ミソハギ
この花を始めて見たのは信州でした 花の名を聞きますと
「ミソハギ お盆にお墓に持っていく花だ」と教えられた
わが家では満開に近づいてお盆まで持ちそうにない
これで一株です 花は1cmも無く輪になり其れが重なっています
富士山の解禁は7月1日です。6月30日から登るのは違反じゃないの?と思っていました。でも良く考えると1日の日の出は拝んでもいいわけです。日の出を山頂で迎えるためには30日から登り始めなくてはならないんです。なるほどね~。
変な事を疑ったり、納得したり一人相撲の私です。
40人ほどの方が日の出を迎えられたそうです。梅雨の晴れ間でラッキーでしたね。週末をワクワクしながら待っている方も多いのでしょうね。
私達が富士山に登ったのは1991年8月14日です。15日の日の出を拝んだわけです。50代半ばでした。ついこの間登ったと思っていましたのに、何時の間にか17年も経っていました。
頂上には小さな郵便局がありました。そこから自分宛に記念ハガキを出しました。ハガキには「やっとやっと富士です。 富士は見る山 登る馬鹿 を実感しました。一生一度で良いよ」と書いてあります。
6合目辺りから軽い高山病に罹り、胸はむかつくし、心臓が指先に移動したのではないかと思うほど、指の先まで「ドクドク」と脈打っているのがわかりました。
8合目の山小屋での夕食も朝食も食べられませんでした。頂上までの事を考えれば、少しでも食べておこうとするのですが、高山の為お米に芯が残ってパサパサと言うかコツコツと言うか、体調不良の私の喉を通るご飯ではありません。夜はカレー、朝はお漬物とおにぎりだったと思います。
今考えると馬鹿みたいですが、寝巻きやお化粧品を持って行ったのです。山小屋では着の身着のまま寝るんですね。冷たく、恐ろしいほど重たい布団をかぶって…。
夜のおトイレはヘッドライトをつけていきました。真っ暗で見えないんです。
主人と私では心細いので(主人が病み上がりで、登りたいといった張本人です)息子に付いて来てもらっていました。3人分の酸素の缶詰を持って行ったのですが、私1人で吸っていました。吸うと言っても味も何も無いですから、缶の先に細い管を繫げてその先を口にくわえ、何処かをパカパカと押すのです。唯それだけです。「酸素を吸ったから、楽になるよ」と自分に言い聞かせる事によって、何となく楽になった気がするのです。
そんな状態で山頂にたどり着いたわけですから「お鉢周り」は出来ませんでした。主人と息子が廻ってくるのを待っていました。今は回れなかった事をとても後悔しています。でもあの時は欲も徳も無く唯休んでいたかったのです。
帰りは違う道だったと思うのですが、急斜面を下るのですから前につんのめるような気がして、足先でふん張りながら下ったので、帰ってきてから、足の親指の爪が両方とも剥がれました。
麓の温泉に入ってから宿に戻る予定でしたが、私が遅れがちだったもので時間がなくなりました。帰りましたら宿の方が「登ってこられた人に見えませんね。皆さん見るからにへとへとになって帰られますよ」といわれました。元気な二人の影に私は隠れていましたからね。高山病の胸のどきどきは高度が下がるたびに消えていきました。
毎年登山の映像を見るたびに、「登っておいてよかったな~」と思っています。富士山を見ると未だに「あの頂上まで登ったなんて、信じられないね!」と語り合う私達です。
子供が小さい頃5合目までのドライブ、そこが私の終着点になってしまっています。
1年生の子を担任した時、夏休みの日記に、おじいちゃんと2人で、頂上まで登ったのを克明に書いていて、感動で涙を流しながら読んだのはいつまでも忘れない追体験です。
富士山は、いつも私にとって憧れの山ですね。
私は5合目までです。
しかも車で行って。甲斐性のない話です。
もう今になっては無理です。
その点、あの三浦さんは素晴らしいですね。
生徒さんはきっと楽しかったのでしょうね。おじいちゃんとの一生の思い出ですね。
親子4人ずれに会いましたが、若い親と子どもは飛ぶように私を追い抜いていきました。子どもの「又来年来ようね!」と言う声を残して…。
今は「富士は見る山」で満足です。
私達が行きました時も、駐車場が満車とかで、道に自動車の待つ列が出来ていました。
私の友人も、転勤で関東に居た時は6合目まで、車で何度か行ったと言っていました。
富士山はやはり人を引き寄せる何かがあるのですね。