tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

禅語 笠重呉天雪

2012-02-04 18:54:54 | 禅語今昔
今日は立春。酷寒も一息ついたような一日でしたが、相変わらずの寒さは続いております。今週のお稽古も終りホットしているところです。


笠重呉天雪

この語句は、「鞋香楚地花」と対句をなすもので、北宋の詩僧が行脚の僧を送った時の五言八句で、「一鉢即生涯」で始まる詩の一節です。

全財産である一衣一鉢を肩に師を尋ね、道を求めて、西へ東へと旅をしながら歳月を送る。そんな意味の句からこの詩は始まっております。

「笠重呉天雪」呉の国を行脚していた時は、冬の最中で、雪の峠を越えるのに難儀をしたが、
「鞋香楚地花」楚の国に到った時は陽春で、落花を踏んでの旅は脚も軽くまことに快適であった。

この句を人生に置き換えてみれば、順境もあれば逆境あり・晴れた日もあれば雨の日もあると云う事を考えていただければ充分かと思われます。「芳賀幸四郎著 一行物より」
※「鞋」あいと読み、靴または履物の事だそうです。


床飾り
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禅語 楓葉霜経紅

2011-11-22 19:23:09 | 禅語今昔
朝の気温が最低だったそうですが、日中の日差しは暖かく過ごしやすい一日でした。
今日も先週のお稽古に使用した軸の話を書いてみようと思います。


楓葉霜経紅 玄道和尚筆

秋の深まりと共に野山の落葉樹が一斉に紅葉して錦繍を織り成したように絢爛たる風景を見せてくれます。こんな自然の情景を「楓葉 霜を経て紅」と表現したもので、いわば、あるがままの美しさを五字一句に現したといえます。

この一句が床の間に掛けてあるだけで、晩秋の山野に、あたかも自分が佇んでいるかのような気持ちにさせてくれます。

しかし、芳賀幸四郎著 一行物」の中では、「楓葉が霜を経過して初めて美しく紅葉するように、人間もまた、生きていくうえで様々な苦労を経験して、それを耐えしのぎ自分の成長の糧にして初めて立派な人間になれる。
「艱難(かんなん) 汝を玉にす」の諺を、美しく穏やかに言い換えたのが、この五字一句である。」こんな風に書いてあります。

この軸を拝見して、錦織り成す風景を思い描いていただければ良いかな・・・・。などと思っております。
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禅語  雲自去来 

2011-11-21 18:18:15 | 禅語今昔
朝晩の寒暖の差がはっきりとしてまいりました。今日もまだ秋・・でした。

久しぶりに禅語の話をしてみたいと思います。


松蔭寺 宗鶴老師筆 

松蔭寺は、静岡県沼津市原にある禅寺で、臨済宗中興の祖といわれております「白隠禅師のお寺」として有名です。

江戸時代「駿河の国に過ぎたるものが二つある 富士のお山に 原の白隠」といわれるほど有名でした。その白隠禅師の眠っているお寺なのです。お寺の裏にある墓地に回るとひと際立派なお墓があります。

雲が自由に動いている様子が想像できるほど雲らしい雲の文字です。禅宗のお坊さんらしい字体なのかも知れません。
近くで拝見すると、圧倒されるほどの迫力すら感じるほどです。禅語は、決まった解釈もあるでしょうが、拝見した人が心で感じるのが一番であるといつも思っております。
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禅語 「萬古清風」

2011-09-17 18:56:58 | 禅語今昔
今日も蒸し暑い一日でしたが、南の海を二つの台風が並んで進んでおります。
今日の稽古のお軸は「萬古清風」でした。


萬古清風 山田無文老師筆

はるか昔から清らかな風が、変わる事無くそよいでいる。
「古来より伝承されている日本の文化伝統を永遠に継続していく。」私はこんな風に理解して拝見しております。

9月15日の毎日新聞の「余禄」に面白い記述が載っていたのでそのまま書いてみます。

「古今著聞集」という書物に嘉保2(1095)年8月の宮中の虫とりの様子が記されている。
帝より侍童や従者に嵯峨野で虫を取ってくるようにとの詔があり、紫色の糸をかけた虫篭を与えられた。-中略―

道中に「野に虫を探す」との歌題が出され、嵯峨野で夕刻までの間虫を探した。内裏へ帰ると、虫と共に萩や女郎花を入れた篭が献上され、宮中は酒宴と歌の朗詠で盛り上がったという次第だ。
虫取りと、虫の音を聞きながらの宴が王朝の半ば公的行事のように行われる国は他にあるまい。-中略―

残暑続く9月、草むらの虫の音が告げてくれる秋の訪れだ。今やその種類を聞き分けられる人も少なくなった日本人である。だがこの季節、「心地良いながらも胸苦しい秋の美、夜の声の不可思議な甘さ」(小泉八雲「虫の演奏家」)に思い当たらぬ人はまれだろう。

外国人は虫の音を機械の雑音と同じく右脳で聞くのに対し、日本人は虫の音を言語と同じ左脳で聞いているというのが、脳科学者の角田忠信さんの説だった。この違いは日本語の特性に根ざすというが、私たちは虫の「声」を聞いているのだという話ならよく分かる。虫だけでなく鳥のさえずりや川のせせらぎも「声」のように聞いてきた日本人だ。
震災と原発災害の秋、ことさらいとおしく思える小さな自然の営みに目をこらし、その「声」に耳をすませたい。

「萬古清風」。日本の美しい伝統を大切にしながら、次の世代に確実に継承して行かなければとしみじみと思う昨今です。

明日は出かけますのでお休みです。


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禅語 「清風払名月」

2011-09-02 21:00:38 | 禅語今昔
今日は一日荒れ模様でした。晴れたかと思うと急に雨になったり、それも、横殴りの猛烈な雨が容赦なく降っておりました。
こんな日でしたが、お稽古場は晴れやかな秋日和のお稽古でした。今日のお軸です。


清風払名月

「清風、名月を払う」と読み、秋の茶席に好んで掛けられる軸です。

「天空に皓々たる名月があり、虫声しきりになく薄の原を颯々と秋風吹きすぎるという清夜の風情を叙したもので、一読、なんともすがすがしい名句である。
こうした名句は、下手な解釈などを加えず、吟じ来り吟じ去っても、その妙趣を味わっていただけば、それでよいと考える。」と、「淡交社刊一行物」の著者芳賀幸四郎さんは書いている。

「清風名月を払い、名月清風を払う」という五言対句の前句、一句のうちに全体をこめていることは言うまでもない。こんな風に書いておられます。
この句に出合ったら、難しいことは考えずに、只、天空に輝く月とさわやかな風を感じていただければいいようです。

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禅語 「瀧 直下三千尺」

2011-07-22 19:01:32 | 禅語今昔
この時期になると、多くの床の間に掛けられている軸だと思います。


瀧 直下三千尺

瀧の文字の、最後の一画が長々と書かれ、雄大に流れ落ちる瀧の様子を現しているようです。

同じようなお軸をたくさん拝見しましたが、約束されたように最後の一画が長く書かれ、瀧を表現しております。私の禅語辞典には、禅語としては掲載されておらず、この言葉自体に禅語的な意味はあまりないようです。
拝見した人が、豪快に流れ落ちる瀑布の姿が思い浮かべ、涼しさを感じていただければよいようです。。

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禅語 「雲悠々水潺々」

2011-06-30 18:51:10 | 禅語今昔
今日は禅語 「雲悠々水潺々」を少しだけ書いてみます。

夏になるとこの軸はよく掛けられます。


「雲悠々水潺々」くもゆうゆう みずせんせん

青空に雲が悠々と浮かび、動いているのか止まっているのかわからない。一方、水はさらさらとひと時も休む事無く流れつづけている。無心であることは共通しているが、静と動が相即した境地を表している。(禅語百科より)
このように、雲の静と水の動とを対置して、自然の心理を説いているのだそうです。

この軸に出合ったら、青空の雲と谷川を流れる水の音を想像していただけば、十分涼しさを感じていただけるのではないでしょうか。

しかし禅語では、人間の生き方の中で、「静中動あり 忙中閑あり」と教えております。この忙しい世の中こんなふうに生きたいと思っております。

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禅語 「聴雨」

2011-06-10 18:41:07 | 禅語今昔
茶席では昔から「掛物ほど第一の道具はなし」といわれておりますように、床の間の軸によって、茶席の趣旨が決まるといっても過言ではありません。



床の間の軸は、招いた側と招かれた側(主と客)の気持ちのキャッチボールみたいなもので、「今日の茶会はこんな趣旨ですよ~分かりました、楽しませていただきます。」と、投げたボールが正確に返って来るようであれば、その茶会は成功したといえます。

さて「聴雨」ですが、見たとおり、感じたままでしたら、雨の多いこの時期にかけられる軸で、「雨の音を心静に聞きなさい」とこんな意味でよろしいかと思います。
お稽古の時雨が降っていると、前日用意した軸から急遽「聴雨」に変えたという話を聞いたことがあります。しかし、「聴雨」にはやはり出典がありました。

聴雨寒更盡 雨を聴いて寒更尽き・・寒更とは「 夜明けの寒さ」という意味
開門落葉多 門を開けば落葉多し
唐代の詩人 無可上人の作と伝えられております。
大まかな意味は、昨夜は屋根を打つ雨の音を聴きながら、寒さに震えながら侘しい思いで横になっていたが夜が明けてしまった。朝、門を開けて見ると、あたり一面の落葉であった。さては、夜もすがら雨の音だと思って聴いていたのは、雨ではなく落ち葉の音だったのか・・・。

紀貫之の歌に「秋の夜に 雨と聴こえて降りつるは 風にみだるる 紅葉なりけり」があります。平安時代にはすでに「聴雨寒更盡・・・」の詩が我国に伝わり多くの歌人達に知られていたのではないかと思われております。

「聴雨」の掛けられたお茶室で、雨音だけの静寂を感じながら、自分の心の中を省みるなんて素敵な事かも知れません。

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禅語 「本来無一物」

2011-06-05 18:52:04 | 禅語今昔
前回の続きで山田無文老大師の話をしたいと思います。

揮毫された力強い墨蹟

「本来無一物」は中国禅宗の六祖大鑑慧能(だいかんえのう)が五祖大満弘忍(だいまんぐにん)から印可され、その法を継ぐ機縁となった一句であります。

先輩僧の神秀が「煩悩の塵が付着しないよういつも払い清めなければならない」と云ったのに対して、「本来無一物 何處惹塵埃 捨てるべき塵もなければ惹くところもない、何処に塵や埃を払おうというのか」と反論し、この一語で印可を受け、達磨伝来の袈裟と鉄鉢と授けられたと伝えられております。

無文老師は若い頃結核を患い大変な時期を過ごされました。実兄も同じ病気で亡くしておりましたからなおさらです。

写真などからひ弱な印象が強かったためか、この軸に出合った時の驚きは忘れる事が出来ません。何という迫力、何という気迫なのでしょう。墨の飛び散っている一の字など凄いものがあります。
お茶席ではよほど気合を入れて望まないと圧倒されてしまうでしょう。

無文老師は闘病中の夏の日に、縁側でそよ風に吹かれながら、「 風とは何ぞや 風とは空気。空気とは何ぞや 空気は自然。 その空気を吸って、呼吸して生きている。 「そうだ私の後ろ盾には大自然が付いているんだ」と考えたら、寝てられなくなった。 こんな事をテレビ番組で言っておられたのを覚えております。

本来の意味は、物事はすべて本来、空(くう)であるから、執着すべきものは何一つない。そして捨てるべき物も何一つない。」ですが、私達凡人は「物事に執着しなさんな。」こんな風な考え方で生きて行ければいいのではないでしょうか。
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禅語 「巌松無心風来吟」

2011-05-19 18:33:01 | 禅語今昔
爽やかなこの季節になると、お茶席には「風」を現した掛け物が多くなります。前回の禅語でも「薫風自南来」と風を感じさせてくれました。



「巌松無心風来吟」は、そのまま読んで行けば良く「巌松無心風来たって吟ず」と分かりやすい禅語です。
巌谷の松に風が吹き来て、松籟の音が、時には激しく、時には優しく梢々と響く様を表しております。松はもとより歌う意志があるわけではなく、風も歌わせようと吹いているわけではありません。その場の機縁に応じているだけであります。

松には、歌おうとか人に褒められようとかという、意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから鳴るだけである。これをそのまま人間に置き換えれば、このような自然の働き、無作無心こそが美しい人間性を現すものである。といったところでしょうか。

最近のお茶席では、季節感を大切にいたします。
春先に掛けられていれば、春を予感させてくれるでしょうし、今頃の季節でしたら、爽やかな風を感じます。夏には涼しさを、秋にはこれからの来るでろう冬を思い身が引き締まってくるかも知れません。そして、冬には、巌に立つ一本の孤高の松が北風に耐えながら立ている様など、それぞれが感じてみれば面白いのではないでしょうか。

お茶席の禅語は、拝見した人が感じることが大切だと思います。
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