tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

禅語 「本来無一物」

2011-06-05 18:52:04 | 禅語今昔
前回の続きで山田無文老大師の話をしたいと思います。

揮毫された力強い墨蹟

「本来無一物」は中国禅宗の六祖大鑑慧能(だいかんえのう)が五祖大満弘忍(だいまんぐにん)から印可され、その法を継ぐ機縁となった一句であります。

先輩僧の神秀が「煩悩の塵が付着しないよういつも払い清めなければならない」と云ったのに対して、「本来無一物 何處惹塵埃 捨てるべき塵もなければ惹くところもない、何処に塵や埃を払おうというのか」と反論し、この一語で印可を受け、達磨伝来の袈裟と鉄鉢と授けられたと伝えられております。

無文老師は若い頃結核を患い大変な時期を過ごされました。実兄も同じ病気で亡くしておりましたからなおさらです。

写真などからひ弱な印象が強かったためか、この軸に出合った時の驚きは忘れる事が出来ません。何という迫力、何という気迫なのでしょう。墨の飛び散っている一の字など凄いものがあります。
お茶席ではよほど気合を入れて望まないと圧倒されてしまうでしょう。

無文老師は闘病中の夏の日に、縁側でそよ風に吹かれながら、「 風とは何ぞや 風とは空気。空気とは何ぞや 空気は自然。 その空気を吸って、呼吸して生きている。 「そうだ私の後ろ盾には大自然が付いているんだ」と考えたら、寝てられなくなった。 こんな事をテレビ番組で言っておられたのを覚えております。

本来の意味は、物事はすべて本来、空(くう)であるから、執着すべきものは何一つない。そして捨てるべき物も何一つない。」ですが、私達凡人は「物事に執着しなさんな。」こんな風な考え方で生きて行ければいいのではないでしょうか。
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