)」に触れる事が出来ました。
回向柱は前立本尊の右の御手と善の綱で結ばれ、柱に触れる人々にみ仏のお慈悲を伝えてくれると云われております。

   

   戸隠神社

今日は戸隠神社の式年大祭の日で、こちらも大勢の参拝の方々でごった返しておりました。
ここから始まる参道は、全長およそ2キロだそうで、雪解けの水が参道に流れ出して足元のおぼつかない中ひたすら奥社を目指して歩きます。

   

   杉並木

何年か前のJRのコマーシャルに吉永小百合さんが歩いたところです。
延々と続く杉の巨木も、人の手によって植えられたそうで、信仰心の強さを如実にあらわしております。

   

   随神門

天野岩戸伝説が伝えられております戸隠の奥宮ですが、左右にはまだ雪が残っており、滴がポトリポトリと落ちて流れておりました。

   

   水芭蕉

きれいに咲いておりました。
雪解け水の流れに沿って、水芭蕉がたくさん咲いておりました。

   

   戸隠そば

奥宮から降りて来て、やっと昼食です。
彼女の知り合いの店らしく、美味しいお蕎麦を頂くことが出来ました。

   

   戸隠神社祭典

今日は平成27年式年大祭の日に当たり、里に鎮座されております神々が、奥社まで御神興で渡御されるお祭の日でした。
昔は奥社まででしたが、現在では宝光社の神様が、御父神である中社の神様の元に渡御され父子のご対面という大祭だそうです。

   

   福銭

行列が続く中、人がいる所に来ると「福銭」を投げます。
人々は我先にと飛びつきますので、ぼんやりしていると拾う事が出来ません。
一緒に居た彼女が拾ってくれました。

今日は、善光寺御開帳と戸隠神社の式年大祭という御目出度いお祭にも出会うことができ、今年は良い事がありそうで、何だか嬉しくなってしまいました。


江戸城の歴史を見ながらの散歩は・・・

2015-05-05 17:51:48 | 旅行
5月5日(火)こどもの日
連日の好天に恵まれて、何処の観光地も人で溢れているようです。
昨日も凄かった・・・誰が言い始めたのか、まさに「ゴォールデンウィーク」です。

今日は、朝から29日の「初風炉の茶事」の後片付けです。
3時頃には終りましたので、昨日の備忘録的な事を書いて置きたいと思います。

   

   内堀通りを入ると

直ぐに綺麗な石垣が目に入る。
石垣の美しさだけでも感動してしまいます。

   

   二重橋

皇居前広場から宮殿に至る二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」と云い、奥の鉄製の橋を「正門鉄橋」といい、この二つの橋を総称して「二重橋」というそうですが、今では、手前の橋が「二重橋」と思っている人がほとんどだそうです。

   

   坂下門

普段は宮内庁出入りに使われている門ですが、この門は、「坂下門の変」で有名となりました。
時の老中安藤信正が水戸浪士を中心とした尊攘派が、公武合体論を唱え、和宮降嫁を実現させた事に憤慨して、この門のところで襲撃して負傷させた事件です。

   

   内桜田門(桔梗門)

この門は、幕府の要職にある者が登下城する門のひとつで、屋根に太田道灌の桔梗の家紋があったことから、「桔梗門」とも呼ばれていた。
お濠に映えてきれいな櫓でした。

   

   大手門
この門を駕籠に乗ったまま出入りできたのは、尾張・紀州・水戸の御三家と日光門主だけで、一般大名はここから先は駕籠を出て歩いて登城する決まりだったそうです。
お供の人達は殿様が帰ってくるまで、この門の前で待っていたそうですので、この大手門前は、お供達の為に屋台が出て大変な賑わいだったそうです。

お殿様の出仕は10時から2時までの4時間だそうで、1か月に3~4回あったそうです。

   
   
   百人番所

大手門から進むと、長さ50メートルを超える百人番所と呼ばれるところがあります。
大手三門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所であったと云われております。
鉄砲百人組と云われた根来組、伊賀組、甲賀組などが交代で常に100人態勢で昼夜を問わず警護していたところだそうです。

   

   中雀門

本丸御殿に通じる最後の門で、先ほどの御三家も日光門主もここからは徒歩で本丸御殿に向かったそうです。

   

   本丸御殿跡

ここが江戸幕府の行政を司ったところで、行政をする表向と将軍の暮らした中奥と大奥に別れており、もっとも格式が高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でありました。

戊辰戦争で焼けてしまったため、しばらくは野菜や桑畑の時代もあったそうですが、明治4年から昭和4年まで、ここに午砲台があり、正午になると「ドン」と大砲の音が鳴り響き、東京府民に「ドン」の愛称で親しまれたそうです。
そして、土曜日には、この「ドン」が鳴ると仕事が終るので「半ドン」という言葉が生まれたそうです。

   

   天守台

江戸城本丸の一番北川あり、家康・秀忠・家光三代にわたり築き直され、代が代わるごとに将軍の権力の象徴的な役割を果たすように荘厳になって行ったそうです。
明暦三年の大火で天守はことごとく焼けてしまいましたが、直ぐに再建に取り掛かり、石垣は加賀前田家が受け持ち、四国から運び込んでの普請でしたが、四代将軍綱吉の叔父の保科正之の一言で中止されたという事です。

「今は戦国の世とは違い、天守は必要が無い、其れよりも江戸市中の復興こそが第一である」
以来、天守は築かれることなく明治を迎えました。

   

   乾門

この門は再建されたもので、最近では、桜の季節と紅葉の季節に坂下門からこの乾門までの通り抜けが話題になっております。

今回はガイド付のツアーでしたが、行って見てからの事になりますが、自分だけでも十分に行って見られるところだと再認識いたしました。
 


江戸城歴史散歩は・・・

2015-05-04 19:09:50 | 旅行
5月4日(月)みどりの日
天気予報では下り坂とのことでしたが、爽やかな五月晴れの一日でした。
今日は念願だった「江戸城歴史散歩」というテーマによる、ウォーキングに行って来ました。

連休中という事で、駅も電車もごった返しておりましたが、爽やかな風を受けながらのんびりと歩いて来ました。

     

   二重橋

江戸城は皇居になっておりますから、江戸と現代が渾然としておりますが、何の違和感もないほど溶け合っております。
皇居と云えばこの橋が代表されていると思います。

たくさんの観光客が来ておりますので、写真を撮るチャンスが中々巡って来ませんが、撮りたければ只々待つのみ・・・

   

   内堀通りから

お濠と石垣の美しさは何とも云えません。
説明によると、江戸城は実践的な城ではなく、権力の象徴であるから、あらゆるところにそれを見せつける必要があったため、石垣も各大名に競わせるように割り当てて美しい石垣にしたそうです。

   

   同心番所

大手門から入ると、同心番所が江戸時代そのままに残っております。
ここから「中の門」「大番所」「中雀門」を経て「本丸御殿跡」そして「天守台」へと続きます。

   

   天守台

明暦の大火で江戸城の天守は焼けてしまいましたが、その後再建せずに明治を迎えております。
焼失して直ぐに再建に取り掛かったのですが、「城よりも江戸の街を先に復興させよ」という声により中止されたそうです。

現在残っている天守台は、前田家が四国から運び積み上げた石垣だそうです。
きれいに積まれており、城は今でも直ぐに建ちそうな気がするほどでした。

城内を約6キロ歩きましたが、見る所がたくさんありますので「疲れた・・・」何て感じないほどの「江戸城歴史散歩」でした。