あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」

2020年10月02日 06時54分05秒 | 暗黑裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


奉勅命令

天皇の勅を奉じて下す命令のことである。
大元帥としての天皇を輔翼するのが参謀総長であるから、
参謀総長が命令案をつくって天皇に申しあげ、勅裁をえる。
そしてこれを 戒厳司令官に命令するわけで、
この命令は参謀総長が 「勅を奉じて」 命令することを現わすために、
とくに 「奉勅」 とかかれることになっていた。これを奉勅命令というのである。
(戒厳司令官は天皇に直隷しる親輔職で参謀総長や陸軍大臣の命令指揮下にあるものではない)
したがって、天皇の勅裁をえた命令であるかぎり、天皇の直々の命令といってもそれは差支えない。
しかしその直々の命令は戒厳司令官に下されるのであって、蹶起青年将校に下されるものではないのだ。
だが、当事者はこの奉勅命令を天皇の直々の命令だとして、
この命令にしたがわなかったといって 「 大命に抗したり 」 と断言したが、これは不都合なことである。
天皇の命令をきかなかったというと、
天皇への忠誠心にこりかたまっていた彼らにしては以外なことであり不本意であったろう。

彼らを現所属に復帰せしめようという奉勅命令は、
すでに二十七日午前八時二十分参謀次長杉山元中将の上奏で允裁をえている。
ただ、これを戒厳司令官に下達する時機は、目下彼らを説得中であるので、
参謀総長に一任をえたいとて許しをえたのである。
ところがどうした幕僚の手違いだったか即刻これを伝えてしまったのである。
驚いた杉山次長は、戒厳司令官を訪ね、奉勅命令の下達は二十八日午前五時とすると伝えた。
すなわち奉勅命令の実施は二十八日午前八時以後ということになった。
ところがこの手違いによってこれが幕僚たちに洩れてしまった。
そしてここから混乱がおこった。
この間の事情を磯部は継のように記録している。
「----戒嚴命令は第一師戒命として、
 "二六日以來行動せる將校以下を小藤大佐の指揮に属し----の警備を命ず" 
というものである。
余等はこの事を知って百萬の力をえた。
しかし何だか變な空氣がどことなく漂っているらしい事は、頻りに我が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少將、鈴木貞一大佐迄が撤退をすすめるのである。
満井中佐は維新大詔渙發と同時に大赦令が下るようになるだろうから一應退れと言うし、
鈴木大佐、又、一應退らねばいけないではないかとの意嚮を示す。
余は不審に耐えないので、陸相官邸において鈴木大佐に對し
「 一體我々の行動を認めたのですか、どうですか 」 と問う。
大佐はそれは明瞭ではないか、戒嚴令下の軍隊に入ったと言うだけで明らかだと答える。
行動を認めて戒嚴軍隊に編入する位であるのに一應退去せよと言う理屈がわからなくなる。
かような次第で不審な點は多少あったが、
 概して戰勝氣分になって退却勧告などは受けつけようとしなかった。
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二七日は時々軽微な撤退勧告があったが、
午後になって宿營命令が發せられたので、スッカリ安心してしまった」 
・・・「 行動記 」
彼らに好意を示す幕僚たちはすでに奉勅命令を知って、彼らにそれとなく撤退をすすめていたのだ。
だが、こうしたことが、いよいよ二十八日になって奉勅命令の実施となると、
青年将校たちは、幕僚への不信も手伝って、奉勅命令そのものの実在に疑問を投げたのであった。
「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田清貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
 一同下達サルルマデヤル覚悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 
・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」
・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍当局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。
「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 
・・・香田清貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 
・・・安藤輝三
忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
村中孝次は、
「奉勅命令に從わなかったということで、
私どもの行動を逆賊の行爲であるのようにされましたことは、
事志と全く違い忠魂を抱いて奮起した多數の同志に對し寔に申し譯ない次第であります。
しかし 私どもはかつて奉勅命令にまで逆おうとした意思は毛頭なく
最後は奉勅命令をいただいて現位置を撤退させるという
戒嚴司令官の意圖であることを知って、そんな事にならぬように、
そんな奉勅命令をお下しにならぬようにと、 色々折衝しただけでありまして、
決して逆賊になってまで奉勅命令に逆うような意思は毛頭ありませんでした。
事實、今日に至るまでいかなる奉勅命令が下されたのか、
その命令内容に関しては全然知らないのであります」 
・・・村中孝次調書

奉勅命令で撤退せしめられるという意図を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。

同じように首謀者安藤輝三も、
「 奉勅命令は命令系統からは全然聞いておりません。
ただ、二十八日夜に歩三聯隊長が幸楽に來てくれまして、
奉勅命令が下ったということの話はありましたから、その後小藤部隊長の命令を持っておりましたが、
何の命令もなく、周囲の部隊が攻撃して來ますので、
どうすることも出來ず、山王ホテルに立ちこもっておりましたような次第で、
奉勅命令に抗するというような気持は毛頭なく、
また事實、小藤部隊の指揮に入っておりましたので、
奉勅命令に從わなかったということはないと信じます」 
・・・安藤輝三調書

これ等の首謀者はもとより
第一線の指揮に任じた年少の中少尉たちも、
ひとしく奉勅命令は絶対なりとし、これを聞くと、さっさと兵を返している。
清原少尉は同期生よりこれを聞いて独断兵を指揮して歩三営門まで送り届けているし、
坂井直中尉も磯部に向って
「 もう何もいって下さるな、わたしは兵を返します 」 といい兵をかえしている。
錦旗に逆わず、大命に抗せずとは彼らの信念であった。

ところが、同志将校であってもこの奉勅命令のうけとめ方に若干の違いがあるやに感じられる。
というのは、例えば磯部は、
「 われわれはその裏の事情を少しも知らず、
 ただ何だか奉勅命令でおどかされていいるようにばかり考えた 」
と かきのこしているし
二十八日幸楽にいた香田大尉も、
歩三の新井勲中尉が奉勅命令が出たことを伝えると即座に、
奉勅命令なんかデマだと一蹴しているし、
また安藤大尉も、二十九日払暁、
清原少尉が遠くからのラジオ放送で、奉勅命令が下ったと聞き、
その去就に迷って山王ホテルに安藤を訪ねると、
彼は奉勅命令は謀略だとこの後輩を叱咤激励した。
そこでは彼らが奉勅命令をうけつけまいとする心情と、
それが彼らを撤退させるための
「 いつわりとおどし 」 だとする思念がいりまじっている。

磯部は二十八日 朝
戒厳司令部で満井中佐に会ったとき、こうのべたといっている。
「 臺上にする私どもを解散することは、軍が維新翼賛することにならぬ。
すなわち、私どもがあの臺上にいることによって、國をあげての維新斷行の機でもある。
奉勅命令が下っても、
實に宮中不臣の徒の策謀によって陛下の大御心をおおい奉るの奉勅命令だとしか考えられません。
だからこの際われわれは、
もし部隊を解散させられたならば、
断乎各自の決意において不臣の徒に對して天誅を加えなければならぬと 」
しかし彼は、奉勅命令になぜ従わなかったのかという調査官の質問には、
「 大命のままに行動する決心でありました、
 ただ、各級指揮官からは奉勅命令が下ったという拙論ではなしに、
下ったらどうするかという拙論であったので、前同志に徹底しなかったのです。
今から考えて見て大命があったことについては、まことに恐懼している次第であります 」
と 述べていたが、さらに、
「 ただ、奉勅命令が政党政治家のやるような
 議會解散のための詔書を事前に上奏ご裁可を得ておいて
機に応じて渙發するが如き天皇機關説的思想によって行われるものでありますならば、
私どもは非常なる國體冒瀆だと考えます。
當時の狀況におきましては、たしかに一部重臣、その他軍幕僚の策動によって、
機關説思想より發する奉勅命令が渙發されるような氣運を看取したのであります。
かかる場合においては、奉勅命令にしたがわないというのでなく、
機關説思想によって陛下の御聖明をおおい奉の不臣の徒に對して
最後まで戰わねばならんと考えました 」
これが磯部の本心なのであろう。

また、栗原安秀は憤りをこめて、
「 陸軍當局は最後において吾人を逆賊なりとの傳單を飛行機上より撒布し、
 あるいは放送せしめたのでありますが、
われわれはこのとき、
いかに方便のためとはいえ當局者のとった手段がいかに殘薄なるかに、
ひそかに涕泣したものであります。
われわれは、出動しわれわれを攻撃し來る軍隊が勅命を奉じたるものならば、
われわれは甘んじて屈服するの腹をきめていたのであります。
維新の大原則として殊死して玉砕すべきでありましたが、
われわれのとったのは實に屈服にあり、
わたしは首相官邸にあってこの重大な岐路に立ったのであります。
ただ玉砕するも屈服するも、結果においては大きな相違がなければ、
輦轂の下に陛下の宸襟を悩し奉ること、これ以上なるを恐れたのであります 」
栗原にとっては奉勅命令のもとにこれにしたがうのは 「 屈服 」 であったのである。
彼はまた、こうもいっている。
「 二十九日の払暁首相官邸において
 戒嚴司令部の放送をきき初めて奉勅命令を確知したのであります。
爾後、攻囲部隊遂次前進し來り、このまま推移せんか衝突をまぬがれぬ、
したがってここに屍山血河を築くも、いたずらに宸襟を悩し奉るにすぎず、
と感じ磯部と相會し引くことに決しめ 」
・・・栗原調書

この二人の軍人革命家は、
あるいは機関説信奉者に対して徹底的に戦うといい、
あるいは、革命の本質からは一戦を交えて討死すべきだったという。
ここに革命家の先覚として他の青年将校とはいささか異なるものがあり、その心理は複雑であるが、
しかし真の大御心による奉勅命令にはしたがうが、
その真偽は不明だったというのが少なくとも二十九日朝までの彼らの受け取り方であったが、
もはや間違いはなく奉勅命令が下っては、磯部や栗原にしても、
無念ではあるが、ここに兵を収めざるを得なかったのである。

いうまでもなく奉勅命令は天皇の直々の命令として心象される。
そこに第一線将校の天皇観による即座の反応がおこる。
それは軍人として絶対に服従すべきもの、これに弓を引くことは絶対に許されない。
これが日本軍隊伝統の天皇観である。
しかし これに最後まで抵抗をつづけていたのが、磯部であり栗原であった。
こうしてみると、青年将校の奉勅命令のうけとり方にも若干の違いがあった。
それは当然に彼らの天皇観につながり、かつその革命観に由来するところの違いであった。
獄中、反乱将校たちは事の別明するにつけ、
大臣告示は説得案、
戒厳部隊の編入は謀略と知らされ、
悲憤の涙に軍の措置をうらんだ。
磯部は、
「 余は惡人だ、だからどうも物事を善意に正直に解されぬ。
例の奉勅命令に對しても余だけは初めからてんで問題にしなかった。
インチキ奉勅命令なんかに誰が服從するかというのが眞底だった 」 
・・・「 獄中日記 」 八月十五日
「 この時代、この國家において吾人のごときもののみは、
奉勅命令に抗するとも忠道をあやまりたるものでないことを確信する。
余は眞忠大義大節の士は、奉勅命令に抗すべきであることを斷じていう。
二月革命の日、斷然、奉勅命令に抗して決戰死闘せざりし吾人は、
後世 大忠大義の士にわらわれることを覺悟せねばならぬ 」 
・・・同右八月十七日
と はげしく奉勅命令に抗すべきだったと書きのこしている。
激情家磯部のこととて奉勅命令に降参したことが
今日の境遇においやったものとしての悔恨が、
右の文字となっているのであろうが、
革命家磯部の面目躍如たるものがある。

青年将校の天皇観は絶対であった。
それは日本軍隊の正統的思想であったが、
これに革命思想が加わってくると、人によりその感応を異にしてくる。
湯河原で傷つき熱海陸軍病院で自決した河野寿大尉のごときは、
そのもっとも強烈なる天皇絶対者であった。
すでに逆徒となっては、もはや公判闘争さえ許されない、
ただ自決し遺書によってのみ世論を喚起すべしとし、獄中同志に自決を勧告した。
だが、北一輝の革命法典を絶対に心奉していた磯部や栗原は、
その革命信条のために、奉勅命令の感応にいささか違ったものを見せていたのである。
しかし、いかにそこに感応のちがいをもつといっても、やはり彼らは日本の軍人であった。
その国体観、天皇観は絶対であった。
したがってこの革命においてトコトンまでやるといってもそこに限界があった。

村中孝次は、同志中の理論家であったが、
昭和維新という言葉さえ臣下の口にすべきものではないといい、
いわんや 天皇に強要し奉るが如きは厳に戒慎したというよりも、
彼らには思ってもできない事柄であった。
ここに この一挙革命の悲劇がある。
重臣を殺戮しあるいは幽閉して天皇を孤立化において、
事を運ぶなどは絶対に許されないことであった。

大谷敬二郎 二・二六事件 から