あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

はじめから死刑に決めていた

2020年10月10日 08時07分22秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

 
西田税 
軍事法廷の北・西田

北・西田ら民間人の公判が開かれたのは十月一日であった。
同期の西田が法廷に立つというので河辺も傍聴にいった。
第五法廷の民間関係のかかり裁判長は、陸軍省の吉田悳ただし騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 )
だと 聞いて心ひそかに 西田のために喜んだ。
かねてから、吉田大佐の剛直な武人らしい爽やかな人柄を耳にしていたからである。
しかし、吉田大佐も公判前は、予審調書や省内の噂話などから、北や西田に対して偏見をもっていたようだ。
手記にも
「 事件に依って刺激された一切の感情を去り、公正な審判を下すため各判士の気持を平静ならしめる 」
ことが必要だとか
「 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
などと書いているところを見ると、北や西田に好感をもってはいない。
しかし、初対面ですっかり変わる。
手記にはこうしるしている。
「 十月一日、北、西田 第一回公判、北の風貌全く想像に反す。
柔和にして品よく白皙せき、流石に一方の大将たる風格あり。
西田 第一戦の闘士らしく体軀堂々、言語明晰にして 検察官の所説を反駁するあたり 略ぼ予想したような人物 」
こうして、北、西田らに対する公判は十月二十二日まで十二回開かれ、二十二日に検察官の論告があり、
事件の首魁として死刑の求刑があった。
裁判長の吉田少将は 北や西田の陳述を聞くうちに、心境が次第に変わる。
被告の陳述に、より真実味が見出せると思うようになった。
「 十月二日、西田第二回公判、愈々難かしくなる。
本人の陳述する経過は大体に於て真に近いと思われる。
十月三日、西田第三回公判、判士全般と自分の考とは相容れぬものがある。
憐むべき心情だと思う 」
と、その手記にしるしている。
五日の項では 北一輝の人物を評価し 「 偉材たるを失はず 」 と みとめ、
北ほどの人物が世表に顯れなかったのは、
学歴がないためついに浪人の境涯から抜け出せなかったのであろうと推測している。
十月二十二日の手記は、
剛直で良識のある吉田裁判長の人柄がしのばれる公平、中正な観察を書きしるしている。
「 北、西田 論告、論告には殆んど価値を認め難し、
本人又は周囲の陳述を藉り、悉く之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、
責任の全部を被告に帰す。
抑々そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍部特に上層部の責任である。
之を不問に附して 民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きところであって、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為 放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思う。
奉職三十年 初めて逢着した問題である 」
こう 決意した吉田裁判長は北、西田が事件に対して
「 幇助・従犯 」
で あるとの正論を、寺内陸軍大臣や梅津次官に、幾度か意見具申をした。
その結果、幾分かその意見が認められそうな時もあったらしい。
手記にも 「 一歩希望に近づく 」 と しるした時もあったが、
陸軍上層部の意向は、はじめから死刑に決めていた から
吉田裁判長の正論も容れられる余地はなかった。
「 一月十四日、陸軍大臣の注文にて各班毎に裁判経過を報告する。
北、西田責任問題に対する大臣の意見 全く訳の解らないのに驚く。
あの分なら 公判は無用の手数だ。 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
と、しるしている。
吉田裁判長はそれにも屈せず、首魁、死刑説を強硬に主張する伊藤法務官を職権で罷免しようとしたが、
陸軍省の反対で、それもできなかった。
しかし、陸軍省当局も吉田裁判長の強硬な意見に てこずり 北、西田の判決を延期に決する。
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・・・挿入・・・
吉田悳裁判長が
「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、

寺内陸相は、

「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した
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「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )

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・・・中略  ( リンク→ 西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 ) ・・・

昭和十二年八月十一日、
頑強に反論する吉田裁判長を抑えて判士会議は遂に北、西田の死刑を決した。
「 北、西田に対する最後の会議、過去半年に亙る努力も空しく、
大勢遂に目的を達するに至らず、無念至極なるも 今や如何ともするなし、
それも天意とすれば致し方なし 」
と、吉田裁判長はその手記にしるしている。
十四日、吉田悳少将は軍人らしいキビキビした語調で判決文を朗読したが、
心中には無限の愛惜の感をたたえていたであろうことは、
その残された手記からでも推測できる。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
好漢惜みても余りあり、今や、如何ともするなし。   噫 」
と、嘆息している。
判決を聞いたあと、西田は裁判官に対して何か発言しようとしたが、
北は静かにこれを制し、二人は裁判官に一礼して静かに退出したという。

判決から五日たった八月十九日早暁、
一年前に青年将校たちが処刑された同じ場所で
村中、磯部ら四人、静かに刑架につき  四発の銃声とともに昇天した。

刑架前で西田が天皇陛下万歳を三唱しようと言い、
北は静かにそれを制して、それには及ぶまい、私はやめると言ったという。
『 北一輝 』 (田中惣五郎著) の記述は、著者がだれの証言でこう書いたかはわからないが、
公式の記録には残されてもおらず、

北、西田の平素からの言動からみて、そんな殊勝なことを言い出すとも思えない。
恐らく事実ではあるまい。
北一輝ら四名の処刑が終り、
ついで 九月二十五日 真崎甚三郎大将に、無罪の判決が言いわたされて、
二・二六事件関係のあと始末は一切終った。

もうその頃には、
日華事変の戦火は燎原の火のように、
支那大陸に拡がりつつあった。
刑死した多くの人が予見していた通り、
省部の高級軍人によって戦火は拡大され、
その侵略作戦は飽くことを知らぬありさまとなった。
しかも、
二・二六事件以後の日本の政治は、
二・二六事件を脅迫の手段にした陸軍の手に握られ、
歩、一歩と転落の度を速めつつあった。
これは 北、西田をはじめ 青年将校たちが
もっとも排撃し、嫌悪し、杞憂する方向であった。
この意味で二・二六事件は、
無意味な流血事件に過ぎなかったように見える。
青年将校たちが、純粋に、一途に冀求ききゅうしたものは、
そのような歪んだ国家の姿ではなかった。
二・二六事件が、稔りのない不毛の叛乱に終った最大の要因は、
天皇陛下の激怒にあったことは明白で、多くの人々から指摘されている。
「 大御心を忖度そんたくして、公的権限によらないで 自らの行動を正しいとする点では、
真崎も青年将校も表面では一致していた。
だがここにこそ、二・二六事件が
『 維新 』 を 標榜しつつ 敗退し壊滅していく原因があったのである 」
と、いう人もある。  ( 高橋正衛著 『 二・二六事件 』 )
大御心という表現には疑問がある。
日本の歴史上、大御心というのは
至公、至平、広大無辺の御仁慈を表す言葉である。
天皇の生々しい御感情を、そのまま大御心とは言えない。
青年将校たちは、
たしかに天皇の広大無辺な仁慈の大御心を冀こいねがっていた
ことは たしかである。
しかし、それは現実の政治的権力者たる天皇の御考えとは異質のものであった。
ここに青年将校たちの誤算があり、誤認があったと説く論者もある。
「 天皇は二重の性格をもっている。
二・二六事件は、青年将校にとって、その神聖天皇の面をひきだし、
拡大し、絶対化する運動であったが、
二・二六事件は、天皇にとっては、
機関説的天皇制を守るためにみずからが異例な権力行使をこころみた出来事であった。
二・二六事件は、天皇のもっている二重性が、それぞれ極限まで発動され、
そのため正面衝突せざるをえなかった事件である 」  ( 『 現代のエスプリ 』 九二号 )
また、
松本淸張の 『 昭和史発掘 』には、

「 磯部は天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。
古代天皇の個人的幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、
『 近代 』 天皇はその機関でしかないことが分らない。
天皇の存立は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、
体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部は知らない。
『 朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親しみは特ことに深かるべき 』
という 軍人勅諭の 『 天皇←→軍人 』 という直接的な図式は、軍人に天皇を個人的神権者に錯覚させる 」
と、述べているが、いずれも戦後の発想であり、批判であって、
戦前の青年将校たちの抱いた天皇信仰を真に理解した上での発言とは受取りがたい。
・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から