「 靑年將校運動 」 を 培ったもの
二・二六事件の母體は軍の靑年將校運動にあった。
そして、その靑年將校運動を軍内に扶植し育成したのは、
たしかに 北の改造方案と西田の指導によるものであることは一點の疑いもない。
彼等は軍を維新革命の中核體とすることに目標をおいて、軍内の維新運動を推し進め、
これがために、軍内に革新思想をもつ靑年將校の同志的横斷的結成をみた。
このことは軍としては必然に國軍の團結にひびを入れ、
國家革新という魔ものに荒されて、著しい被害をうけたわけで、
その意味では彼等は軍の思想的破壊者であり憎むべき存在であったのである。
たしかに、靑年將校運動がなければ彼等の蹶起もなかったわけで、
この事件と彼等の長い間の一部將校に對する働きかけには、因果關係はあった。
だが この事件、つまり 『 反亂 』 という犯罪事實を處罰するのに、
ここまで、その因果關係を遡及することは、法律上許されるものではない。
裁判は、この反亂において彼等の果たした役割とその實行を審理しうるだけであるからである。
粛軍裁判の名において、靑年將年校運動の發展と 北、西田の存在との關係を究明し、
このような思想的根源を叩き潰す必要があったとしても、
すでに一〇年にわたるその思想工作を、事件原因として捕捉することは、
法律的には無理なことであった。
だが、裁判は、
「 北は西田税と共に靑年將将校同志の思想的中心となり、その指導誘掖たすけるに努め 」
「 西田は同志の思想的中心にあると共に、革新運動の指導者たるに至れり 」
と 判示している。
西田税
ことに、西田については、
「 近代革命の中核は軍部竝に民間摘志士の斷結により形成せらるべく、
就中、軍隊を使用するに非させれば 我國家の革新は遂に期すべからず
との堅き信念に基き、同志靑年將青将校に對し、
或は日本改造方案大綱を基調とする革命理論を説き、
または 革新運動に關する將校及び軍隊の使命、心得に附 研究作業を指示し、
いわゆる 『 上下一貫、左右一體、擧軍一致の將校團運動 』 なる標語を敎示し、
この根本方針に基き、軍内において益々同志の擴大強化を企圖すべき旨 指示し、
これがため、皇軍内に矯激なる思想信念を抱懐せる同志を以て横断的團結を敢てするに至らしめ 」
といい、
その後の 十一月事件、眞崎敎育總監更迭、
ついで 相澤事件の發生に對して西田がとった策動、
とりわけ相澤公判には、いわゆる曝露戰術で、反對勢力を潰滅する企圖のもとに、
その公判對策の協議指導に任したなど、
ひたすら革新斷行の醸成に努めたと、判示しているが、
これらは、西田が北と共に、靑年將校の思想的中心としての實行を示して、
彼がすでに靑年將校の首魁的地位にあることを示唆しさするものである。
たしかに、西田と靑年將校との關係はまことに深いものがあった。
彼はいつでも靑年將校の背後にあって彼等を指導鞭撻していた。
例えば、昭和八年秋 統制派幕僚が革新運動より靑年將校を離そうとして、
靑年將校と懇談したが、結局物わかれに終わった。
この時、西田は、統制派幕僚の中心池田純久中佐を訪れ その不當を詰っているが、 ・・リンク→・統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」
靑年將校の情勢不利であれば、いつでも背後から飛び出して 軍に噛みついていた彼であった。
さらに、十一月事件によって村中、磯部らが檢擧されると、
これは統制派が部外不純の勢力と結託して、
いわゆる維新勢力を彈壓するための僞作陰謀だと斷定して、
村中、磯部らに勧めて誣告の告訴をなさしめたのであった。
そして彼等が出獄してくると、いよいよ彼等と共に統制派への一戰を試みようとし、
一〇年四月、統制派に對する闘爭方針として、
『 錦旗を樹立して討幕に邁進すべし 』
との 指令を全國同志に發して靑年將校を激發していた。
七月、眞崎敎育總監更迭問題がおこると、
人事異動の背後には、いわゆる重臣閥、軍閥の恐るべき陰謀策動があるといい、
しかもその軍閥の中心は永田軍務局長で林陸相はそのロボットにすぎないとし、
この更迭は統帥權を干犯し皇軍を私兵化したものだと斷じて、
『 軍閥重臣の大逆不逞 』 ・・リンク→軍閥重臣閥の大逆不逞
と 題する怪文書を全國同志に密送して、その奮起を促していた。
相澤中佐が永田軍務局長を斬ったのは、
このような文書や西田の言説がその動機となったことはもちろんである。
相澤が永田少將を殺害すると、
西田は、同中佐の一擧を國憲國法を越えた維新的志士の先驅的捨身だと稱揚し、
この公判對策の中心となり、
一方、民間同志と共に 「 大眼目 」 という新聞を發行配布して、
靑年將校を激發していた。
たしかに、そこでは、西田は靑年將校の思想的中心であった。
だが、これをもって彼をこの事件の中心的存在だということはできない。
しかし、軍法會議は靑年將校運動と北、西田との關係を重視していた。
靑年將校の矯激な思想運動が、二・二六蹶起に決定的な影響を持つというのである。
これには間違いはない。
が、反亂は、『 党ヲ結ビ 兵器ヲ執リ反亂 』 することで、
思想的な条件は、反乱罪の構成要件ではない。
わずかにその動因たるにすぎない。
さきの吉田判士長が同じ判士藤室大佐に送った書簡というのが、
高宮太平氏の 「 軍國太平記 」 に 紹介されているが、
その一節に、こう書いてある。
「 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって事件に影響があったとしても、
それはつまるところ情狀に属するものである。基本刑決定の要素にはならない。
その上、三月事件、十月事件は不問に附している。
この兩事件關係も現存している狀態に於いては、特に軍法會議が常人を審理する場合、
この情狀は大局上の利害を較量して不問に附するのがよいと認める。
それゆえ彼等 ( 北、西田 ) の事件關係行爲のみをとらえ、犯罪の輕重を観察するを要する。
したがってその行爲は首魁幇助の利敵行爲である。
それはすなわち普通刑法の從犯の立場である利敵であり、
したがって刑は普通の見解では主犯よりも輕減されるべきである 」
この吉田判士長の意見は正しい。
北、西田は靑年將校運動の思想的中心であっても、
それが直にこの叛亂事件の中心となるわけではなく、
事件の指導中心であるかどうかは、
さらに事件前および事件中の具體的行動について見なければならない。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 「青年将校運動」 を培ったもの
リンク→はじめから死刑に決めていた
吉田悳裁判長が
「 北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、
寺内陸相は、
「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した。
「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )