あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」

2020年10月14日 08時59分13秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


我々は刑死将校達が書き遺していった血を吐くような数々の遺書を読むことによって、
この軍法会議が暗黒裁判というにふさわしい実体を持ち、
かつその運営がなされたことをうかがい知ることができるのであるが、
それは既述のように東京軍法会議そのものが、
軍訴訟とはいっても近代的なそれではなかったのである。
だから彼等叛乱将校達がこの軍法会議に激しい怒りを持ちつづけたことは、
いささかも無理のないところであるが、しかし、彼等にもこの裁判には大きな錯誤があった。
もともと彼等は裁判といえば 五・一五事件を思い、相沢公判を考えていた。
そこでは、その主張は常に堂々と披瀝せられ公判を通じて広く国民に訴えることができた。
したがって、彼等は蹶起の初めに於いて、事敗れてもなお激しい公判闘争を期して
威信における言論戦をもくろんでいた
「 失敗の責任を自決によって解決することは弱い方法である。
吾々の不抜の信念は一度や二度の挫折で挫くじけてはならない。
死の苦しみを越えて戦い抜くことが、ほんとうの強い生き方である。
だから、たとえ事が敗れても最期迄公判廷において所信を披瀝して世論を喚起し、
終局の目的貫徹まで飽く迄戦わねばならない 」 ・・河野司著 「 湯河原襲撃と河野大尉の自刃 」
これが彼等の信念だったのである。
ところが、東京軍法会議は彼等が考えていたような、そんなあまいものではなかった。
公判廷で言論で争うなどのことは、論外の沙汰であった。
いくら証人を申請してみても、そんなものは許されるものではなかった。
第一、彼等には弁護人さえつけられていないのだった。
このことの減滅に彼等はすっかりおこってしまった。
それは、たしかに、
安藤が叫んだように 『 裁判は捕虜の訊問 』 で 聴くだけきけば被告たちには用がない、
といった 『 さばき 』 方だった。
この予期に反した裁判の内容とその進行に、彼等は一様にその不当不公正をなじったのである。
しかして、また、この裁判は統帥大権をせん用したという、
この事件の特質と天皇の厳しい意思、態度を体していた 軍部としては、
かの相澤公判のような轍をふむことはできないことだった
川島陸相は事件鎮定後、
「 軍は本事件を契機として更始一断、真に団結鞏固なる国軍の真価を充実し、
以て忝かたじけなき叡慮に副い奉り 国家国民の信倚に副わんことを期す 」
と、その粛軍の決意のほどを声明していたのであるから、
この裁判は初めから簡明直截に厳罰をもって臨むことを方針としていた。
だから、そこでは彼等の言いたい放題のことは言わさなかったし、
彼等がいくら原因動機を調べてくれといっても、それらは形式的に通り一ぺんの取調べに終わったし、
また、大臣告示や警備隊編入をとり上げて われわれの行動は軍の首脳部が認めたのだと言い張っても、
そんなことは反乱と言う犯罪事実に関係のないことだとして、
あえて真剣に取上げようとはしなかったのである。
これらを取上げることは
徒に事態を紛糾に導き、軍の醜態を曝露するにすぎないことを恐れたのであろう。
だが、このことは、軍法会議の致命的な欠陥だった。
なぜなら、このような事件の根幹を追及することなくしては、
断じて陰影は取り除かれなかったし、軍再建の資料を掴むことさえできなかったからである。
このように、彼等はこの裁きの世界においては、至るところで幻滅感、悲痛感を味わされていた。
しかもこの減滅による悲痛感が強いだけに、彼等の反発もまた激しかったわけであるが、
しかし、彼等にも事態を見る目がなかったことは争えない。
いな、事態を見る目がなかったというよりも、
その眼を閉ざされていたというのが正しいのかもしれない。

彼等は事件鎮定とともに、直ちに獄につながれてしまった。
もともと彼等は、事件中は、眼前の事態にのみ眩惑されていたし、
また、すでに見てきたように、しばしば同情ある将校によって事態の好転をのみ信じさせられていた。
こうして彼等は外界の動きに全く目を蔽われ、甚だしい独善に陥っていたのである。
しかも、それがそのままに二月二十九日以後全く世の中と隔絶されてしまったのであるから、
この蹶起の世評がどうなのか、
どんなに天皇の激怒に触れ、軍首脳部がどのような態度に出たものであったのか、
さらにまた、この事件によって内には軍の統帥が破壊されて軍は信を失い、
外には国威を失墜したかなどといったことは、全く知ることがなく、
依然として蹶起当時の認識と理解に立っていたことであった。
だから、そこでは、おおよそこの事件の反省とか、
事件の持つ重大性などには、自覚することがなかったのである。
だからこそ、彼等はこの裁判に、なお、維新の展開を求めようと意気ごんでいたのだった。

こうして、彼等は、かつての軍事裁判のあり方に望みをかけ、
今日における裁きを極めて楽観していた。
げんに私が三月一日主謀者の一人 磯部浅一を取調べた時、
彼は肩章と襟章をもぎとった軍服姿に四日間のあとをしのばせてはいたが、
意気頗る軒昂で、
『 これからが吾々の真の維新運動です、はげしく闘います。
公判闘争で天下をひっくりかえして見せる覚悟です 』
と はりきっていた。
事態を楽観していたといえば、彼等はまた いわゆる皇道派の首脳者たちが、
ひとしく彼等に同情的であって同志を見棄ることはないと信じていた。
だから、こん裁判では相沢公判のように、これらの巨頭連がぞくぞくと出廷して、
よい証言をしてくれるものと待ち望んでいた。
ところが巨頭たちは、事件鎮定と共にすっかり逼塞ひっそくしてしまっていた。
あえて積極的に彼等を助けようともしなかったし、
その事件関係の証言も決して彼等に有利なものではなかった。
なかには、わざわざ 「 あいまいな 」 あるいは 「 うそ 」 の証言をしたものもいた。
例えば、
小藤大佐は奉勅命令は全将校を集めては下達しなかったが、
各部隊毎に実質的に下達したと証言したし、
また、村上軍事課長は二八日幸楽で安藤大尉に、維新大詔なる案分を見て、
事態はここまで来ているのだから、お前達も安心して引上げてくれと勧告しておきながら、
予審では
「 維新の大詔などは知らない。何かの間違いだろう 」
と うそぶいていたのだった。
・・・
中略
・・・
軍法会議はこういっている。
「 彼等は折柄来邸したる山下少将より軍首脳部において起案したる説得文を読み聞かされ
説示せられたるもこれに復せず---」
ここでは 「 大臣告示説得文 」 と なっている。
軍法会議はなぜ大臣告示といわなかったのか、
それは既に東京部隊だけでなく全軍に周知されているにかかわらず、
あえて説得文という。
大臣告示という以上彼等の行動を一応是認したことになるのを恐れたのであろう。
だが、それだけではない。
山下少将より説示されても これに服しなかったというのである。
これはひどい事実の歪曲である。
山下少将は告示を三度読み上げただけで、いささかも説得していない。
そこには幾人かの立会の将校もいたことであり、
これらの人も山下の朗読でホッと胸を撫でおろし喜んだというのである。
蹶起将校はまずわが事なれりと歓迎し これに服したのである。
服さなかったのではない。
これを曲げて 「 服せず説得に応じなかった 」
と 判定するがごときは、まさに言語道断である。

つぎに警備部隊編入についても、
「 第一師戦時警備の下令せらるるや、なるべくこれ等部隊は流血の惨を避け、
説得により帰隊せしめんとする警備司令官の方針に基き、
同二十六日夕より歩兵第一聯隊長小藤大佐の指揮下に入らしめられ、
次で同二十七日早朝戒厳令中の一部施行ありし後も、
前日と同一方針の下に右状態を持続せしめられたるが、
幹部はこれを以て一般の情勢好転せりと判断し、
益々その所信を深めその企図を断行推進せんと志すに至れり 」
と 判示している。
軍法会議は警備隊編入をどのように理解していたのだろうか。
彼等は大命なくして独断、不法出動したことを自覚している。
いわば脱走部隊である。
その私兵的部隊が再びもとの師団長や聯隊長の指揮に入れられた。
この認識に立つならば警備隊編入は軽々に看過できない建軍上の大問題であったはずである。
なぜこれを看過したのか。
不法出動を自覚した彼等は、許されて統帥系統に入れられたと信じた。
それはまさに占拠態勢の確立である。
一般の情勢好転とせりと判断するのは当然のことであった。
ここでも軍法会議は小藤大佐の伝達のなかったことを認めている。
指揮系統を通じて命令下達のない以上、その指揮下にあった彼等は撤退はできないはずである。
すれば戦線離脱である。
さらに軍法会議は、
「 村中孝次、香田清貞、對馬勝雄等は午前十時頃第一師団司令部に至り
師団長及び参謀長に対し、勅命の下令なきよう斡旋方を陳述し 」
と、彼等が二十八日小藤、鈴木両大佐らと共に師団司令部に赴いたことを述べているが、
そこで彼等が聞いたことは、奉勅命令はまだ下達されないとのことであったのに、
こうした軍隊指揮官の態度には、いささかも触れることがない。
軍首脳部や軍隊指揮官の不利とするところは、一切これを隠蔽しては、
彼等の罪質や量刑を判定することはできない。
裁判は軍法会議の本質には撤せず、尽すべきをつくさず、
事実を無視するなどの独断、軍の不利とするところを隠蔽するなど、
その内容は、まさに支離滅裂だった。
こうして彼等は極刑を科せられたのである。
彼等が死に臨んで昭和の大獄と叫んだのも無理からぬことである。
以上の様に、東京軍法会議は はなはだ暗いものであったが、
しかし、この事件の原因動機には一応ふれている。
だが、それはこれまでの青年将校運動を経過的に叙述するに止まって
この事件がどうして起こったのかという社会的背景の認否、
とくに、陸軍に深く根を下ろしていた革新運動の根源、派閥の存在とその抗争などについては、
その事実の追及を怠っていた。
いいかえれば、彼等の蹶起の真意、その要因といったものには克明にメスが加えられていなかった。
このために軍の根源的な反省とはならず、
粛軍の裁判といいながら、いたずらに苛酷な断罪に終始し、
粛軍の企図はその方向を誤ったのである。
河島陸相はこの事件の発生原因は極めて広汎深刻であり、
この種禍根を将来に絶滅するためには、部の内外にわたり迅速かつ徹底的措置を施すことを、
全軍に通達したにもかかわらず、軍中央部自体はなんら粛正されることはなかった。

事件の発生原因を歴史的に辿れば、
遠くは昭和初期から潜行的に行われていた隊付青年将校運動、
これにつづい桜会の誕生、そこでは国家改造が公然と論議され、
三月事件、十月事件陰謀、満洲事変、それから荒木陸相らによる青年将校運動の容認と助成、
五・一五事件、皇道派、統制派の分派と確執、さらに十一月事件と相沢事件、
こうした一連のつながりにおいて 二・二六は発生しているのだ。
まことに、この事件発生の原因は広汎にして深刻であった。
したがって、いうように真に粛軍に徹するならば、こうした源流にさかのぼって、
それらに克明なメスを加うべきであった。
その根元は、いうまでもなく国家革新という名にかざられ、
憂国と結びついた政治運動にあった。
したがって、軍から、この政治運動ないし政治への志向を徹底的に排除することが、
喫緊にとて根本的な要事であったし、
これまであいまいとされていたクーデター陰謀は公正な司直の手によって、
厳重かつ徹底した捜査に出るべきであった。
軍法会議にこのような重責を負荷することには、その軍法の上において疑義をもつものもあったであろう。
だが、軍法が粛軍の基本である以上、
少なくともこれらの摘けつは、ここでなさるべく、しかもその目標は軍中央部自体にあった。
粛正のあらしは全軍に及んだが、
ひとり中央における幕僚群は大手をふって庶政一新という政治の渦中に狂奔していた。

大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 暗黒裁判ということ


暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」

2020年10月12日 08時54分12秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

「 青年将校運動 」 を 培ったもの
二・二六事件の母体は軍の青年将校運動にあった。
そして、その青年将校運動を軍内に扶植し育成したのは、
たしかに 北の改造方案と西田の指導によるものであることは一点の疑いもない。
彼等は軍を維新革命の中核体とすることに目標をおいて、軍内の維新運動を推し進め、
これがために、軍内に革新思想をもつ青年将校の同志的横断的結成をみた。
このことは軍としては必然に国軍の団結にひびを入れ、
国家革新という魔ものに荒されて、著しい被害をうけたわけで、
その意味では彼等は軍の思想的破壊者であり憎むべき存在であったのである。
たしかに、青年将校運動がなければ彼等の蹶起もなかったわけで、
この事件と彼等の長い間の一部将校に対する働きかけには、因果関係はあった。
だが この事件、つまり 『 反乱 』 という犯罪事実を処罰するのに、
ここまで、その因果関係を遡及することは、法律上許されるものではない。
裁判は、この反乱において彼等の果たした役割とその実行を審理しうるだけであるからである。
粛軍裁判の名において、青年将校運動の発展と 北、西田の存在との関係を究明し、
このような思想的根源を叩き潰す必要があったとしても、
すでに一〇年にわたるその思想工作を、事件原因として捕捉することは、
法律的には無理なことであった。
だが、裁判は、
「 北は西田税と共に青年将校同志の思想的中心となり、その指導誘掖たすけるに努め 」
「 西田は同志の思想的中心にあると共に、革新運動の指導者たるに至れり 」
と 判示している。
西田税 
ことに、西田については、
「 近代革命の中核は軍部並に民間摘志士の団結により形成せらるべく、
就中、軍隊を使用するに非させれば 我国家の革新は遂に期すべからず
との堅き信念に基き、同志青年将校に対し、
或は日本改造方案大綱を基調とする革命理論を説き、
または 革新運動に関する将校及び軍隊の使命、心得に付 研究作業を指示し、
いわゆる 『 上下一貫、左右一体、挙軍一致の将校団運動 』 なる標語を教示し、
この根本方針に基き、軍内において益々同志の拡大強化を企図すべき旨 指示し、
これがため、
皇軍内に矯激なる思想信念を抱懐せる同志を以て横断的団結を敢てするに至らしめ 」
といい、
その後の 十一月事件、真崎教育総監更迭、
ついで 相澤事件の発生に対して西田がとった策動、
とりわけ相澤公判には、いわゆる曝露戦術で、反対勢力を潰滅する企図のもとに、
その公判対策の協議指導に任したなど、
ひたすら革新断行の醸成に努めたと、判示しているが、
これらは、西田が北と共に、青年将校の思想的中心としての実行を示して、
彼がすでに青年将校の首魁的地位にあることを示唆しさするものである。
たしかに、西田と青年将校との関係はまことに深いものがあった。
彼はいつでも青年将校の背後にあって彼等を指導鞭撻していた。
例えば、昭和八年秋 統制派幕僚が革新運動より青年将校を離そうとして、
青年将校と懇談したが、結局物わかれに終わった。
この時、西田は、
統制派幕僚の中心池田純久中佐を訪れ
その不当を詰っているが、  ・・リンク→
統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
青年将校の情勢不利であれば、
いつでも背後から飛び出して 軍に噛みついていた彼であった。
さらに、十一月事件によって村中、磯部らが検挙されると、
これは統制派が部外不純の勢力と結託して、
いわゆる維新勢力を弾圧するための偽作陰謀だと断定して、
村中、磯部らに勧めて誣告の告訴をなさしめたのであった。
そして彼等が出獄してくると、いよいよ彼等と共に統制派への一戦を試みようとし、
一〇年四月、統制派に対する闘争方針として、
『 錦旗を樹立して討幕に邁進すべし 』
との 指令を全国同志に発して青年将校を激発していた。
七月、真崎教育総監更迭問題がおこると、
人事異動の背後には、いわゆる重臣閥、軍閥の恐るべき陰謀策動があるといい、
しかもその軍閥の中心は永田軍務局長で林陸相はそのロボットにすぎないとし、
この更迭は統帥権を干犯し皇軍を私兵化したものだと断じて、
『 軍閥重臣の大逆不逞 』 ・・リンク→軍閥重臣閥の大逆不逞 
と 題する怪文書を全国同志に密送して、その奮起を促していた。
相沢中佐が永田軍務局長を斬ったのは、
このような文書や西田の言説がその動機となったことはもちろんである。
相沢が永田少将を殺害すると、
西田は、同中佐の一挙を国憲国法を越えた維新的志士の先駆的捨身だと称揚し、
この公判対策の中心となり、
一方、民間同志と共に 「 大眼目 」 という新聞を発行配布して、
青年将校を激発していた。
たしかに、そこでは、西田は青年将校の思想的中心であった。
だが、これをもって彼をこの事件の中心的存在だということはできない。
しかし、軍法会議は軍内青年将校運動と北、西田との関係を重視していた。
青年将校の矯激な思想運動が、二・二六蹶起に決定的な影響を持つというのである。
これには間違いはない。
が、反乱は、『 党ヲ結ビ 兵器ヲ執リ反乱 』 することで、
思想的な条件は、反乱罪の構成要件ではない。
わずかにその動因たるにすぎない。
さきの吉田判士長が同じ判士藤室大佐に送った書簡というのが、
高宮太平氏の 「 軍国太平記 」 に 紹介されているが、
その一節に、こう書いてある。
「 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって事件に影響があったとしても、
それはつまるところ情状に属するものである。
基本刑決定の要素にはならない。
その上、三月事件、十月事件は不問に付している。
この両事件関係も現存している状態に於いては、特に軍法会議が常人を審理する場合、
この情状は大局上の利害を較量して不問に付するのがよいと認める。
それゆえ彼等 ( 北、西田 ) の事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。
したがってその行為は首魁幇助の利敵行為である。
それはすなわち普通刑法の従犯の立場である利敵であり、
したがって刑は普通の見解では主犯よりも軽減されるべきである 」
この吉田判士長の意見は正しい。
北、西田は青年将校運動の思想的中心であっても、
それが直にこの叛乱事件の中心となるわけではなく、
事件の指導中心であるかどうかは、
さらに事件前および事件中の具体的行動について見なければならない。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 「青年将校運動」 を培ったもの
リンク→はじめから死刑に決めていた

吉田悳裁判長が
「 北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、

寺内陸相は、
「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した

「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )


暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』

2020年10月11日 05時48分29秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

暗黒裁判の象徴
北と西田を 「 反亂の首魁 」 にする
北一輝 ( 本名 ・ 輝次郎 ) が逮捕されたのは事件さなかの二月二十八日の午後八時ごろであった。
このとき中野区桃園町の北邸の奥の間には西田税と薩摩雄次がおり、
事件の對策について話し合っていたといわれる。
そこへ十数名の憲兵がやってきて北を逮捕した。
北が憲兵と対応している間、西田は北邸を逃げだした。
その後、知人宅を轉々としたが、
三月四日早朝に滞在先を私服警官に踏み込まれ、逮捕された。
西田が逮捕された日、特別陸軍軍法會議を設置する緊急勅令が公布された。
のちに陸軍次官が軍法會議の判士たちに對して行った 「 陸軍次官口演要旨 」 には次の一條がある。
「 本事件ニ關係アル者ニ附テハ常人モ公判ニ附シ 且 全國各地ニ於ケル事件ヲ併セテ裁判ス 」
これによって北と西田は蹶起將校らと同じように < 暗黒裁判 > によって裁かれることになった。
そして陸軍上層部は 「 北、西田は死刑 」 という既定方針の下、その準備を着々と進めていた。


わが國未曾有の不祥事二・・
事件勃發直後檢擧された北 一輝と西田税は
爾來東京憲兵隊並に警視廳で嚴重なる取り調べを受け
けてゐたが、
右兩名は今回の不祥事件の思想的バックをなすと共に
その黒幕となつて一部青年將校を操っていたものである
北一輝が著述し、西田税名義により發行せられた
「 日本改造法案 」 はこれを立証して余りあるものである、

即ち同書は大正八年八月上海において執筆せられ、
爾後法網を潜り所謂 「 怪文書 」 として秘密裡に頒布せられたもので、

現在に歩の政治經濟などの缼陥を摘し、
一見その弊害を芟除するが如き具體案を記述した点において、

国家改造に関心を有する一部人士の根本的思想を極めなかつた
中心分子をして 妄信せしめるに至つたものである、

その主張するところは、本流は右翼の仮面を被つた僞装左翼思想に基き、
直接行動によつてクーデターを斷行し、政權を獲得せんとするものであつて、
これが目的達成のためには軍隊に呼びかけ、
統帥權を干犯し、
神聖なる皇軍をも私兵化して手段に利用せんとした
矯激極まる所謂 「 武力行使による革命 」 を唱えたものである、・・・・


事件が終結してから半月ほど経った三月十五日、
新聞各紙には
「 二 ・二六事件の背後には北一輝、西田税あり 」
とする記事が躍った。
東京日日新聞の記者だった石橋恒喜の 『 昭和の反乱 』 によれば、
掲載の経緯はおおよそ次のようだった。
三月十三日、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐が記者クラブを訪れ
「 重大ニュース 」 があると語った。
「 北一輝と西田税は、憲兵隊と警視庁とで厳重取り調べ中である。
 その結果、驚くべし、彼らは右翼の仮面をかぶった共産主義者であることが判明した。
北の著書 『 日本改造法案大綱 』 を見るがいい、それは共産主義を基調としていることは明らかである。
彼らはこの左翼革命理論に基づき、世間にうとい青年将校たちに近づいて
『 上下一貫、左右一体、挙軍一体のための将校団運動 』 なるものを吹きこんだ。
そして、巧みに軍隊を、こんどのような不祥事に利用したのだ 」
北や西田が共産主義者でないことは記者もよく知っていた。
だから
「 見当違いなことを言うな。 北、西田は右翼の浪人ではあるが、アカじゃないよ 」
と笑い飛ばした。
ところが翌日、松村少佐は記者クラブに 『 日本改造法案大綱 』 を持参し、
一つひとつ北が共産主義者であるという、" 根拠 " を挙げ、
「 これでもニュースにならないと否定するのか 」 と迫った。
「 どうしても記事にしてほしいなら 『 戒厳司令部発表 』 としたらどうですか 」
と石橋がいうと、
「 諸君の自主的な取材によるものとしてもらいたい 」
という。
記事にしなければ軍部と対立することになる。
結局、記者たちは思ってもいないことを書かざるを得なかった。

なぜ陸軍はこうした手段をとったのか。
石橋は前掲 『 昭和の反乱 』 で次のように論じている。
「 確かに直接行動に出たのは、急進将校である。
 それについては軍事当局が、いかに報道管制をしこうとしても隠せ通せるものではない。
だが、その背後に北、西田がいて、事件の演出から監督まで一切を手がけていたならば、
軍もまた " 被害者 " の立場に立つことができる。
つまり、軍の面子を保つために 北、西田を
" 純真な青年将校 " を 操った元凶と しなければならなかったのである 」


十月一日、
吉田悳騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 ) を裁判長に、
北、西田、亀川哲也の第一回公判が開かれ、
以後十二回にわたって開廷された。
公判が進むにしたがって、吉田裁判長と他の判士との意見が対立しはじめた。
吉田裁判長は北、西田と二 ・二六事件との関係は
「 幇助 ・従犯 」 以上のものではないと考えていたが、
ほかの判士は北、西田を 「 首魁 」 としたかった。
十月二十二日、
論告求刑があり、北、西田に死刑が求刑された。
吉田裁判長は手記の中で次のように書いている。
「 論告は殆んど価値を認め難し。
 本人又は周囲の陳述を籍り、悉く之を悪意に解し、
 しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。
そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍上層部の責任である。
之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きことであつて、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思ふ。
奉職三十年初めて逢着した問題である ・・・松本清張著 『 二 ・二六事件 』
このあと、吉田裁判長は文字通り職を賭して奔走し、
一時は 「 依然過重なるも一歩希望に近づく 」 ・・・吉田手記
と その主張がみとめられるかに見えたが、
翌十二年一月十四日、
寺内寿一陸相の希望で裁判経過を報告すると、
ふたたび北、西田に対する死刑論が大勢を占めた。
寺内陸相への報告でどんな話が交わされたのか定かではないが、
陸軍省の強力な影響の下で 「 北、西田は死刑 」 とする方針が定まったといえる。
それでも吉田裁判長は、
死刑論の強硬派である藤室良輔判士の罷免か、
あるいは北、西田に対する判決言い渡しを延期しては、などと抵抗を示した。
その結果、判決は六ヵ月以上延期された。
しかし判決を延期しても状況は好転せず、
八月十四日に北と西田は死刑判決を言い渡された。
吉田は死刑を宣告したときの心境を手記にこう記している。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
 好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし 」
北と西田、そしてこの両名の証人として系の執行が延期されていた磯部、村中の処刑は、
判決から五日後の八月十九日に行われた。
この四名は、すでに処刑された蹶起将校らと異なり、刑が執行されるときには
「 天皇陛下万歳 」 をいわなかった。
そこにはどのような思いがあったのだろうか。
・・・図説  2 ・26事件  太平洋研究会編  平塚柾緒著 から
・・・リンク→ 
はじめから死刑に決めていた


はじめから死刑に決めていた

2020年10月10日 08時07分22秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

 
西田税 
軍事法廷の北・西田

北・西田ら民間人の公判が開かれたのは十月一日であった。
同期の西田が法廷に立つというので河辺も傍聴にいった。
第五法廷の民間関係のかかり裁判長は、陸軍省の吉田悳ただし騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 )
だと 聞いて心ひそかに 西田のために喜んだ。
かねてから、吉田大佐の剛直な武人らしい爽やかな人柄を耳にしていたからである。
しかし、吉田大佐も公判前は、予審調書や省内の噂話などから、北や西田に対して偏見をもっていたようだ。
手記にも
「 事件に依って刺激された一切の感情を去り、公正な審判を下すため各判士の気持を平静ならしめる 」
ことが必要だとか
「 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
などと書いているところを見ると、北や西田に好感をもってはいない。
しかし、初対面ですっかり変わる。
手記にはこうしるしている。
「 十月一日、北、西田 第一回公判、北の風貌全く想像に反す。
柔和にして品よく白皙せき、流石に一方の大将たる風格あり。
西田 第一戦の闘士らしく体軀堂々、言語明晰にして 検察官の所説を反駁するあたり 略ぼ予想したような人物 」
こうして、北、西田らに対する公判は十月二十二日まで十二回開かれ、二十二日に検察官の論告があり、
事件の首魁として死刑の求刑があった。
裁判長の吉田少将は 北や西田の陳述を聞くうちに、心境が次第に変わる。
被告の陳述に、より真実味が見出せると思うようになった。
「 十月二日、西田第二回公判、愈々難かしくなる。
本人の陳述する経過は大体に於て真に近いと思われる。
十月三日、西田第三回公判、判士全般と自分の考とは相容れぬものがある。
憐むべき心情だと思う 」
と、その手記にしるしている。
五日の項では 北一輝の人物を評価し 「 偉材たるを失はず 」 と みとめ、
北ほどの人物が世表に顯れなかったのは、
学歴がないためついに浪人の境涯から抜け出せなかったのであろうと推測している。
十月二十二日の手記は、
剛直で良識のある吉田裁判長の人柄がしのばれる公平、中正な観察を書きしるしている。
「 北、西田 論告、論告には殆んど価値を認め難し、
本人又は周囲の陳述を藉り、悉く之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、
責任の全部を被告に帰す。
抑々そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍部特に上層部の責任である。
之を不問に附して 民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きところであって、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為 放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思う。
奉職三十年 初めて逢着した問題である 」
こう 決意した吉田裁判長は北、西田が事件に対して
「 幇助・従犯 」
で あるとの正論を、寺内陸軍大臣や梅津次官に、幾度か意見具申をした。
その結果、幾分かその意見が認められそうな時もあったらしい。
手記にも 「 一歩希望に近づく 」 と しるした時もあったが、
陸軍上層部の意向は、はじめから死刑に決めていた から
吉田裁判長の正論も容れられる余地はなかった。
「 一月十四日、陸軍大臣の注文にて各班毎に裁判経過を報告する。
北、西田責任問題に対する大臣の意見 全く訳の解らないのに驚く。
あの分なら 公判は無用の手数だ。 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
と、しるしている。
吉田裁判長はそれにも屈せず、首魁、死刑説を強硬に主張する伊藤法務官を職権で罷免しようとしたが、
陸軍省の反対で、それもできなかった。
しかし、陸軍省当局も吉田裁判長の強硬な意見に てこずり 北、西田の判決を延期に決する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・挿入・・・
吉田悳裁判長が
「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、

寺内陸相は、

「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・中略  ( リンク→ 西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 ) ・・・

昭和十二年八月十一日、
頑強に反論する吉田裁判長を抑えて判士会議は遂に北、西田の死刑を決した。
「 北、西田に対する最後の会議、過去半年に亙る努力も空しく、
大勢遂に目的を達するに至らず、無念至極なるも 今や如何ともするなし、
それも天意とすれば致し方なし 」
と、吉田裁判長はその手記にしるしている。
十四日、吉田悳少将は軍人らしいキビキビした語調で判決文を朗読したが、
心中には無限の愛惜の感をたたえていたであろうことは、
その残された手記からでも推測できる。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
好漢惜みても余りあり、今や、如何ともするなし。   噫 」
と、嘆息している。
判決を聞いたあと、西田は裁判官に対して何か発言しようとしたが、
北は静かにこれを制し、二人は裁判官に一礼して静かに退出したという。

判決から五日たった八月十九日早暁、
一年前に青年将校たちが処刑された同じ場所で
村中、磯部ら四人、静かに刑架につき  四発の銃声とともに昇天した。

刑架前で西田が天皇陛下万歳を三唱しようと言い、
北は静かにそれを制して、それには及ぶまい、私はやめると言ったという。
『 北一輝 』 (田中惣五郎著) の記述は、著者がだれの証言でこう書いたかはわからないが、
公式の記録には残されてもおらず、

北、西田の平素からの言動からみて、そんな殊勝なことを言い出すとも思えない。
恐らく事実ではあるまい。
北一輝ら四名の処刑が終り、
ついで 九月二十五日 真崎甚三郎大将に、無罪の判決が言いわたされて、
二・二六事件関係のあと始末は一切終った。

もうその頃には、
日華事変の戦火は燎原の火のように、
支那大陸に拡がりつつあった。
刑死した多くの人が予見していた通り、
省部の高級軍人によって戦火は拡大され、
その侵略作戦は飽くことを知らぬありさまとなった。
しかも、
二・二六事件以後の日本の政治は、
二・二六事件を脅迫の手段にした陸軍の手に握られ、
歩、一歩と転落の度を速めつつあった。
これは 北、西田をはじめ 青年将校たちが
もっとも排撃し、嫌悪し、杞憂する方向であった。
この意味で二・二六事件は、
無意味な流血事件に過ぎなかったように見える。
青年将校たちが、純粋に、一途に冀求ききゅうしたものは、
そのような歪んだ国家の姿ではなかった。
二・二六事件が、稔りのない不毛の叛乱に終った最大の要因は、
天皇陛下の激怒にあったことは明白で、多くの人々から指摘されている。
「 大御心を忖度そんたくして、公的権限によらないで 自らの行動を正しいとする点では、
真崎も青年将校も表面では一致していた。
だがここにこそ、二・二六事件が
『 維新 』 を 標榜しつつ 敗退し壊滅していく原因があったのである 」
と、いう人もある。  ( 高橋正衛著 『 二・二六事件 』 )
大御心という表現には疑問がある。
日本の歴史上、大御心というのは
至公、至平、広大無辺の御仁慈を表す言葉である。
天皇の生々しい御感情を、そのまま大御心とは言えない。
青年将校たちは、
たしかに天皇の広大無辺な仁慈の大御心を冀こいねがっていた
ことは たしかである。
しかし、それは現実の政治的権力者たる天皇の御考えとは異質のものであった。
ここに青年将校たちの誤算があり、誤認があったと説く論者もある。
「 天皇は二重の性格をもっている。
二・二六事件は、青年将校にとって、その神聖天皇の面をひきだし、
拡大し、絶対化する運動であったが、
二・二六事件は、天皇にとっては、
機関説的天皇制を守るためにみずからが異例な権力行使をこころみた出来事であった。
二・二六事件は、天皇のもっている二重性が、それぞれ極限まで発動され、
そのため正面衝突せざるをえなかった事件である 」  ( 『 現代のエスプリ 』 九二号 )
また、
松本淸張の 『 昭和史発掘 』には、

「 磯部は天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。
古代天皇の個人的幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、
『 近代 』 天皇はその機関でしかないことが分らない。
天皇の存立は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、
体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部は知らない。
『 朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親しみは特ことに深かるべき 』
という 軍人勅諭の 『 天皇←→軍人 』 という直接的な図式は、軍人に天皇を個人的神権者に錯覚させる 」
と、述べているが、いずれも戦後の発想であり、批判であって、
戦前の青年将校たちの抱いた天皇信仰を真に理解した上での発言とは受取りがたい。
・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


反乱に非ず、叛乱罪に非ず 『 大命に抗したる逆賊に非ず 』

2020年10月04日 08時12分59秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

宮内省発表
位の返上を命ず (各通)  ( 二月二十九日 )
返上の理由
大命に抗し 陸軍将校たるの本分に背き
陸軍将校分限第三条第二号該当者と認め
目下免官上奏中のものとす。

二・二六は叛乱か
わたしは、さきに陸軍当局が、
彼らを大命に従わなかったとして大命に抗した叛徒と断定したことは、
はなはだし 不当だとかいた。
ここで、この点を明らかにしたい。

三月一日 陸軍省は
陸普第九八〇号により、陸軍次官古莊幹朗 名で、
「今次ノ不法出動部隊 ( 者 ) ヲ叛乱軍 ( 者 ) ト称スルコトトス 」
と 通達した。
これによって、
蹶起部隊は叛乱軍と呼びその参加者は叛乱者と呼ばれることになった。
爾来 叛乱部隊、叛乱罪 等々、彼らの蹶起が叛乱という言葉で統一されてしまった。
だが、
彼らは叛乱の徒であったか。
すでにみてきたように、
彼らはひとたび大命が下ればこれに従うことを信念としていた。
彼らの国体観、忠誠心に発するものであった。
ただ首謀者の一部 例えば磯部、栗原などは、
この大命が真の天皇の意思に出でずして、奸臣の輔翼に出づるものならば、
この大命輔翼者に向ってなお鉄槌を加えねばならぬとしていたにすぎない。

とにかく、事の経過をたどれば、
二十八日午前
山下奉文少将より奉勅命令の下達近きにあり、
お前たちはどうするかと聞かれ、
一同協議の上
「 天皇陛下の命令にしたがう 」
と 自決をちかった彼らであったが、
その後まもなく徹底抗戦に出て幸楽を中心に攻囲軍に対決しようとした。
この事態逆転のきっかけは、
磯部の自決について懐疑、攻囲軍の動きに対する激発、
それに北一輝の
「 奉勅命令はおどかしだろう、さいごまで頑張るべきだ 」
 との激励などが原因で、
彼らは 陸相官邸をすてて攻囲軍と対峙していた 「幸楽」 に集結してしまったのだ。
これがさきの戒厳司令部発表にあった
「 一時聴従したがたちまち前言をひるがえし 」
云々の事の内容なのである。
だが、徹底抗戦の決意に一夜をあかした彼らも、
払暁からの放送などから、
奉勅命令の下達も、もはや明らかであることを知り
続々と兵を徹して帰順したのだ。
だが、二十八日正午以来抗戦を決意し警備線上に討死しようとしたことが、
奉勅命令に抗したとて叛徒にされてしまったのである。
が、事実、
奉勅命令が下達されていない限り 彼らを大命に抗したというわけにはいかない。
しかるに、事件が鎮定してから彼らは叛乱軍とされた。
もともとこの不法出動部隊は、
はじめ行動部隊、
あるいは維新部隊といわれ
ついで統帥系統に入って南部麹町警備隊と公称されたが、
間もなく騒櫌部隊といわれ、
そして最後のドタン場になって叛徒呼ばわりの叛乱部隊とされたのである。
だが、この叛乱軍とされたことは、同時に彼らが叛乱罪に問われたこととされている。
磯部は「叛乱罪」について、こう書きのこしている。
「 吾人は叛乱をしたのではない、
蹶起の初めからおわりまで義軍であったのに、
叛乱罪に問われる理由はない。
義軍であることは告示において認め、
戒厳軍に入れられた事によって明らかになり、
警備を命ぜられたことによって、いよいよ明白でないかと、私は強弁しました。
ところが法務官の奴らは、君らのシタ事は大臣告示以前において叛乱である、というのです。
これは面白いではありませんか、私は次のように言って笑ってやりました。
さようですか、これはますますおもしろい。
大臣告示が下達される以前において国賊叛徒であるということが、
それ程明瞭であるのに、なぜ、告示を示し警備命令を与えたのです。
国賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀総長ですか、戒厳司令官ですか。
国賊を皇軍の中に陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯者ではないかと。
そしたら法務官の奴は、
何しろ中央部の腹がきまらんからね、君、といって、ウヤムヤに退却しました。
ところが、裁判長の奴、
私がチチブの宮様の事を言うたことにカコツケテ言葉がすぎるといって叱りつけるのです。
奴ら道理においてはグウの音も出ないものですから、権力をカサにきて無理を通すのです」
 (「 獄中日記 」)
強気な磯部の論弁であるが、ここでわたしの注意をひくことは
法務官が君らは大臣告示が出る前において叛乱だといったことである。
事件鎮定後の第六十九議会において、
寺内陸相は一議員の"何日から叛乱部隊であるのか"との質問に対して、
「 彼らが営門を出た時から叛乱である 」 と 答えている。
これからすれば彼らが不法に出動して
重臣を倒し中央要域を占領したことが叛乱行動であったわけであるが、
しかしそれは反乱であって叛乱ではなかった。
当時の陸軍刑法は反乱罪を規定して、
「 党ヲ結ビ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者 」 ( 陸法第二十五条 ) とあった。
つまり法律的には明らかに反乱であった。
現にこの事件は陸軍刑法第二十五条反乱の罪をもって処罰している。
この反乱行為をしたものに、わざわざ叛乱軍の名を与えたのはなぜか。
彼らが奉勅命令に従わなかったとし、
それは天皇に反逆する行為と規定して、
叛乱軍と名づけたものと解するよりほかはない。
だが、
事の実際はすでにみたように彼らを大命に抗した叛乱者としたことは、
いちじるしい不当なことであった。
事実、この命令は伝達されていなかったし、
また、彼らには大命に反抗する意思はいささかもなかったからである。
林八郎のかきのこしているように 「 一同下達されるまでやる覚悟 」 であり、
したがって、
二十九日早暁
その下達をラジオやビラでこれを確認して、
さっさと兵を返しているのである。
その上、
彼らを審理した軍法会議も
奉勅命令が彼らに正式に下達されたことは認めていないのだ。

彼らの部隊長となった小藤大佐は、
この命令を懐中ふかくおさめて下達しなかったのである。
下達のない命令には反抗するすべもないはずである。
断言する、
軍が大命に抗したとして叛徒の名を与えたことはいちじるしい不当であった。
叛乱は反乱であった。
彼らには寸毫も大命に抗するの意思はなかったことを大書しておきたい。

抗命の罪
ここでもう一つ書いておくことがある。
いささか理屈っぽくなるが。
それは、この場合の奉勅命令、
「 戒厳司令官ハ 三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ 速ヤカニ現姿勢ヲ撤シテ
各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ
奉勅    参謀総長載仁親王 」
にしたがわなかったとて、これを違勅、反逆の徒といいうるかということである。
いったい、勅命を仰いで彼らを撤退させようとは、
この事件当初に陸軍大臣の頭の中にあったことだった。
強烈なる不撤退の決意を知った大臣が、
この奥の手を用いなければ治安の回復は不可能に近いと思ったことであろう。
だが、軍隊において部下が反乱をおこした場合、
その上官はただちに鎮圧の処置をとることは、その職責上当然のことである。
何も奉勅命令を仰がなくとも
中隊長も大隊長もまた聯隊長も師団長もこれを鎮定すべき責任があった。
当時、陸軍が奉勅命令を仰いで鎮圧に出たことについてある在郷将官は、
「 軍がなにゆえに奉勅命令を仰いだか、
事件が勃発せばまず大隊長は鎮撫のため身を挺して現場にのぞみ、
肯ぜざるときは中隊長を斬るか、斬られるかの二つしかない。
大隊長倒れたら聯隊長出でよ。
聯隊長職に殉じ、しかしてのち奉勅命令を奏請すべきだ 」
といい、各級指揮官の叛徒鎮定の責任を説いていたが、
これが、そもそも軍統帥の常道であった。
だが、
流血の惨事を避けて事を鎮めようとしたことから、蹶起将校らの説得によって撤退させようとした。
しかしそのことは必ずしも不可というのではなかった。
しかし、事実、行われた説得鎮定の処置は、
ことごとく彼らの成功を信じさせるものばかりで、結果は全く逆のかたちとなってしまった。
こうした情勢の中で武力鎮圧を決意した最後の切札を仰々しく押し出したものが、奉勅命令だったのである。
なにも奉勅命令といわなくとも、軍統帥の命令はいつでも天皇の命令であったのだ。
一中隊長が部下に下す命令にしても、統帥大権の承行によって行う命令であるから、
その命令の根源は天皇にあった。
だからこの場合
奉勅命令は戒厳司令官に下されたもので
反乱に出た将校以下に下ったものではないのだ。
統帥の系統にしたがい
戒厳司令官はこれに基づいて近衛、第一師団長に命令を下す。
師団長はさらに具体的に師団命令を下す。
だからこの場合彼らは、小藤部隊として軍隊区分に入っていたのだから、
その撤退すべき命令は小藤部隊長から下達さるべきであった。
したがって
彼らは小藤大佐の命令のみで動くべきもので、
そのさきさきの命令源がどうなっているか知る必要もないことであった。
つまり彼らは
小藤部隊の命令こそ天皇の命令につながるとしてこれに服従すべきであった。
したがって、
兵を引けという小藤部隊長命令 ( 統帥命令 )  に もし従わなかったとしても、
それは抗命罪であって、大命に抗した大逆の罪などというべきではない。
現に抗命罪はあっても、奉勅命令に抗したという大逆罪はない。
要するに大命とは統帥命令であり、
もし撤退せよとの統帥命令にしたがわねば、
ただ、抗命罪が成立するだけである。
これをして大逆罪などというは、全くいいがかりであるというのほかはない。

このようないいがかりで、彼らをあるいはその遺族たちまでも、
長い間、唇かしめたことはたいへん酷なことであった。
( 昭和二十一年一月三日大赦令により大赦 )
しかし、また、この奉勅命令が形式的には、
参謀総長の上奏によって天皇の允裁を仰いだものであっても、
その事の内容においては当時の天皇の直々の意思であったことには間違いはない。
この大御心にそむいたというから、
大命にしたがわなかったというのであれば、
彼らもその撤退を頑強に拒否したのであるから、ある程度のみこめないではない。
しかしその大御心を二十六日朝来拝承していた軍首脳者たちが、
全く天皇の意思に反する 「 大臣告示 」 をつくって、彼らを激励したその不逞こそ、
道義的責任において、
反乱青年将校に十数倍する不逞反逆行為といわざるをえないであろう。
敗れて獄中に悲憤の情にえたぎりたっていた彼らこそ悲劇の主人公であった。
「 当時、大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ 即時吾人ヲ免官トナシテ逆徒トヨベルハ、
勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル 今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ( 安藤輝三遺書 )

待命に抗することのいささかなかった青年将校の心情をかいて 一応のことの真実を明らかにした。
事件の悲劇は、
天皇への彼らの忠誠が、革命する心にある限界を与えたことであった。
彼らは維新革命へと勢いこんで立ち上がったが、
その心情の底には革命遂行への限界があったのだ。
このことからいえば、
この一挙の失敗は、彼らの信条とした天皇絶対への忠誠心 
それ自身にあったともいえよう。
忠誠心をいだいて 刑死を甘んじなければならなかった所以であろう。

大谷敬二郎 二・二六事件 から


「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」

2020年10月02日 06時54分05秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


奉勅命令

天皇の勅を奉じて下す命令のことである。
大元帥としての天皇を輔翼するのが参謀総長であるから、
参謀総長が命令案をつくって天皇に申しあげ、勅裁をえる。
そしてこれを 戒厳司令官に命令するわけで、
この命令は参謀総長が 「勅を奉じて」 命令することを現わすために、
とくに 「奉勅」 とかかれることになっていた。これを奉勅命令というのである。
(戒厳司令官は天皇に直隷しる親輔職で参謀総長や陸軍大臣の命令指揮下にあるものではない)
したがって、天皇の勅裁をえた命令であるかぎり、天皇の直々の命令といってもそれは差支えない。
しかしその直々の命令は戒厳司令官に下されるのであって、蹶起青年将校に下されるものではないのだ。
だが、当事者はこの奉勅命令を天皇の直々の命令だとして、
この命令にしたがわなかったといって 「 大命に抗したり 」 と断言したが、これは不都合なことである。
天皇の命令をきかなかったというと、
天皇への忠誠心にこりかたまっていた彼らにしては以外なことであり不本意であったろう。

彼らを現所属に復帰せしめようという奉勅命令は、
すでに二十七日午前八時二十分参謀次長杉山元中将の上奏で允裁をえている。
ただ、これを戒厳司令官に下達する時機は、目下彼らを説得中であるので、
参謀総長に一任をえたいとて許しをえたのである。
ところがどうした幕僚の手違いだったか即刻これを伝えてしまったのである。
驚いた杉山次長は、戒厳司令官を訪ね、奉勅命令の下達は二十八日午前五時とすると伝えた。
すなわち奉勅命令の実施は二十八日午前八時以後ということになった。
ところがこの手違いによってこれが幕僚たちに洩れてしまった。
そしてここから混乱がおこった。
この間の事情を磯部は継のように記録している。
「----戒嚴命令は第一師戒命として、
 "二六日以來行動せる將校以下を小藤大佐の指揮に属し----の警備を命ず" 
というものである。
余等はこの事を知って百萬の力をえた。
しかし何だか變な空氣がどことなく漂っているらしい事は、頻りに我が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少將、鈴木貞一大佐迄が撤退をすすめるのである。
満井中佐は維新大詔渙發と同時に大赦令が下るようになるだろうから一應退れと言うし、
鈴木大佐、又、一應退らねばいけないではないかとの意嚮を示す。
余は不審に耐えないので、陸相官邸において鈴木大佐に對し
「 一體我々の行動を認めたのですか、どうですか 」 と問う。
大佐はそれは明瞭ではないか、戒嚴令下の軍隊に入ったと言うだけで明らかだと答える。
行動を認めて戒嚴軍隊に編入する位であるのに一應退去せよと言う理屈がわからなくなる。
かような次第で不審な點は多少あったが、
 概して戰勝氣分になって退却勧告などは受けつけようとしなかった。
----
二七日は時々軽微な撤退勧告があったが、
午後になって宿營命令が發せられたので、スッカリ安心してしまった」 
・・・「 行動記 」
彼らに好意を示す幕僚たちはすでに奉勅命令を知って、彼らにそれとなく撤退をすすめていたのだ。
だが、こうしたことが、いよいよ二十八日になって奉勅命令の実施となると、
青年将校たちは、幕僚への不信も手伝って、奉勅命令そのものの実在に疑問を投げたのであった。
「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田清貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
 一同下達サルルマデヤル覚悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 
・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」
・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍当局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。
「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 
・・・香田清貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 
・・・安藤輝三
忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
村中孝次は、
「奉勅命令に從わなかったということで、
私どもの行動を逆賊の行爲であるのようにされましたことは、
事志と全く違い忠魂を抱いて奮起した多數の同志に對し寔に申し譯ない次第であります。
しかし 私どもはかつて奉勅命令にまで逆おうとした意思は毛頭なく
最後は奉勅命令をいただいて現位置を撤退させるという
戒嚴司令官の意圖であることを知って、そんな事にならぬように、
そんな奉勅命令をお下しにならぬようにと、 色々折衝しただけでありまして、
決して逆賊になってまで奉勅命令に逆うような意思は毛頭ありませんでした。
事實、今日に至るまでいかなる奉勅命令が下されたのか、
その命令内容に関しては全然知らないのであります」 
・・・村中孝次調書

奉勅命令で撤退せしめられるという意図を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。

同じように首謀者安藤輝三も、
「 奉勅命令は命令系統からは全然聞いておりません。
ただ、二十八日夜に歩三聯隊長が幸楽に來てくれまして、
奉勅命令が下ったということの話はありましたから、その後小藤部隊長の命令を持っておりましたが、
何の命令もなく、周囲の部隊が攻撃して來ますので、
どうすることも出來ず、山王ホテルに立ちこもっておりましたような次第で、
奉勅命令に抗するというような気持は毛頭なく、
また事實、小藤部隊の指揮に入っておりましたので、
奉勅命令に從わなかったということはないと信じます」 
・・・安藤輝三調書

これ等の首謀者はもとより
第一線の指揮に任じた年少の中少尉たちも、
ひとしく奉勅命令は絶対なりとし、これを聞くと、さっさと兵を返している。
清原少尉は同期生よりこれを聞いて独断兵を指揮して歩三営門まで送り届けているし、
坂井直中尉も磯部に向って
「 もう何もいって下さるな、わたしは兵を返します 」 といい兵をかえしている。
錦旗に逆わず、大命に抗せずとは彼らの信念であった。

ところが、同志将校であってもこの奉勅命令のうけとめ方に若干の違いがあるやに感じられる。
というのは、例えば磯部は、
「 われわれはその裏の事情を少しも知らず、
 ただ何だか奉勅命令でおどかされていいるようにばかり考えた 」
と かきのこしているし
二十八日幸楽にいた香田大尉も、
歩三の新井勲中尉が奉勅命令が出たことを伝えると即座に、
奉勅命令なんかデマだと一蹴しているし、
また安藤大尉も、二十九日払暁、
清原少尉が遠くからのラジオ放送で、奉勅命令が下ったと聞き、
その去就に迷って山王ホテルに安藤を訪ねると、
彼は奉勅命令は謀略だとこの後輩を叱咤激励した。
そこでは彼らが奉勅命令をうけつけまいとする心情と、
それが彼らを撤退させるための
「 いつわりとおどし 」 だとする思念がいりまじっている。

磯部は二十八日 朝
戒厳司令部で満井中佐に会ったとき、こうのべたといっている。
「 臺上にする私どもを解散することは、軍が維新翼賛することにならぬ。
すなわち、私どもがあの臺上にいることによって、國をあげての維新斷行の機でもある。
奉勅命令が下っても、
實に宮中不臣の徒の策謀によって陛下の大御心をおおい奉るの奉勅命令だとしか考えられません。
だからこの際われわれは、
もし部隊を解散させられたならば、
断乎各自の決意において不臣の徒に對して天誅を加えなければならぬと 」
しかし彼は、奉勅命令になぜ従わなかったのかという調査官の質問には、
「 大命のままに行動する決心でありました、
 ただ、各級指揮官からは奉勅命令が下ったという拙論ではなしに、
下ったらどうするかという拙論であったので、前同志に徹底しなかったのです。
今から考えて見て大命があったことについては、まことに恐懼している次第であります 」
と 述べていたが、さらに、
「 ただ、奉勅命令が政党政治家のやるような
 議會解散のための詔書を事前に上奏ご裁可を得ておいて
機に応じて渙發するが如き天皇機關説的思想によって行われるものでありますならば、
私どもは非常なる國體冒瀆だと考えます。
當時の狀況におきましては、たしかに一部重臣、その他軍幕僚の策動によって、
機關説思想より發する奉勅命令が渙發されるような氣運を看取したのであります。
かかる場合においては、奉勅命令にしたがわないというのでなく、
機關説思想によって陛下の御聖明をおおい奉の不臣の徒に對して
最後まで戰わねばならんと考えました 」
これが磯部の本心なのであろう。

また、栗原安秀は憤りをこめて、
「 陸軍當局は最後において吾人を逆賊なりとの傳單を飛行機上より撒布し、
 あるいは放送せしめたのでありますが、
われわれはこのとき、
いかに方便のためとはいえ當局者のとった手段がいかに殘薄なるかに、
ひそかに涕泣したものであります。
われわれは、出動しわれわれを攻撃し來る軍隊が勅命を奉じたるものならば、
われわれは甘んじて屈服するの腹をきめていたのであります。
維新の大原則として殊死して玉砕すべきでありましたが、
われわれのとったのは實に屈服にあり、
わたしは首相官邸にあってこの重大な岐路に立ったのであります。
ただ玉砕するも屈服するも、結果においては大きな相違がなければ、
輦轂の下に陛下の宸襟を悩し奉ること、これ以上なるを恐れたのであります 」
栗原にとっては奉勅命令のもとにこれにしたがうのは 「 屈服 」 であったのである。
彼はまた、こうもいっている。
「 二十九日の払暁首相官邸において
 戒嚴司令部の放送をきき初めて奉勅命令を確知したのであります。
爾後、攻囲部隊遂次前進し來り、このまま推移せんか衝突をまぬがれぬ、
したがってここに屍山血河を築くも、いたずらに宸襟を悩し奉るにすぎず、
と感じ磯部と相會し引くことに決しめ 」
・・・栗原調書

この二人の軍人革命家は、
あるいは機関説信奉者に対して徹底的に戦うといい、
あるいは、革命の本質からは一戦を交えて討死すべきだったという。
ここに革命家の先覚として他の青年将校とはいささか異なるものがあり、その心理は複雑であるが、
しかし真の大御心による奉勅命令にはしたがうが、
その真偽は不明だったというのが少なくとも二十九日朝までの彼らの受け取り方であったが、
もはや間違いはなく奉勅命令が下っては、磯部や栗原にしても、
無念ではあるが、ここに兵を収めざるを得なかったのである。

いうまでもなく奉勅命令は天皇の直々の命令として心象される。
そこに第一線将校の天皇観による即座の反応がおこる。
それは軍人として絶対に服従すべきもの、これに弓を引くことは絶対に許されない。
これが日本軍隊伝統の天皇観である。
しかし これに最後まで抵抗をつづけていたのが、磯部であり栗原であった。
こうしてみると、青年将校の奉勅命令のうけとり方にも若干の違いがあった。
それは当然に彼らの天皇観につながり、かつその革命観に由来するところの違いであった。
獄中、反乱将校たちは事の別明するにつけ、
大臣告示は説得案、
戒厳部隊の編入は謀略と知らされ、
悲憤の涙に軍の措置をうらんだ。
磯部は、
「 余は惡人だ、だからどうも物事を善意に正直に解されぬ。
例の奉勅命令に對しても余だけは初めからてんで問題にしなかった。
インチキ奉勅命令なんかに誰が服從するかというのが眞底だった 」 
・・・「 獄中日記 」 八月十五日
「 この時代、この國家において吾人のごときもののみは、
奉勅命令に抗するとも忠道をあやまりたるものでないことを確信する。
余は眞忠大義大節の士は、奉勅命令に抗すべきであることを斷じていう。
二月革命の日、斷然、奉勅命令に抗して決戰死闘せざりし吾人は、
後世 大忠大義の士にわらわれることを覺悟せねばならぬ 」 
・・・同右八月十七日
と はげしく奉勅命令に抗すべきだったと書きのこしている。
激情家磯部のこととて奉勅命令に降参したことが
今日の境遇においやったものとしての悔恨が、
右の文字となっているのであろうが、
革命家磯部の面目躍如たるものがある。

青年将校の天皇観は絶対であった。
それは日本軍隊の正統的思想であったが、
これに革命思想が加わってくると、人によりその感応を異にしてくる。
湯河原で傷つき熱海陸軍病院で自決した河野寿大尉のごときは、
そのもっとも強烈なる天皇絶対者であった。
すでに逆徒となっては、もはや公判闘争さえ許されない、
ただ自決し遺書によってのみ世論を喚起すべしとし、獄中同志に自決を勧告した。
だが、北一輝の革命法典を絶対に心奉していた磯部や栗原は、
その革命信条のために、奉勅命令の感応にいささか違ったものを見せていたのである。
しかし、いかにそこに感応のちがいをもつといっても、やはり彼らは日本の軍人であった。
その国体観、天皇観は絶対であった。
したがってこの革命においてトコトンまでやるといってもそこに限界があった。

村中孝次は、同志中の理論家であったが、
昭和維新という言葉さえ臣下の口にすべきものではないといい、
いわんや 天皇に強要し奉るが如きは厳に戒慎したというよりも、
彼らには思ってもできない事柄であった。
ここに この一挙革命の悲劇がある。
重臣を殺戮しあるいは幽閉して天皇を孤立化において、
事を運ぶなどは絶対に許されないことであった。

大谷敬二郎 二・二六事件 から