・・・憲兵報告・公判状況 42 『 西田税 』 の 続き
第四回公判狀況
二 ・二六事件公判開狀況ニ關スル件報告 ( 第五公判廷 )
十月五日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、開廷ヲ宣シ、
直チニ被告北輝次郎ノ身分調ヲナシ、事實審理ニ入ル。
北一輝
法務官 「 學歴及經歴ヲ申述ベヨ 」
郷里ノ中學校ヲ三年ニテ退學、東京ニ來リ、
各図書館等ニ出入シ獨學研究シ、自己ノ中學時代ヨリ疑問ノ諸点ノ解決ニ努力シ、
二十二年ノ秋ヨリ 「 國體論及純正社會主義 」 ノ著書ノ爲メ努力シマシタ。
田舎出ノ書生デアル事ト資金ガアリマセン爲、出版ニ際シ相當苦労シ、
二十三年ニ完成シ自費ニテ發行シマシタガ、社會ニ及ボス影響大ナル故ヲ以テ發禁トナリマシタガ、
此ノ著書ヲ通ジ各思想運動者、幸徳秋水、堺利彦、片山潜
及 支那亡命者 孫逸仙等ト交際 竝 相知ル事トナリマシタ。
該著書ヲ通ジテ多數ノ人ヲ知ル様ニナリマシタ。
法務官 「 國體論及純正社會主義ヲ著述スルニ至リタル動機如何 」
中學時代ヨリ國體問題ニ就イテハ非常ニ關心ヲ有シテ居リ、
中學ノ先生ニ問フテモ明確ナル回答ヲ得マセンノデ、
一般學者間ニ唱ヘラレタル皇祖ノ外國ヨリ移住説ニ對シ不満ヲ有シテ居ル事ト、
郷土ニ順徳天皇 及 後鳥羽上皇ノ遺跡等アリ 歴史上ノ參考資料ノアル事ヨリ
日本ノ歴史ヲ嚴密ニ研究シタル結果、日本民族我ガ國土ニ發生シ發展シタル事ヲ感ジマシタ。
一般ニ唱ヘラル移住説、「 馬來民族 」、亦、漢民族デアルトスレバ、
彼ノ文化ノ發展セル民族 ( 漢民族 ) ニハ言語 及 文字モアリ、
移住ニ際シ人ガ言語文字ヲ忘却スルコトナシ。
本土ニ言語文字ニ其遺跡アルベク、文字等ノ遺跡ナキハ然ラザル事明白ナリ。
馬來民族ノ如キ非文明ナル民族ガ、
現今ニ於テスラ航海困難ヲ來ス支那海ヲ數千年前ニ丸木船ニテ渡來セル事ハ不能ニテ、
信ズル事出來ザルモノナリ。
即チ、我ガ國體ハ日本ノ歴史ノ上ニノミ發見確認出來ルモノナリ。
純正社會主義論ニ就イテ
當時ノ社會主義者間ニハ 「 ダアヴイン 」 進化論中ノ優勝劣敗論ト
大杉榮ノ唱ヘタル相互扶助論ガ相當抬頭シテ居リマシタ。
幸徳秋水、大杉榮ニ接シ種々研究シマシタ。
彼等ノ社會主義ナルモノノ生命単位ハ個人ナルガ故ニ、
優勝劣敗ニモ見ヘ、相互扶助ニモ見ヘ、
之レハ各々眞ノ國家社会ノ福利民福ヲ基準ニシテ論ジテ無イ感ガアリマシタ。
當時ノ社會主義ガ全部日露戰爭反對論ヲ唱ヘテ社會主義ノ第一義トナシテ居リ、
考究スルニ、彼等ハ國際主義者デアリマシタ。
自分ハ社會ノ生命単位ヲ國家ニオキマシタ。
國家ノ發展ノ爲ニハ、國民ハ相互扶助ヲ行フモノデアリマス。
乍併、諸外國トノ間ニハ優勝劣敗ヲ繰返スモノデアル。
此ノ見地ヨリ相互扶助デアリ、優勝劣敗デアル。
即チ、現在ノ日露戰爭ハ國家ノ優勝劣敗上必要ナルコトニテ、
日本ノ眞使命デアルト大書特筆シテ日露戰爭ヲ賞讃シマシタ。
我ガ國ノ社會主義ハ日本ノ歴史ノ上ニ樹立スベキデアルト論ジ、
他ノ社會主義ハ不純ナルモノトシテ、自分ノ説ヲ純正ト爲シタノデアリマシタ。
法務官 「國體論及純正社會主義ノ観察ハ、今猶同様カ 」
當時ハ二十三歳ノ青年デアリ、生命単位ヲ國家ト爲シタコトハ一大發見ヲ爲シタ様ニ感ジマシタ。
今日ニ於テ國體論及純正社會主義ニ於テモ相當加筆訂正ノ要アルト存ジマスガ、
根本精神ニハ變わり在リマセン。
法務官 「 當時幸徳秋水及大杉栄、片山潜等ト交際シアルト云フガ、
彼等ノ思想ハ著書中ニ這入ッテ居ルノデハナイカ 」
當時牛込區百人町ニ居住シ、
附近ニ幸徳秋水、片山潜、堺利彦等ガ居住シテ居ツタ關係カラ交際ハシマシタガ、
思想的ニ相通ジマセンデシタ。
幸徳ハ個人的ニハ立派ナル人物デ、他ノ片山、堺等トハ性格ノ相異デ親シクアリマセンデシタ。
以上ノ如クデ、著書中ニハ全然彼等ノ思想ハ這入ルコトナク、
當時社會運動者ガ日露戰爭ニ反對シタガ、
自己ノ著書中ニハ純正社會主義トシテ戰爭ヲ是認シテアリマスノデ、當時相當糾彈セラレタ事實モアリマス。
法務官 「 其後經緯ニ就テ述ベヨ 」
前ニ申上ゲマシタ著書ニヨリ、當時支那ヨリ日本ニ留学スル二万人近クノ留學生中ノ一部
及 亡命者 孫逸仙 其他ト接スル様ニナリ、一夜 孫逸仙ト支那革命ニツキ懇談シ、
相通ヅル処アリ、相共ニ支那革命ニ努力奔走スルコトヲ一夜ニシテ約シ、
其後孫逸仙、黄興、宋教仁、張継 等ト親密ナル交際ヲ爲スニ至リ、
吾ハ支那革命ニ全能力ヲ傾注スルニ至リ、言論機關ヲ通ジ革命熱ヲ煽ル他、
啓蒙運動ニ從事シテ二、三年ヲ經過シ、東京ニ於テ専門的ナル武器其他ノ準備計畫ヲ樹立中、
武漢ニ豫期セザル革命ノ烽火ガ揚リタルヲ以テ、
南京ノ孫ヨリ電報ニテ支那ニ來ルコトヲ要請セルヲ以テ直チニ準備ヲ爲シ出發シマシタ。
法務官 「 支那革命ニ就テノ被告ノ立場如何 」
當時ノ支那ハ明ガ殪レ清ガ興リテ漢民族ヲ壓迫スルニ至リマシタノデ、
私ハ將來日本ガ満洲ヲ日本ノ權益化ニオクニツイテハ、
満洲及北支ニ絶大ナル勢力ヲ有スル清朝ヲ壓殪シ、漢民族ニ依リ南京ヲ中心トスル十八洲ノ政府ヲ樹立シ、
南方ヨリ迫リ、北方ヨリ進ムニ依リ、清朝ヨリ満洲及北支ヲ日本ニ提供セシメルト共ニ、
支那民族ノ清朝ヨリ重壓下ヨリ救フコトヲ重要ナル主眼點トシテ望ミ、
内田良平 及 時ノ政府員ト準備交渉爲シ、支那ニ渡リ上海ヨリ南京、武昌ト第一支那革命ノ中心地ヲ歩キ、
孫逸仙及同志等ト相謀リ全支那ノ革命ヲ促進セシメ、革命軍ヲ支持シ、
日本ノ政府ヲシテ革命軍ノ支援ヲ爲サシメ、南京臨時政府ヲ成立セシメ、
同政府ノ顧問トシテ活躍致シマシタ。
革命ガ成功シ、袁世凱ガ此時帝位ニ就キ、北京ニ滞在、一歩モ北京ヲ出ヨウトセズ、
革命軍全部ニ自分達モ北京ニ政府ヲ置クハ將來ノ爲良好ナラズトシ、
南京入リヲ要請セシモ、其儘ナルト、五ヶ國借款ヲ袁世凱ガ爲シタル爲、
第二革命ヲ起スベク準備奔走シ兵ヲ起シタルモ、袁世凱ハ北京ニテ死亡後ハ、
五ヶ國中日本ノミガ之ニ参加シアリテ革命軍壓迫シタル爲、
日本ト相結ビ來リタル同志及支那要人ハ殆ンド排日家ト變化シ、
今日ノ排日思想ヲ起サシムルニ至リマシタ。
コノ爲、退去命令ニ依リ日本ニ歸ヘリマシタ。
一度支那ヨリ日本ニ來タリマシテ支那革命外史 其他ヲ著述シ、
再ビ大正五年ヨリ南京ニ赴キ旧同志等ト相結ビ浪人生活ヲ過シテ居ルウチ、
欧州戰爭ノ發生ニ從フ日本ノ聯合軍參加及相次グ外交問題ノ失敗等ト支那ニ於ケル排日運動ノ旺盛、
世界思想ノ大混亂 特ニロシア革命、ドイツノ崩壊 等相ツイデ發生スルヲ見テ、
日本ノ將來内外共ニ多事多難ノ未曾有ノ時代到來スベキヲ感ジ、
大正八年上海ノ排日運動眞只中ニ於テ 日本改造法案大綱ヲ著述シ、
大正九年壱月日本ニ大川周明氏ノ招致ニ依リ歸ヘリマシタ。
法務官 「 日本ニ渡ル當時ノ狀況如何 」
大正八年九月中 大川氏 日本改造法案大綱執筆中ノ自分ヲ訪フテ、
日本ニ革命興ル、至急歸ヘラレタシ云々、ト申セシヲ以テ、
手段、方法 竝建設計畫ニ就キ聞キタルモ、
具體案ナキヲ以テ、執筆中ノ日本改造法案大綱ノ原稿ヲ見セタルニ
同氏ハ大イニ喜ビ、之ヲ參考資料ト爲スコトトシ、直チニ日本ヘ歸ヘリ、
自分ハ殘餘ノ執筆ヲ完了シ、同年十二月 上海出發日本ニ來リタルニ、
上海ニ於ケル朝鮮総督ヨリノ密偵ノ誤報ニ依リ革命児トシテノ取扱ヲ受クルニ至リ、
大川氏等ノ猶存社ニ行キタルガ、憲兵、警察官ノ警戒キビシキヲ以テ不快ナル感ニ打タレタルガ、
東京憲兵隊長ト面接ノ結果、誤解ハ一掃シマシタ。
法務官 「 猶存社時代ノ活動如何 」
猶存社ハ自分歸朝前ニ大川氏等ガ結成シタルモノニシテ直接關係ナキモ、
自分ノ宿舎ガ猶存社ノ二階ナル關係上 種々ナ人々ト面接スルコトトナリマシタガ、
次第ニ交渉ヲ斷レマシタ。
今生天皇ノ御成婚ニ際シテハ長閥ヲ相手トシテ極力運動ニ成功セシ結果、
猶存社ノ名ト共ニ一般ニ知ラレル様ニナリ、
其後 ヨツフエ 來朝問題ニ際シ 仝社ノ人々ガ後藤新平等ト共ニ礼賛シタルヲ以テ自分一人ニテ反對シ、
ロシア承認ハ共産党ノ直輸入ナルコトヲ提唱、遂ニ同氏ト意見衝突ヲ來シ、
猶存社ノ看板ヲ取ハヅシ、北一輝ト改名、其後ノ猶存社ニハ關係セズ、
直接間接ニモ同社ト交渉ヲ持チマセンデシタ。
法務官 「 大川周明ト離別セル狀況如何 」
大川氏トハ性格上相離反スルコトナキモ、
西田税ガ大川氏ヲ最モ信任スル牧野伸顕ニ對シ皇室林不法拂下問題ヲ惹起セシコト、
私ガ朴烈ノ怪冩眞問題ニテ若槻内閣ヲ打殪スベク企圖運動中、
西田ノ牧野宛ノ手紙ニ聯座懲役三ケ月ニ処セラレタルコトト、
大川氏ノ立場ヲ失ハシメタルコトニ依り 次第に相離反スルコトトナリ、
直接間接ノ衝突ハアリマセンガ、西田ガ大川氏ト議論セシ
ト 猶存社及行地社ノ出版部ニテ日本改造法案ノ發行準備中ナルヲ無斷ナル故ヲ以テ中止、
西田ヲシテ發行セシメルコトニ依リ、
西田ノ攻撃ハ自分ニ對スル攻撃ト變化シ、
次第ニ思想界ニ北、西田派ト大川派ノ二大派ヲ對立分離スルニ至リタルモノト考ヘラレマス。
法務官 「 大川周明ト分離後ノ行動如何 」
大正十三年牧野伸顕ニ對スル問題ニテ西田ト共ニ三ケ月ノ懲役ニ服役後、
思想運動ニ奔走すルヨリハ政治運動ニ變リ、
森恪、安達謙蔵、内田良平等ト交リ、海軍軍縮條約ニ對シテハ海軍省案ヲ支持シ、
樞密院議員ヲ説得シ、同案ニ賛成セシメ、同案通過ニ努力奔走セシモ、
政府案ノ通過ヲ見ルニ至リタリ。
其後ハ時折ノ政治運動ニ關与シマシタ他、信仰生活ニ入リ、
神秘的ナル霊感等ヲ痛感シ、時代ノ先覺者トシテ今日ニ至リマシタ。
外交問題ニ於テ
法務官 「 三月事件、十月事件ニ關係アリヤ 」
三月事件ニハ、全然關係ナシ。
然シ、十月事件ニ關シテハ相當ノ意見ヲ有シテ居リマス。
當時、軍部ノ建川、橋本欣五郎氏等ガアノコトヲ計畫實施セントスレバ、
當然ノコトニ日露戰爭以來幾多ノ犠牲ヲ拂ヒタル満洲ニ於テ政府及元老重臣等ノ
不穏當ナル外交方針ノ爲諸外國ヨリ壓迫セラレ、
特ニ張学良ノ横暴ニ任セ、侮日ぶにち排日ヲ受クルモ忍耐シ來レルガ、
九 ・一八事件ヲ期シ 兵ヲ起シタルニ、元老重臣等惡夢醒メザル爲、朝野ニ對スル反省ノ烽火ト考ヘ、
十月事件ヲ起サズトモ準備計畫ニテ政府ニ對スル充分ナル強壯劑トナリ、
遂ニ今日ノ満洲ヲ建設スルコトガ出來得タルト信ズ。
十月事件ニ際シ蹶起ノ時期ガ外部 ( 関屋區内次官 ) ニ知レアリタルヲ以テ、
自分ハ前日參謀本部ニ建川氏ヲ訪問、時期ノ變更ヲ爲スベキコトヲ忠告ヲ爲シタル他、
西田ヨリ若干ノコトヲ聞イテ居リマス。
法務官 「 五 ・一五事件ニ際シテハ如何 」
五 ・一五事件ニ際シ 何等ノ關係ナク、
西田税ガ何等カノ關係ヲ有シテ居ルノデハナイカト
事件ノ起ル一ケ月前ニ 深入リセザル様注意シオキタルニ、
西田ガ狙撃セラレタルヲ以テ 意外ニ思ツタ次第デス。
法務官 「 血盟團、神兵隊ニ關係アリヤ 」
何等關係ナシ。
法務官 「 靑年將校トノ交際如何 」
靑年將校及軍部關係者トノ交際ハ少數デアリ、
皆西田ノ狙撃事件ニ依リ病院ニテ看護中知己トナツタモノニテ、
栗原中尉、安藤、山口大尉、對馬中尉、磯部、村中 等デアリマシテ、
一年一、二回位、多イ人ニテ一〇回位ノ面接ヲ有スル人々デアリマス。
法務官 「 日本改造法案大綱ノ根本思想ハ今尚同一カ 」
日本改造法案大綱ハ上海ノ動亂中ニ執筆シタルモノニテ、
今日ノ如キ平時ニ於テハ相當加筆ヲ要スル部分アルト思フモ、
根本的指導原理タル天皇大權ノ發動ニ依リ行フ等ノ點ハ變リアリマセン。
只、今日著述スルナラバ、モット變ワッタモノガ出來ルト思ヒマス。
法務官 「 日本改造法案中、憲法三年間停止ト云フ點ハ如何 」
憲法ノ三年間ノ停止と云フコトデアリマスガ、天皇ハ絶對的ナル現姿神ニアラセラレ、
憲法ヲ超越シタルモノト観察致シマス。
其ノ天皇ガ國家非常時ニ処スル爲、
天皇大權ノ發動ニ依リ國家ノ改造ヲ實行セラレントスル際ニハ、
一事憲法ヲ停止シ大詔ヲ發セラレ、戒嚴令下ニ於テ時局事態ヲ収拾セラレルニ際シ、
不忠ナルモノガ憲法ニ依リ貴衆両議院ヲ中心ニ、
天皇ノ實施セラルル國家改造ノ大權ヲ阻止スルヲ防止スル爲、
論ジテアルモノデアリマス。
法務官 「 被告ハ明治天皇ヲ尊敬シアルガ、
憲法ハ明治天皇ガ天地神明ニ誓ヒ欽定セルモノニテ、
此ノ憲法ノ停止ハ憲法ノ否認デアリ、
明治陛下ヲ否認シ奉ル我ガ國體ト相容レザル思想ナルコトヲ承認スルヤ 」
明治大帝ニ對シマシテハ絶對的ナル尊敬ヲ為爲スモノデアリマス。
明治大帝ハ即チ今生陛下デ在ラセラレマス。
今生陛下ガ國家非常ノ際ニ明治大帝ノ欽定セラレタル憲法ヲ一時停止シ、
國家ヲ改造シ永遠ノ安全ニオカレマスコトハ、吾ガ國體ニ反スルコトデナイト確信致シマス。
天皇ハ總テノ上ニタタレテ居リマス。
即チ、憲法ノ上ニ天皇ハオラレルコトデアリ、天皇大權ノ發動ニ依リ憲法ヲ一時停止スルコトハ、
憲法ヲ欽定スルコトト改造セラルルコトハ何等ノ變リナキコトニテ、
停止即チ否認デナイト考ヘラル。
憲法ノ停止ハ天皇ノ大權ニヨリ爲サレルモノニテ、
臣下ニ於テ絶對ニナスモノニアラザルヲ以テ、國體ニ反スルモノトハ絶對ニ考ヘルコトガ出來マセン。
改造法案中ニ三年間ノ停止トアルモ、單ナル手段手法ヲカカレタルモノニテ、
眞ノ精神ハ世界ノ何レノ革命改造史ニモナキ私有財産ノ限度制ヲ採用シタルモノデアリマス。
法務官 「 憲法ノ停止ハ即チ否認ニテ、平時ニ於テ改造法案ノ實現ヲ企圖シアリタル処ヨリ見テ、
矯激ナル國體ト相容レザル思想ト云フコトヲ得ルナリ 」
絶對ニ平時ニ於テ實現セントスルモノニアラズ。
非常ニ際シ、天皇ノ大權ニテ爲スベキモノニシテ、國民ハ翼賛シ奉ル丈ノモノナリ。
法務官殿ノ申サレマスル法的立場ヨリ停止ガ否認ト云フコトハ、今日迄解シテオリマセンデシタ。
乍然、法務官殿ハ何処ニ陥入レルカト云フコトガ知レマシタ今日、
尚今迄 極刑ニサレマスコトヲ覺悟シマシタ以上、
停止ガ否認デアリ、日本改造法案ノ根本思想ガ矯激ナル思想ト申サレマスルコトヲ承認致シマス。
憲法ノ三年間停止ガ否認ナルコト 及 日本改造法案ガ吾ガ國體ト相容レザル矯激ナル思想ナルコトヲ承認セシメルニアタリ、
約二十分ニ亘リ法務官ト被告論爭シ、理論ニ於テハ結論ヲ得ザルモ被告ハ承認ナシタリ。
法務官 「 靑年將校ハ改造法案ヲ絶對的ニ信ジ居リタルヲ承認スルヤ 」
靑年將校 及 軍人ガ改造法案ニ共鳴スルハ外交問題ニ於テハアルベキモ、
其他ノ手段方法ハ承認共鳴セヌモノデアルベク、
猶、改造法案ガ何ノ程度ニ讀マレテ居ルカヲ承知セザルモ、
靑年將校間ニ讀破セラレアルコトヲ承認致シマス。
法務官 「 靑年將校ガ今般蹶起シ、日本改造法案ノ實現ヲ企圖シタルコトヲ承認スルカ 」
詳シイコトヲ聞カザルモ、今般ノ蹶起ノ趣旨ハ粛軍
即チ兵馬大權ノ干犯者ヲ討ツニアルト聞キマシタガ、
改造法案云々ノコトハ西田、村中ヨリハ聞カナイガ、
警視庁廳、憲兵隊ニ於テ色々ノコトヲ申サレタルノデ、
靑年將校ヲ見殺シニスルコトガ出來マセン故、承認致シマス。
法務官 「 西田ヨリ 十二月中蹶起ノコトヲ聞キタルヤ 」
明確ナル記憶致シマセンガ、其當時ハ相澤公判ノコトデアリマシタ。
法務官 「 蹶起前ニ村中、磯部ニ面接セル狀況如何 」
二月二十二、三日頃村中ガ來タリ、蹶起ノコトヲ話シタル際、
村中ヨリ兵ヲ使用シ蹶起後一地點ヲ占據スルハ國體観念ニ反スルカトノ質問ニ對シ、
不明ナリト解答シ、考ヘ通リ實施シタラ好イト申シマシタ。
磯部ハ其翌日來マシタガ何ノ話モアリマセン。
自分ハ他人ノコトニ干渉スルコトガ嫌ヒデアリマシタノデ、
村中ニ對シ左様ナコトヲ申シ述ベタノデアリマス。
大体事件前ノ事實審理ヲ終了シ、午後四時三十七分閉廷、
次回ハ六日午前九時開廷ヲ申渡シタリ
「 了 」
次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 44 『 北一輝 』 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から
三月十九日 陸軍省は参加下士官兵の取扱いについてこう発表した。
「 叛乱軍に参加した兵千三百六十名は、
おのおのの所属隊に留置し軍法会議検察官において取調中なりしが、
昨十八日 一応取調をおわり千三百二十数名は留置を解除せられたり 」
正確にいってこの叛乱に参加した千三百五十八名の兵隊はどんな取扱いをうけたか。
彼等は二十九日午後にはすべて原隊にかえった。
が、彼等はかつての温かい中隊には入れてもらえなかった。
この叛乱に参加した犯罪部隊として一様に隔離収容されたのである。
そしてこれらの兵の処置については、部内に二つの意見が対立していた。
(一)
彼等には叛乱の意思とその実行があったのだから、
そのことごとくを軍法会議に付し厳正に処断すべきである。
彼等が重臣を殺戮し 軍の中央官衛を占拠した行動は、明らかに軍隊の行動ではなく反乱であり、
その一般軍人軍隊に対し執った行動には一片の同情を持つべきではない。
(二)
彼等が事実上革新に意慾に燃え、積極的にこれに参加したとしても、
それは、自己の自由意志によって、かような革新意識をもつに至ったものではない。
彼等のうち 志願による下士官は別として、
その大部分の兵隊達は、強制徴兵によって入隊せしめられ、
たまたま、革新将校の訓育とその環境によって、こうした意識を育成せられたものである。
ことに、その大部分は まだ入隊二カ月で軍人としての教養は十分でない。
しかも、命令のもとに駆り出されたことも事実である。
だから、純粋な意味での自由意志による犯意を肯定することは酷である。
もし、彼等が他の部隊、他の中隊に入隊しておれば、
かような事態を惹き起こすことはなかったであろう。
したがって 此等の兵隊はこれを不問に付すべきである。
・
だが、陸軍当局はこの対立する二つの意見のうえに折衷案を採った。
そして、
(一)
参加下士官兵に対しては憲兵において一律に訊問を行なう。
ただし、下士官は一応全員軍法会議に送致しその取調べを慎重にする。
(二)
おおむね左記要目に基づいて訊問し、これに該当すると認めた者に限り、
さらに改めて捜査する。
(1) どうした考えで反乱行為に参加したか。( 命令によるか、自由意志か )
(2) 人を殺傷したことがあるか。
(3) 上官その他に暴行脅迫したかどうか。
(三)
右の訊問要目にて犯罪に該らないものは即日釈放して原隊に復帰せしめる。
ことに決定した。
このような処置がとられたのは、彼等が強制徴兵によって軍隊に入ったものである以上
このことのためな、一様に犯罪容疑者とすることは、
建軍の必任義務兵制の根基を脅かすものがあったからである。
・中略・
たしかに、下士官兵は軽かった。
寛大にすぎる断罪だった。
陸軍省は七月七日 処刑者第一次の発表において、
「 下士官兵中、有罪者の一部の者にありては、党を結び兵器をとり反乱をなすに方り、
進んで諸般の業務に従事したるものと認められるべしと雖も、
その他の者にありては、自ら進んで本行動に参加するの意思なく、
平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を訓致せられあり、
なお、同僚始め大部隊野出動する等、四囲の状況上これを拒否しがたき事情等のため、
やむなく参加し、その後においても、ただ、命令に基き行動したるものにして
今や深くその罪を悔い改悛の情顕著なるものあるを以て、
これらの者に対しては刑の執行を猶予し、
爾余の下士官兵は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て
その行動に出でたるものと認め、罪を犯す意なき行為としてこれを無罪とせり 」
といい、
大いにその情状を酌量したことを明らかにした
・
だが、将校に対しては厳罰だった。
これらの将校二十名は、すでに二月二十九日付を以て位階返上、免官となった。
陸相官邸で自決した野中大尉、熱海陸軍病院で自刃した河野大尉を除く生存者十八名は、
シャム公使館附近に待機して高橋蔵相邸襲撃には直接参加しなかった今泉中尉、
それに村中、磯部、水上らの常人十名と共に、起訴予審に付せられ
七月五日判決の言渡しがあった。
香田大尉以下十三名は死刑、麦屋少尉以下五名は無期禁錮、
村中らの常人は、村中、磯部、渋川、水上が死刑、その他は禁錮一五年という重刑だった。
(山本又は十年)
・
この第一次直接参加者の処罰についで、
七月二十一日 第二次処分を発表したが、反乱者を利したものとして
山口大尉が無期禁錮、その他の将校五名が、四年から六年の禁固刑に処せられた。
さらに、翌十二年一月十八日には 第三次処分として、
満井佐吉、齋藤瀏、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平といった将校七名が、
それぞれ五年以下の禁固、常人としては福井幸ほか六名が三年以下の禁固となった。
この場合、大蔵大尉のごときは、
遠く朝鮮の辺疆へんきょうで将校団の若い者に働きかけたというので禁錮四年、
末松大尉のごときも、
青森から電報で叛乱軍を激励したというので禁錮四年の実刑を受けたのであるから、
叛乱将校と同志関係にあった錚々たる皇道派将校は、
根こそぎに厳罰に処せられたということになる。
八月十五日の號外
八月十四日 軍法会議は北一輝、西田税に死刑、亀川哲也に無期禁錮、
そして山形農民同盟の中橋照夫に禁錮三年を言渡し、
ついで九月に入って真崎大将の無罪を判決した。
・
こうした東京軍法会議は一年八カ月にわたってこの事件の審理にあたったわけであるが、
その間、有罪としたもの軍人関係七十九名、常人関係二十一名、総計百名に及んでおり、
なかんずく、死刑十九、無期七という重罰者を出しているのである。
もってこの軍法会議が、いかに峻烈苛酷であり、
しかも将校の責任を重視したかを窺知きちすることができよう。
それだけではない、そま裁判の進行は驚くべきスピードであった。
これを直接参加者にみても
起訴者百二十三名の大量を わずか百日内外で捜査、予審、起訴、公判とかたずけているし、
支援ないし背後関係者にしても、すでに書いたような処罰だけでなく、
現役軍人として不起訴になったもの、平野助九郎少将以下十名、
無罪になったもの柴有時大尉以下九名に及んでいるのである。
これでは、いかに精力的な法務官や判士であっても到底その任に堪えるものではない。
そこでは拙速主義に徹して審理を尽さず裁判という形式でお茶を濁したとも極言できよう。
・
一方、事件の行政責任については、
三月六日、
林、荒木、真崎、阿部の四軍事参議官は待命となり、
つづいて関東軍司令官南次郎大将も、
また陸軍大臣川島大将、侍従武官長本庄大将も軍を去った。
四月に入ると
戒厳司令官香椎中将、憲兵司令官岩佐禄郎中将、近衛師団長橋本中将、
第一師団長堀中将らも待命となり、
叛乱部隊を出した歩一、歩三 両聯隊長、歩一、歩二 両旅団長らも責任退職した。
こうして陸軍の首脳部は
西義一教育総監、寺内寿一陸軍大臣、植田謙吉関東軍司令官の三大将を残すのみとなったが、
さらに、この年八月、
寺内陸相によって断行された粛軍人事は三千余名に上る大異動だった。
第四師団長建川美次中将、陸軍大学校長小畑敏四郎中将を始めとする、
かつての革新運動に躍った人々は、それが佐尉官級にまで粛正せられたのである。
しかし、過去において、とかくの革新のいわくつきの人々を一掃した、この粛軍人事も皇道派に重かった。
そこにはもはや皇道派の名のつく人々の存在を許さなかったのである。
だから、この粛正は必ずしも公正なものでなかった。
この粛正が皇道派に偏し かつての統制派 (清軍派)幕僚に対しては余りにも行われなかったからである。
ことにいわゆる三月事件、十月事件の幕僚の多くは無疵だった。
こうしたことが、この粛軍は寺内陸相をあやつる幕僚群の皇道派潰滅策だといわれた所以であり、
また、真崎大将がしばしば生前言っていた
「 俺は彼等の術策に乗せられたのだ 」
との言葉は この意味において理解されるのである。
次頁 暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」 に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 兵は寛大、将校は厳罰 から