あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

歩兵第三聯隊の将校寄宿舎

2017年12月15日 19時27分49秒 | 靑年將校運動


新井 勲 中尉


ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある。
営門を這入ると、西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である。
だから 営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない。
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、
その低地に陰気くさい、三十坪程の平家があり、
入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている。
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている。
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる。
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である。
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、
日曜等の暇をみては、誰にも云わず黙々と、
この伸びた雑草を片づけている人があった。
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた。

その 野中中尉の部屋に、今夜は珍しいお客さんが来た。
足音を耳にした若い連中は、直ぐにそれと気づいた。
お客さんは一人ではない。
野中中尉の部屋では、しばらくガタゴト何か片づけたり、
当番の兵隊らしい足音が忙しくしていたが、やがて来ないかという誘いの声が一同にかかった。
和服の着流しや軍服姿、あるいは白い体操衣の者など、六畳の洋間は所狭いばかりであった。
お客さんとは外でもない。
矢張りこの聯隊の将校で、この八月ある片田舎の聯隊から転任して来た菅波中尉である。
かれが居住室を訪れたのはこれが最初であった。
九月も十日を過ぎたので夜は相当涼しくなったが、
狭い部屋にこれだけ押しかけのと、煙草の煙もと角こもり勝ちである。
縁無し眼鏡をかけた菅波中尉は、どちらかといえば頬がそげ口もとのよくしまった、
容儀端然として、軍人には珍しいもの静かな人であった。
士官学校時代から思想問題には一家の見を立て、
また かの済南事変には勇敢なる聯隊旗手として、その令名を謳われていた。
当時大尉や少佐になってから後なら別のこと、
中尉では殆ど他隊に転任することもなかった時代に、
この菅波中尉は東京の中心に呼ばれて来たのである。
一聯隊長の意志のみでない事は勿論である。
少しは事情を知る青年将校が、その間の動きに気づかぬ訳はない。
菅波中尉をめぐって、今迄何回か集会が行われたのもそのためである。
今夜の集まりには、将校寄宿舎のものばかりでなく、
兵営内に起居している見習士官までも集められた。
菅波中尉は、社会革命家に見るような、激越な風は少しもなかった。
語るところも淡々として、人を煽動するような点もない。
誰かの質問にこたえて話題を見出して行くというような、話しぶりをする人である。
との 澄ましてはいないが、貴公子然たる人、これが最も適切な中尉の形容であろう。
だから今夜の会合も、誰かが質問して菅波中尉が答えるといった具合で進められた。
新聞や雑誌に出る報道以外、何も知らぬ見習士官や若い少尉は、
ただ黙って聞くだけで、
質問をする知識すらなかった。
直接行動という言葉も出たが、それが所謂西洋のクーデターを意味することわわかったが、
さて実際行動の場合どうするのか、具体的な内容は何も知らなかった。
国際情勢の危機 とくに満洲の険悪なる雲行き、それに引きかえ政党の腐敗堕落と農村の疲弊、
これをそのままに放置する訳にはゆかぬが、 さりとて何故直接行動をとらねばならぬのであろう。
今まで部屋の一隅に黙っていた見習士官が、突如として口を開いた。
「 直接行動を何故とらなけりゃならんのですか 」
「 ああそうですか 」
菅波中尉は後輩の見習士官に答えるにも、言葉は非情に丁寧である。
「 医者が腫物を手術する場合に、いかに立派な名医でも、
膿だけ出して血は一滴も流さぬということは不可能でしょう。
国家の場合においてもそれと同じです。
勿論直接行動は、無暗矢鱈に為すべきものではありません。
これをしなれば、国家が滅びるという時こそ、われらは起たねばならぬと思うのです 」
「 でも、軍隊を勝手に動かしてよいものですか 」
見習士官は他の先輩の思惑など、考慮している遑はなかった。
「 勿論わたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。
しかし戦闘要領には、独断専行ということが許されていて、いや鼓吹されておるでしょう。
命令を待たずして行っても、それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです。
とくにかかる行動は、偉くなるとその責任が重いので、
ともすれば上官は事勿れ主義になり易いのです。
自分でよしんばしたいと思っても、命令を下すほど奇骨のある人は、そうありますまい。
口火を切るのは、われわれ青年将校を措いて他にない、と 思うのです 」
「 わかりました。わたくしはその国家的判断はできません。
その判断は菅波さんにおまかせしますから、起つべき時には起てと一言仰言って下さい 」
習士官の眉宇には、決心の色が見えたのである。
他の青年将校の面にも、何か ホッとするものが窺われた。
しかし二、三のものの中には、心では納得得せぬものがありながら、
正面切って云出す勇気もなく、その場を繕っている人間があった。
「 何故男らしく菅波中尉にぶっつからぬか 」
純情な見習士官には、それが不満でならなかった。

これは 昭和六年九月なかば満洲事変を直前にして、
麻布歩兵第三聯隊の将校寄宿舎に行われた、青年将校の集会の情況である。
見習士官とはほかでもない、かく云う著者のわたくしである。
これから約五年後の二・二六事件に際し、叛乱軍の主力がこの聯隊から出たことは申すまでもない。
その歩三の叛乱軍の将校は、いずれもこの陰気臭い将校寄宿舎に、住んでいたものである。

新井勲 著  日本を震撼させた四日間 から 


打てば響く鐘の音のように

2017年12月14日 04時36分16秒 | 安藤輝三


菅波三郎中尉  安藤輝三中尉
ある日、
歩兵第三聯隊の機関銃中隊将校室にいた菅波三郎中尉は、
営門をせわしげに出て行く一人の将校が窓越しに目についた。
そういえば先刻より幾度か往来している。
当時、機関銃中隊は営門に最も近いところにあったので、
見るとはなしによく見えたのである。
翌日、昼の将校集合所で、
菅波はこの将校が第十一中隊の安藤輝三中尉であることを知って
たちまち好感を抱いた。
ところが、安藤の外出が、
除隊して失業中の兵の就職運動であったことを知って、菅波は驚きかつ感激した。
菅波は隊付将校としての責任と負担を乗越えて、
旧部下のために尽力する安藤の親身な真剣さに心打たれたのである。
菅波中尉は鹿児島から着任したとき、
歩三には家族的雰囲気や親密さに欠けるものがあるとみていたが、
菅波は安藤の情味的な人柄に魅せられ、
この将校こそ昭和維新への同志として欠くべからざる人物と確信した。
数日後、夕食後に、
聯隊内独身者将校の宿舎ある安藤中尉の部屋を、初めて菅波中尉が訪れた。
安藤中尉の部屋には調度品らしいものは何一つなく、
部屋の隅に使い古された机がぽつんと無造作におかれ、
机上のコップに一輪の白い花がさしてあった。
およそ殺風景な男っぽい部屋だけに、
菅波にはこの一輪の白い花が、
主人公の人柄を偲ばせているような気がして、
「 花は一輪に限りますね 」
と 菅波がいうと、安藤は、
「 兵隊がさしてくれたんですよ 」
と 朴訥とした口調でいかにもうれしそうな表情をみせた。
菅波は再び安藤の人柄を思い知らされたような気がした。
それは 部下を愛しつつ 絶対の信頼を寄せる青年士官の素朴な姿であった。
菅波は安藤の言葉にますます信頼できる人物と確信した。
菅波はようやく重い口を開いた。
「 いまの世の中をどう思いますか 」
「 とにかく、生きてゆくのに大変なようです 」
安藤は就職運動の困難さを顧みるように 実感をこめて応えた。
こういう場合、安藤のような性格の男は、どう応えても自分の言葉に空虚なものを感じてしまう。
菅波は軽くうなずきながら、諄々と語り始めた。
それは晩夏の夕に、日本の将来と政治の腐敗を憂えて、津々と流れる菅波節である。
こういうときの菅波の話術は抜群のうまさを発揮する。
ロンドン海軍会議後以降の国際情勢、ソ連極東軍の重圧、蒋介石国民政府による中国の統一、
これに対して国内の政党政治の腐敗、軍上層部の堕落、民衆の生活苦など、
菅波の爽やかな弁舌には尽きるところがない。
安藤は 打てば響くように感動の色を面に漂わせた。
菅波は最後に国家改造論で締めくくって話が終った。
安藤は菅波の人柄とその思想にすっかり魅せられた。
菅波流にいえば、彼が安藤の魂に火をつけ、あとは安藤が自ら燃えていったことになる。
安藤は少しでも早く歩三の将校団を啓蒙することを主張したが、
菅波はいまだ時期尚早ととて、人を選ぶには時間がかかることを強調した。
菅波らしい慎重さである。
時に菅波三郎中尉二十七歳、
安藤輝三中尉二十六歳の若さであった。

・・・リンク→ 
貧困のどん底 
暁の戒厳令  芦澤紀之 著 から


昭和八年元旦

2017年12月14日 01時15分51秒 | 山口一太郎

昭和八年の元旦に私は酒に酔って、
陸軍省の玄関の時計を叩きこわした。
陸相の荒木はそれで怒った。
私は荒木はこれでたいした者ではないと思った。

山口一太郎          荒木貞夫         渋川善助
同じ正月
渋川善助が家に年始に来て
座敷の隅に重ねておいた客用座布団を日本刀で五枚切り落とした。
・・・山口一太郎 


夢見る昭和維新の星々

2017年12月13日 20時05分07秒 | 磯部淺一

≪ 昭和7年 ≫
七月はじめの日曜日であった。
例によって、青山五丁目の菅波の下宿に、数名集まっていた。
突然、よれよれの浴衣にセルの袴をはいた、精悍な男がはいってきた。
  磯部浅一 
「今度、経理学校に参りました磯部です」
陸士三十八期、
磯部浅一中尉であった。
磯部といえば、三十八期随一の やじころ だ。
その磯部が、そろばんで ぜに を勘定する主計に転科するとは、
天と地がひっくり返るほど驚かされることだ。
「朝鮮の大邱ではどうにもなりません。
なんとかして東京に出たいと思っていた矢先、主計転科の募集があった。
これはあるかなと、さっそく応募して出てきました」
磯部もまた東京の求心力によって、
彼の最も不得意とする ぜに 勘定の学校に、前後のみさかいもなくやってきたのだ。
一応あいさつも終わって、もとの雑談的話し合いにはいったが、
「みなさん何というざまですか、
いやしくも天下国家を論じようとするとき、裸でいたり、
寝ころんで煙草吸ったり、不謹慎じゃないですか。
そんな態度で、国家の革新ができるのですか、もっと真剣になって下さい」
正座したまま黙って様子を見ていた磯部が、
いかにも概嘆に耐えぬ、といったかっこうで、タンカをきり出した。
 安藤輝三
「 そうだな、すまん 」
と、磯部と同期の安藤が、まず威儀を正した。
私も一応は呆れながらも、さわらぬ方がいいと、すわりなおした。

しかし、
その磯部が一週間もたたぬうち
一番行儀が悪くなって行くのだが、
この日を契機として、磯部は東京の舞台に躍り出て、
彼の火の玉のような情熱を、
昭和十二年八月十九日銃殺で刑死するに至るまで
約五年間にわたって燃やし続けたのである。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌


「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」

2017年12月13日 18時46分41秒 | 佐々木二郎

昭和八年五月、
野戦瓦斯隊要員として科学研究所と歩兵学校に派遣された。

その出発前、四月の異動で中野直三大佐が聯隊長として着任した。
戸山学校の大蔵中尉から
「 今度行く中野大佐は士官候補生を弾圧した男だ 」
と いってきた。
五 ・一五事件のときの士官学校の生徒隊長をしていたからであろう。
私は士官候補生のたちばで実際運動に加わるのは早いと思っていたので、
中野大佐がどのような弾圧を加えたかは知らぬが、原則としては当然と思っていた。
中野大佐が着任し その招宴のあった翌日、羅南を出発、上京した。
牛込の砲工学校の近くで、磯部浅一と同じ下宿で二週間科学研究所に通った。
磯部は主計転科のため、経理学校に通っていた。
「 おれは革命を一生の仕事にする。そのためには東京にでなければならぬ。主計転科は東京に出るための手段だよ 」
磯部と主計、これほど不似合いのものはない。
磯部の転科の理由をきいてはじめてわかった。
夜は二人で新宿に出て 「 タイガー 」 で よく飲んだ。
ある日、例のごとく 「 タイガー 」 で 飲んでいると、西田税の話が出た。
磯部は 「 立派な男だ、ぜひ会え 」 という。
陸士時代、赤枝らが西田を訪ねようといったときに反対した磯部が、今はだいぶ深くなっているなと思った。
千駄ヶ谷の西田宅を二人で訪ね、はじめて西田に会った。
同じ広島幼年学校出身で私より四期先輩である。
第一印象は、鋭い感覚の持ち主だな、ということであった。

その後大蔵と北一輝宅を訪問した。
例の風貌で支那服を着、ドスの利いた声、なかなか魅力のある人物であった。
あるとき、北のところで偶然相澤中佐と同席した。
異相の偉丈夫で信念の人と思われた。
私は改造法案で、私有財産百万円を限度とするのはなにを根拠としてですかときいた。
同席していた二、三の人は、「 腰だめだよ 」 「 直観だよ 」 といったが、
北御本人はニコニコと私を見つめただけで返答しない。
「 『 然り 然り、否ナ 否ナ 』 似て足りる 」 の 文句どおりの態度である。・・・リンク → 日本改造法案大綱 (1) 凡例 
ビールが出た。
相澤中佐----この人は冬服を着ていて、東京は暑いですねといって上半身裸体となっていた
----が、スットントン節を歌い出した。
調子外れの大声で一座を圧倒するばかりであった。

科研の二週間が終り 千葉の歩兵学校に移ることになった。
科研では学問研究で、歩兵学校では実施での用法の教育である。
いよいよ千葉に移る前の夜、磯部が
「 今まで毎晩貴様にお世話になった。今日はおれが送別会をやる 」
というので一緒に下宿を出た。
見ると彼は正装を入れた鞄を提げている。
近くの質屋で正装を質入れした。
磯部は経理学校在学中、昼飯抜きであった。
彼に幼年学校時代の学費を出してくれた恩人の家が没落し、その子息が商船学校?在学中である。
その学費の一助にと昼食抜きにして援助していたのだ。
「 佐々木、経理学校はその点よいぞ、料理の実習があるのでそいつを食うのだ。ハハハ。
天道人を殺さず、よくできているよ。
しかし実習のないときは腹がへるなー ハハハ 」
事情を知っているだけに彼の友情が嬉しく、この夜はスッカリ酔った。

戸山学校に来ている大蔵中尉とはよく会い、彼の家での会合にも一、二度出席し、
そこで香田清貞、村中孝次中尉らを知り、同期の安藤輝三とは陸士卒業以来はじめて会った。
鋭敏な村中の頭脳と温厚誠実な安藤の成長ぶりが印象に残った。

ある日、村中など二、三人と石原莞爾大佐を訪ねた。
兵器本廠附きで、ジュネーブの会議から帰ったところで欧州の事情を話してくれた。
「 近頃 若い者がだいぶ動いているようだが、ドイツやイタリアでは とって代わる勢力ができていたのだ 」
これはもっともな言である。
しかし私は満州事変の立役者石原参謀の言として、それきりの話では少し納得できなかった。
そのあとに続く大佐の言葉がないので、
「 大佐殿は満州事変という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」
「 なにーー 」
小僧奴がと 私を睨みつけた。

佐々木二郎 

一革新将校の半生と磯部浅一
から


對馬勝雄 『 邦刀遺文 』・・・下書

2017年12月13日 14時48分31秒 | 對馬勝雄

昭和六年九月十八日の満洲事變勃発から二カ月後。
陸軍第八師団の弘前、青森、秋田、山形の各一大隊など五百余人からなる混成第四旅団が編成せられ、
内地からの最初の出動部隊として十一月十八日に朝鮮 ・釜山に上陸。
二十日には満洲 ・奉天に到着し守備に就いた。
弘前の第三十一聯隊が基幹となった同旅団の第二大隊約五百名の中に、
對馬勝雄 ( 當時二十三歳 ) が存た。
第七中隊の小隊長を任じられて、
自らが教育してきた兵士らとの初めての出征に奮い立った對馬は、
国家改造運動の国内での進展を念願し
後事を託する内容の挨拶狀をしたためた
「 現下社會不安は日に深刻にして一面昭和維新斷行の時期も切迫致候折柄
 後事はよろしく善處下さりたく懇願し奉り候
思ふに維新の發現は天之を我東北の人民に命じたるの感深きものあり
腐敗せる現支配階級と矯正の餘地なき左傾分子とを斷固たる信念により撃滅し
以て四海に仰がしむべきは我等の使命と存じ候
今回の出兵は私共としては世界第二次大戰の緒動と考へざるを得ざるまゝ
特に国内の維新 眞の國家總動員による大戰の遂行力充實を深く念願するものに御座候
何卒私共の眞意を御覧察下されたく願上候 」

日露ノ役ニハナル程國民奮然一致シテ起ツタ。
而モソハ三國干渉後ノ臥薪嘗胆がしんしょうたん ( 軍備擴張其他精神的軍備アリ  ) ノ結果ニシテ
當初ノ非戰論者モ今日ノ如キ非國家的ノソレニアラスシテ國ヲ憂ウルタメノ非戰論デアツタ。
サレバ一度決然トシテ起ツヤ窮鼠猫ヲカムガ如ク 猛烈果敢ニ獨露ヲ制シタノデアル。
然ルニコレヲモシ今日行フトセバ如何、
第一 三國干渉ニ對スル如キ國民一致ノ準備ナク
却テ反對ニ國内的ニハ非國家思想潮 及 諸勢力ノ横流盛ンデアル。
カクノ如キ狀態ニテ果シテ所謂日本古來ノ國民性ニノミ信倚 ( 頼るの意 ) シテ天祐を頼ミ
憤激ニ托シテ國民ノ一致ヲ期待シウベキヤ否ヤ
・・・昭和六年七月十五日の日記 ・・・對馬勝雄記錄集 『 邦刀遺文 』 より

對馬勝雄は、
満州事變勃発が祖父たちの日露戰爭を勝利に導いたような
『 國體國民 』 一體一丸の燃焼をもたらすことを念願し、
満洲を取巻く中國やソ連、米英との戰爭の危機感をテコに、
切歯扼腕していた国内問題を一擧解決する國家改造の秋 到來を期待した。
 
對馬勝雄 
『 邦刀遺文 』
對馬勝雄が残した満洲での日記
昭和七年一月より始まる

謹而
兩陛下ノ萬才ヲ祈ル。
一段落ナリ。
又中隊長殿 竝ニ 我小隊士以下ノ武運長久ヲ祈ル
元旦ノ朝暾ちょうとん ( ・・朝日 )
ハ廣大無邊ニ輝キテ我守備地タル チヽハル城頭ニサシ昇レル。
興國ヲ期シテ無爲ニ終レル昭和六年ヲ顧ミル時、
本年コソハ決斷行を誓フモノナリ。
・・・1月1日

錦州攻撃概ネ終ワル。
一段落ナリ。
初メ予想セシ如く何時トハナシニ初マリ ○○テ激戦トナリ 余等ノ參戰ナキ間ニ終レリ。
一同ノ遺憾至極ナリ。
尤モ國家的ニ見テ賀スベキハ論ナシ
・・・1月3日

錦州ニ向カヒシ軍活躍ノ報ヲ聞クニツケテモ
トリ殘サレタル吾人ノ身ガ殘念ナリ
・・・1月5日

本朝西北々方ニ銃聲盛ンナリ。
我歩兵十七ニテ近接シ來ル馬軍騎兵隊ヲ撃退セルモノナリ。
多數鹵獲品ろかくひん アリシト。
馬占山ハ軍閥ニシテ我ニ降伏スル意ナキカニ見ユ
・・・1月11日

昭和七年一月八日、『 桜田門事件 』 が起きた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
挿入

・・・リンク→ 桜田門事件 『 陛下のロボを乱す悪漢 』 
犬養内閣は、陛下より
「 時局重大の時故に留任せよ 」
とのお言葉を賜ったという理由で留任した。
・・・桜田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時の陸軍大臣は、荒木中将だった。
事件を満洲で聞いた對馬らは、『 チヽハル 青年将校有志一同 』 の名で
『 荒木陸相留任方懇請 』 を打電しようとしたが、大隊の上官によって抑えられた。
對馬の日記の記述には、内地を遠く離れて、かつ組織の軍人ゆえに行動できぬ不自由さへの葛藤も加わった。

内外愈々多事ナルトキ チヽハル附近ニハ却ツテ何事モナシ。
辭職シテ國内ノ突撃ニ後リサランコト乃、三、榊、泥、阿季、瀬 等ニカク 
・・・1月12日

余ノ信念ハ軍人ナルガ故ニ使命重大ナリトスルニアリタリシガ熟々從來ノ經過ヲ考フルニ
ソノ信念ノ實行ハ軍人ナルガ故ニ愈々困難ナル實情デアル。
軍人ヲヤメルカ否カ、ソレハ 「 皇國ノタメ 」 トイフ、無私ノ信念ニ照ラシテ自ラ定マルベキデアル
・・・1月13日

藤井齊 海軍大尉 戰死 ( 於
上海 )
深ク英靈ヲ祈リ、吾等ハ氏ノ志ヲツイデ故人ニ恥ザラントス
・・・2月25日


・・・・・


磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」

2017年12月12日 19時57分48秒 | 磯部淺一

「 男子にしかできないのは戦争と革命だ 」
と 佐々木二郎の言葉に
磯部淺一は大きくうなずき
「 ウーン、俺は革命のほうをやる 」
と 答えた。
これは陸軍士官学校本科のころ、ある土曜日の夜、
山田洋、佐々木二郎、磯部淺一、三人で語り合った時のやりとりである。
  士官候補生 ・ 磯部浅一
磯部淺一 は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河原 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
尋常小学校を卒えると、山口市の松岡家に移る
義父・・養父・松岡喜二郎
大正八年四月三十日、単身広島へ、五月一日 広島陸軍幼年学校に入校する
《 広島市大手町の旅館に泊まった。「 二郎あれを見よ 」 と 父にいわれて隣を見ると、
同じくらいの子供が一人、ポツンと坐っていた。
「 あの子は一人で来ているらしいぞ 」  と、父は感心した眼色でその子を見つめていた。
・・・佐々木二郎  》

陸士の予科に入ったばかりの頃、ある日の日曜日
下宿で、山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ
「この軍閥野郎 」
と 叫んでいたという。

磯部は幼年学校から陸軍士官学校を卒業するまでの、
七年三ヶ月の将校生徒としての歳月の間に、
生涯の方針を定めた。
それは下級将校として、維新を己の手でやろうと決意したのだ。

大正十三年三月、
陸軍士官学校予科を卒業した磯部浅一は、
四月から六ヶ月間、朝鮮大邱にある陸軍歩兵第八十聯隊に入隊した。
十月、
陸軍士官学校本科に入校
大正十五年七月、
第三十八期として卒業し、再び原隊に帰る。
十月二十五日、
歩兵少尉に任官と同時に、大田分屯隊に派遣された。

昭和六年九月十八日、満州事変が勃発し、
朝鮮の師団は極度に緊張してきて、
満州へは大邱の聯隊から一部の部隊が出勤することになったが、
大田分屯隊は南鮮警備のため残留することになった。
それを聞いた磯部は、
同期の石丸作次と、片岡太郎 ( 四十一期 ) と共に分屯隊の将校を代表して、
大邱の聯隊本部に出かけ、聯隊長の川辺三郎大佐に意見具申して、
出勤を要請したが容れられなかった。
この頃から磯部は青年将校の革新運動の同志になって行く。
誰が磯部に誘いの手を差し伸べたか不明だが、
大蔵栄一の述懐によると 西田税の許にいた澁川善助ではなかろうかと言っている。
 澁川善助
大蔵の回想によれば
「 歩兵第八十聯隊には快男児がいる。  君側の奸を斬るべし、と高言して憚らない痛快な青年将校がいる 」
と 西田税の口から聞いたことがあるという。
西田の旨を含んだ澁川が訪ねて行ったかも知れない。
一期下だから恐らく顔は知っていた筈だと大蔵は言っている。
磯部が革新運動の陣営に加わるのは、翌七年 の夏からである。
七月の初め頃の日曜に、
青山の明治神宮参道わきにあった菅波三郎のアパートに姿を現し、
同志の将校たちが寝そべって国事を談じているのを非難する場面が大蔵の著書の中にでてくる。
これは大田時代から磯部が革新運動の列に加わっていたことを意味する。
リンク→ 
夢見る昭和維新の星々 
そして、しだいに在京の同志たちの間に重きをなして行く。
「 磯部の激しさはズシンと腹の底に響くような重さがあった。
圧迫されるような強さがあった。
同じ急進派で激しさをもっていた栗原とは、大きな違いがあった。
栗原のは軽い、アーまたか、と 同志に軽くあしらわれた 」
と 、大蔵は語っている。
この磯部の上京する前、昭和六年から七年春にかけて、
同志の将校たちがしきりに磯部を訪ねて合同宿舎に泊まりこんで、
密談しているのを、河内稔は目撃している。
「 それはお そらく私や朝山小二郎であろう。
共に羅南において私が歩兵七十三聯隊、朝山は野砲兵第二十五聯隊であった。
東京への行き帰りにはよく磯部の合同官舎に泊まったものである 」
と、佐々木二郎は語っている。

昭和六年秋から翌七年にかけて、磯部の血が騒ぐ事件がつづけさまに起こった。
未遂に終わったクーデターの十月事件、
つづいて血盟団事件、上京直前には五・一五事件が起きている。
「 朝鮮の田舎にひっこんではおれない。東京へ出なければ俺の出番はない 」
と おもったのであろう。
主計将校になって中央に転出しようと、経理部への転科願を出したのはこの七年の春のことであった。
「 磯部の主計将校ぐらい不似合なものはなかった 」
と、大蔵栄一は笑ったが、本人はしごく大真面目であった。
聯隊長はすぐ許可を与えてくれた。
「 転科願を出す時は、私は大隊副官をしていた。
ある晩、私の家にやって来た磯部はその出願動機についてこんな話をした。
『 革命をやるためには沢山の軍資金が必要である。
聯隊の金庫にはいつも莫大な現金が入っている。
この金庫の責任者は聯隊長だが、鍵を持って自由に出し入れできるのは主計将校である。
だから俺はこの金庫の金を自由に動かせる主計将校に出願したのです 』
という。なるほど良い所に目をつけたなと笑って別れた。
わしには何でも自由に話してくれたから、或は本音であったかも知れない。
しかし、磯部も革命のために金庫の金を自由に使う前に、
陸軍から追放されて折角の遠大な計画も駄目になってしまった。
十一月二十日事件でわかるように磯部は特別にマークされていたのではあるまいか 」
と、これは山崎喜代臣の回想である。
昭和七年六月、陸軍経理学校に入校した磯部は、
翌八年三月、卒業して原隊の大邱第八十聯隊に帰って来た。
しかし、激しい革新運動の渦中に身を置いてきた磯部には、一刻も早く上京したい。
そこで
「 糖尿病治療のため、東京に転勤したい 」
旨の願いを出し 近衛歩兵第四聯隊に転勤が決まったのが、八年五月の終わりであった。
いよいよ上京することになった。
これから俺の舞台は東京だと、磯部の心ははずんだ。
さっそく入院中の河内稔に決別の手紙を書いた。
「 半島の生活九年、
 闘争と恋の北大邱は げにロマンスの都なりし、
今一切の我執をすて
一念耿々こうこう の志にもえて東天に向ふ。
心甚だ快なり。
君の御健闘を祈る。
特に病体御大切に。

河内南樹殿    菱海書 」
昭和八年六t月三日の消印がある。
躍るような筆勢である。
「 壮士一度去って亦還らず 」
といった勃々とした雄心
と 一抹の悲壮感
が こもごも入り混じっていた。

「 被告人磯部淺一は豫て國家社會の問題に關
昭和七年五 ・一五事件に依り大なる刺戟を受け、
同年六、七月より菅波三郎と相知り、同年八月同人が満洲に轉任する迄數回同人に面會し、
更に西田税、北一輝等に接し 同人等の所説を聴くに及び深く之に共鳴し、
爾來 熱烈なる國家改造論者として被告人村中孝次、大蔵大尉、安藤大尉、佐藤大尉、栗原中尉等と共に
該運動に從事し、同志聯絡の中心的地位に在りたるもの 」
これは 昭和九年十一月二十日、反乱陰謀の疑義で檢擧された
磯部淺一らに對する第一師團軍法會議の檢の一部であるが、
上京後の磯部の行動を端的に表現している。
 菅波三郎
「 上京後の磯部は、私のアパートに二、三回は来た、
その都度軍内部の動向、革新運動一般の情勢について説明した。
既に改造法案は熟読しており、北、西田両氏とは会っていた。
急進派の中心的存在であったことはたしかだ 」
と、菅波三郎は語っている。
上京して後の磯部淺一は常に急進論の先頭に立っていたことは、
大蔵栄一の著 『 二・二六事件への挽歌 』 に何度か出てくる。

大蔵も
「 磯部は気迫で押しまくってくる。
こちらも気合負けしたら一挙に暴走する。必至にやり合ったものだ 」
と 述懐している。
磯部と栗原安秀中尉とが急進論の中心であったが、なぜ彼らが蹶起を急いだのか。
それは わが国の内外に問題が山積みしているのに、国内も軍部内も派閥抗争を繰り返し、
進んで国難を打開しようという真人物が、国政の中枢に座ることができない状態であったからである。

「 革命とは暗殺を以て始まり 暗殺を以て終わる人事異動なり 」
これは私宛の手紙の中にあった文句である・・・佐々木二郎

磯部が西田税の家に初めて行ったのは、上京してから間もなくの頃であったと思われる。
昭和七年の五月、西田は五・一五事件のそば杖をくって、
重傷をうけ 六月の末退院し、
七月の中旬から一ヶ月あまり湯河原へ転地療養に行っているから、
退院してから療養に出発するまでの間に行っていることはほぼ間違いない。
「 北さんの家には月に一、二度、西田さんの家には毎晩のように顔を出した 」
という大蔵の述懐によれば、
「 磯部もよく顔を出していた。
さすが豪傑の磯部も大先輩の西田さんには頭が上がらず、
素直に兄事していたのが印象に残っている 」
と 語っている。
磯部は西田から北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を 与えられ、熟読玩味したであろう。
後に免官になって閑のできた時には、改造法案を清書しているし、
獄中遺書に、
「 余の所信とは日本改造法案大綱を一点一角も修正する事なく 完全に之を実現することだ。
法案は絶対の真理だ、余は何人と雖も之を評し、之を毀去することを許さぬ。
・・・・日本の道は日本改造法案以外にはない、絶対にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の歿落ぼつらくの時だ 」
と、絶叫し、
「 日本改造法案は一点一角一字一句悉く真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の真表現だ 」
とも言い切っている。

弓張月の円くして、
射る矢は天にとゞくなり。 散れ、散れ、
散るならパット散れ、パットね
・・磯部が作った歌

須山幸雄 著
二・二六事件 青春群像  から


對馬勝雄中尉の結婚話

2017年12月12日 13時35分14秒 | 對馬勝雄


對馬勝雄 

豊橋の駅の別れの名残りと
 吾子をのぞけば眠り居りけり
« 註 »
對馬千代子夫人記
二月二十六日、私が静岡日赤病院に入院のため、なにも知らずに送られて、
豊橋を後にしました。これが最後の別れとなりました。

きたか坊やよ悧口な坊や
たつた一つで母さんの
つかひにはるばる汽車の旅
お々  お手柄 お手柄
父より
昭和十一年七月八日
好 彦さんへ
« 註 »
對馬千代子夫人記
私が一月十六日出産後、病床にありましたため、最後の面会に行かれず、
祖母に連れられて好彦が上京致しました折に・・・・・・

 
・・・あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
對馬勝雄中尉の結婚話
對馬中尉が豊橋教導学校の区隊長をしているころ、
中隊長が對馬に対してしつこく結婚を勧めたことがあった。
對馬はその話を全く受けつけなかった。
相手の女性は中隊長のかつての大隊長の令嬢であった。
かつての大隊長からはヤイヤイいわれるし、對馬は全く受けつけないし、
仲にはいった中隊長ハ困りぬいたあげく、
「 對馬中尉、オレの立場モ考えてくれ。
  君が松永少佐 ( というのがその上官 ) のお嬢さんと結婚の意志のないことはわかったけれども、
見合いだけはしてくれ。
見合いしてから断わればそれでいいから、形式だけの見合いだけは頼むぞ、
それでないとオレが引っ込みがつかないんだ 」
いずれは国家革新のために挺身しようと情熱をもやしつづけていた對馬の心の奥底を、
うかがい知ることのできなかった中隊長の提案が、形式的な見合いであった。
この提案に対して、對馬はことわる理由がなかった。
ついに承知せざるを得なかった。
對馬はひそかに思った。
形式的見合いというものがあっていいものだろうか、
それは先方の令嬢の心を傷つけるものだ、
見合いをするからには結婚を前提としたものでなければならぬ、
いいかげんな気持ちは對馬の性質が許さなかった。
對馬は決心した。
見合いするまえ、すでに結婚の決意を固めた對馬にとっては、
その見合いは別な意味において形式的であった
私は、對馬の結婚にまつわるそんな話を、大岸大尉からかつてきいたことがあった。

大東亜戦争が終わって、世の中もだいぶ落ち着きをみせはじめた昭和二十七、八年ごろであった。
清水市在住の七夕虎雄が発起人となって、
静岡市の護国神社で二 ・二六事件の慰霊祭を催すことになった。
その慰霊祭に招かれて、東京から参加したときのことであった。
私は、はからずも對馬中尉の岳父松永少佐に会った。
「 あのとき私は、對馬から全くだまされましてね・・・・」
と、老少佐は 『 二 ・二六事件 』 前夜のことを話し出した。
「 ちょうどあのとき、むすめは初孫を出産しましてね、豊橋の病院に入院中でした。
  初孫でしかも男の子でしたから、私ら夫婦はことのほか喜んでいました。
突然對馬が私のうちにやってきて、
『 今度弘前の方に転任することになりました。
  これから急に赴任しなければなりません。

  あとはくれぐれもよろしくお願いいたします 』 
と、あいさつにきましたのが、二月二十五日でした。
そこで私は、心配するな、退院したらなるべく早く弘前に送りとどけるから・・・・と、
彼を喜んで豊橋駅まで送っていったんです。
ところが翌日はあの騒ぎです。
對馬が参加していることがわかったときはびっくりしました。
物の見事にだまされましたが、だまされたことに怒りを感ずるどころか、
私はむしろ清々しい気分になりましてね、全くおかしな話でした 」


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から


對馬勝雄中尉 ・ 殘生

2017年12月11日 19時32分25秒 | 對馬勝雄

 
對馬勝雄 

殘生

二・二六事件で
昭和十一年七月十二日に
死刑になった十五人のうちの一人、
對馬勝雄中尉の獄中作に次の漢詩がある。

同志胸中秘内憂  追胡萬里戰邊洲
還軍隊伍君己欠  我以殘生斬國讎

文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて
自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。

同志が胸中に内憂を秘めて、胡を万里に追って辺州に戦ったというのは、
昭和六年の満洲事変で、内地からはじめて一箇旅団が出征したとき 對馬中尉と、
その同志が国内の革新を心に秘めて、この部隊に加わっていたことをさすのである。
この旅団は、第八師団管下の各歩兵連隊で、
それぞれ集成の一箇大隊を編成した四箇大隊を基幹に、
それに相応する砲兵、騎兵、工兵を加えた混成旅団だった。
それに、弘前の歩兵三十一聯隊の對馬中尉 ( 当時少尉 ) と
秋田の歩兵十七聯隊の菅原軍曹、
私の属した青森の五聯隊から
對馬中尉の仙台幼年学校以来の同期生 遠藤幸道少尉と私が参加していた。
同志といえばこの四人をさしたに相違ないが、そのうち
菅原軍曹 ( 戦死して曹長に進級 ) と
遠藤少尉 ( 渡満後中尉に進級、戦死後大尉 ) が戦死したから、
凱旋した部隊から欠けていたのである。
出征したのは十一月中旬で、十月中旬に未遂に終わった十月事件の直後だった。
が、革新的な動きは、これで終熄したわけではなかった。
それは直後におこった事件が実証している。
十月事件で青年将校と行動を共にすることを誓った民間同志が、
井上日召を中心に一人一殺を、出征して間もなく始めたし、
その翌年の五月には五・一五事件がおこっている。
しかも對馬中尉にとっては、
自分の直接影響下にあった同じ三十一聯隊の野村三郎士官候補生が
五・一五事件に海軍士官と行動を共にしているからである。
たしかに内憂に心ひかれながら、それを胸奥に秘めての出征であり戦いであった。

中略

・・昭和六年にうつることにしよう。
對馬も遠藤も、もう古参少尉になって、それぞれの聯隊の聯隊旗手をしていた。
私は中尉になっていて、この夏、戸山学校の学生で東京に出ていた。
外では満洲事変がおこり、内では十月事件のクーデター計画が進められていた。
十月事件というのは計画が挫折したのが十月中旬だったからこの名があるが、
決行予定も同じ十月中旬だった。
これが若し実行されていたら、
スケールにおいては、
二・二六事件も遠く及ばぬ陸海、民間合同の大クーデターが実現するはずだった。
予め全軍の同志将校にもわたりがついていた点も二・二六事件の比ではなかった。
が、事実は、軍当局がこれを押えて挫折させなくても、実行は危ぶまれた。
橋本中佐ら参謀本部を中心とする幕僚と、部隊を直接指揮する青年将校との間に
革新についての根本観念に食い違いがあり、
それが決行日が近づくにつれ益々はげしくなり、対立までなっていたからである。
食い違いとは、つづめていえば、幕僚ファッシズムに対する批判反撥だった。
もちろんマルキシズムに基づかない革新がすべてファッシズムと分類規定されるならば、
この区別は無意味である。
憲兵が手を下したのが十月十七日だった。
ちょうどその日、青森から大岸中尉が、牛込若松町の私の下宿に、
和服姿で、軍刀をさげてやってきた。
大岸中尉は、仙台の教導学校から青森の原隊に復帰していたのである。
もともと私の戸山学校入校は、上京が目的の手段で、大岸中尉としめしあわせてのことだった。
これには独自の計画があったのだが、
三月事件から糸をひいた橋本中佐らのクーデター計画を知り、
それと合流変形したのである。
変形は整形しなければならなかった。
決行前に整形すべきか、決行後に第二革命といった形式で整形すべきか、
それがはっきりせぬままに
月日は とんちゃくなく、対立抗争の様相を内部にはらみながら過ぎて、
決行予定日の二十日が、いたずらに迫っていたのである。

青森の聯隊はこのころ、秋季演習で秋田県下に出払っていた。
大岸中尉は留守隊に残留して、
情況偵察かたがた、必要によっては決行参加を覚悟して上京したのである。
計画の挫折を知った大岸中尉は早速、
演習地の相沢三郎少佐らと、弘前の對馬中尉に上京中止の電報を打った。
私の下宿に一泊した大岸中尉は、帰りぎわに、
「 女房も上出来さ。 家を出ようとすると、何も知らないはずなのに、
尾頭づきの鯛と赤飯を供えたよ。」
と いった。
大岸中尉が帰ると一足ちがいで、
これも和服姿に軍刀の對馬少尉と菅原軍曹が下宿に現われた。
對馬少尉は仮病をつかって留守隊に残っていたが、抜け出して、
秋田の聯隊の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。
菅原軍曹は大岸中尉の仙台教導学校時代の教え子である。
将校とちがって、ごぼう剣を後生大事に風呂敷に包んでいた。
この二人が帰ったあと演習地の平田聯隊長から
「 アイザワ、カメイ、エンドウ、スグカエセ 」 の 電報が届いた。
変な電報だと思ったが、 「 ダレモキテイナイ 」 と 返電した。
が、その翌日、
電報の主の相沢少佐、亀井中尉、遠藤少尉の三人が
これも和服にトンビを羽織った姿で現れた。
みな大岸中尉の電報を待ちきれず飛び出してきたのである。
相沢三郎中佐は、
この年の八月の異動で五聯隊の大隊長に着任し
大岸中尉らに共鳴したのであった。
その大隊を相沢少佐はほうりだし、中隊長代理の亀井中尉は中隊をほうりだし、
聯隊旗手の遠藤少尉は軍旗をおいてけぼりにして、
そろって演習地からずらかったのだった。
演習に出るときから 相沢少佐は軍刀をマントにくるんで乗馬の尻にくっつけていたし、
亀井中尉は青竹の筒に軍刀をいれて、それを当番兵にかつがせていた。
軍服を着かえたのは、
山形県の酒田で中等学校の配属将校をしていた横地大尉の家であった。
横地大尉も もと五聯隊で中隊長をしていて、大岸中尉のシンパだった。

満洲に混成旅団が出征したのは、このときから一カ月あまりあとである。
相沢少佐と大岸中尉、亀井中尉は残留した。
が、翌年四月、師団主力の渡満と同時に亀井中尉だけ追及してきた。
あとに残った相沢少佐はしばらく青森にいたが、
五・一五事件のあと秋田の聯隊に転任になり、
ついで福山の聯隊に変っていった。
永田事件は福山の聯隊付中佐のときだった。
大岸中尉は大尉となり和歌山の聯隊に変った。

菅原軍曹が戦死したのは昭和七年の高梁の茂る炎暑の夏だった。
四月に師団主力が渡満してからは、
第八師団は大遼河以西、山海関までの奉山沿線に駐屯していた。
秋田の聯隊は本部を大虎山に置いて、一部をその西方の北鎮に駐屯させていた。
北鎮は鉄道沿線から外れているので、
本部から毎日糧秣、郵便物、慰問袋を届ける定期便のトラックがでていた。
その定期便のトラックに軽機関銃一箇分隊を率いて菅原軍曹が警乗した日に、
途中の高梁畑に待伏せしていた数十倍の敵が包囲襲撃し、
菅原軍曹以下が全滅したのである。
綿州にいた對馬中尉は、その追悼式に駈けつけ、
菅原軍曹の遺骨の一部をもらいうけ、その一片を噛みくだいて嚥下した。
遠藤中尉が戦死したのは、
この年の暮れから翌年の正月にかけての山海関の戦闘でだった。
戦死した場所は
万里の長城、天下第一関の扁額のある東門に相対した山海関場内の西門直下だった。
敗敵を追及して西門に追ったとき、城門上から狙撃されたのである。

二・二六事件のあった年の正月、
對馬中尉は郷里の青森に帰っていたそうだが、
私は東京、千葉の間を旅行していたので会えなかった。
そのとき 對馬中尉は生家の仏壇に安置してあった袋を、
これは貰って行くといって、持ち帰ったという。
袋は満洲事変で戦死した自分の部下と菅原軍曹の分骨のはいったものだった。
師団が凱旋したのは昭和九年の四月初旬だったが、
それより一足先に對馬中尉は豊橋教導学校の区隊長に転任になって内地に帰っていた。
が、師団の凱旋をきいて、それを迎えるため、休暇をとって郷里に出向いた。
その時、肌身はなさず持っている袋を母堂に見とがめられ、
問われるままにわけをはなすと、
母堂から、そんなことをしていては些末になるから仏壇に納めるようにといわれて、
置いていったものだった。
昭和十一年の二月二十六日未明、
興津の西園寺公望襲撃が同志間の意見の齟齬から不調とみるや、
對馬中尉は竹嶋継夫中尉と一緒に上京して蹶起部隊に合流した。
そのとき恐らくは、正月に生家から持ち出した菅原軍曹らの遺骨のはいった袋を、
肌身につけていたはずである。・・リンク→ 池田俊彦少尉 「 私も参加します 」 
二・二六事件までの對馬中尉の身は、残生にすぎなかった。

相沢中佐は對馬中尉に先立つこと九日、七月三日に死刑になった。
亀井中尉は日支事変中、少佐で大隊長だったが、北支山西戦線で戦死した。
大岸大尉は二・二六事件後 軍職を去り、
終戦後は郷里の山村に隠棲していたが、数年前に肺病で亡くなった。
十月事件のとき、一劒を抱いて相ついで脱藩上京した壮士はみな不思議にこの世を去り、
当時これを東京で迎えた私一人が生き残ったのである。

末松太平著  私の昭和史 から


磯部淺一 『 國民の苦境を救うものは大御心だけだ 』

2017年12月11日 09時59分32秒 | 磯部淺一

 
磯部淺一 

磯部淺一は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河村 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
のち獄中日記に彼が「菱海」と号したのは、この生れ故郷の寒村の名をとったものである。
農家といっても、農業で暮らしをたてていたわけではない。父の仁三郎は左官であった。
その頃の菱海村は貧しい農漁村で、家わ新築したり、改造する人はごく稀れであった。
そのために仁三郎は遠くの町に出稼ぎに行き、家には殆んど居なかった。
家には二反(二〇アール)あまりの水田と、
山林と畑合わせてこれも二反あまりの土地があり母親のハツが一人で耕し、
作った野菜を近くの塩田の労働者たちに売って、暮らしの足しにしていた。
磯部淺一はこうした家庭に育った。

彼は物心ついた時から、母一人子一人の生活が多く、
朝から晩までまっ黒になって働く母親を見ているだけに、子供の時から親思いで働き者であった。
浅一は学校から帰ると、さっさと野良着に着かえて、畑仕事を手伝ったり、
野菜を母と二人で浜まで売りにいったりした。

磯部淺一の竹馬の友であり今も磯部の生家の近くで農業を営んでいる下瀬諒は、
少年の頃の磯部を追想してこう語っている。
「私は磯部より一級下であったが、家が近くだったので兄弟のようにして育った。
学校はごく近く(五百メートル位)だったので昼食はいつも食べに家に帰る。
二人は朝昼は一緒に歩いた。
磯部は頑丈な身体つきの元気者で、激しい気性の男であったが、
幼少な者や老人にはいたって親切であった。
しかし、大人の無理や非道に対しては、強く反撥した。
ふだんはニコニコしていて、まひとに明朗闊達であったから、先生にも友達にも好かれていた」
済美小学校では一年からずっと主席で通し、明治四十五年三月尋常小学校を卒業する時は、
当時としては例のない山口県知事の特別表彰を受けている。
それは学業が優れているばかりでなく親思いで、よく母親の仕事わ手伝い自分も野菜を作って売り、
一家の生計を助けた類いまれな孝行少年であるという理由からであった。

磯部の噂さを耳にした厚狭郡厚狭町(現山陽町)の、山口県属の松岡某(名不詳)が、
是非磯部少年を自分の力で世に出したい。  (松岡喜二郎)
自分に任せてくれまいかと申し出てきた。
松岡の夫人が菱海村の西光寺の娘であったので、
西光寺の住職が返事を渋る仁三郎夫妻を説得したと謂われる。
松岡家に引きとられた磯部は、厚狭町の大殿高等小学校に入り、ここでも抜群の成績を示した。
松岡家は代々長州藩士で、老父は古武士的な気風の人であったが磯部を一目で惚れこんだ。
頑健な身体と優秀な成績、少年ながらも気魄も闘志も充分である。
しかも、平素は明朗闊達、生まれながらの将器である。
ぜひ陸軍に入れと、熱心にすすめた。
その頃、山口県下の退役将校の親睦団体に「同裳会」という組織があった。
明治の末頃、山形有朋の主唱と毛利家からの援助で作られ、
この会によって、山口市伊勢小路に「山口県武学生養成所」が建てられた。
これは防長二州から軍人志望(主として陸軍)の優秀な少年を、軍関係の学校に入れ、
大いに後進を増強しようというものであった。
磯部もこの武学生養成所の指導を受け、
高等小学校二年の春、受験して合格、大正八年九月一日広島陸軍地方幼年学校に入校した。
磯部は幼年学校へ入った後も休暇で家に帰ると、すぐ野良着に着かえ終日まっ黒になって働いた。
「まだその頃は封建色が強く、田舎は因習にしばられていた。
貧乏人のくせに将校生徒になりおってという羨望と嫉妬のまざりあった目で磯部は世間から見られていた。
磯部はそんな世間の冷たい目を意識していたのだろう。
広島から休暇で帰る時は、人の通らない山道を歩いて家にこっそり帰る。帰るとすぐ、
つぎはぎだらけの野良着に着かえ、母を助けて畑仕事に精を出していた」・・・下瀬諒談
社会の一番下積みの階層に育ち、たえず自分わ殺し続けてきた磯部も、
広い世間に出てみると無能な奴やくだらない人間が、富や地位を得て威張っている。
磯部はそんな世の中の不条理に激しい怒りを感じ、やがて、権力者への反撥となる。
陸軍士官学校の予科に入ったばかりの頃、磯部はある日、
日曜下宿で山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ、「 この軍閥野郎 」 と叫んだいたという。
「 男にしかできないのは、戦争と革命だ、おれは革命のほうをやる 」 と、高言していたという。
ここには少年の日の磯部の面影は全くない。
まるで山口版の二宮金次郎のようであった。
篤学で孝心のあつい勤勉な少年が、どうしてこんなに急に変貌したのか。
少年時代に抑圧されていた批判精神が、
社会の矛盾や不条理に触発されて激しい反逆精神となり、一気に燃え上がったものとみえる。
しかし、磯部の陸士在学中の反逆精神は、まだ心情的で深みをもったものではなかった。
磯部がはっきりと国家改造に志を定めたのは、朝鮮に赴任してからであり、
更に思想的に展開したのは、昭和七年六月上京して西田税の家に出入りし、西田の影響を受けてからである。
磯部は大正十五年七月、陸軍士官学校を卒業して、原隊の大邱歩兵第八十連隊に帰り十月に任官した。
任官直後大田分遺隊付を命ぜられて、大田に赴任する。
磯部はここに四年あまり居て、昭和五年大邱の本体に帰っている。
磯部が国家改造に志を定めるのは、この大田の四年あまりの時代であったと思う。
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少尉任官記念            歩兵第八十太田分屯隊営門
大正十五年十一月

料亭  『 荒川 』 別荘
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「・・・大田の料亭 「 あらかわ 」 で酒をくみ交わしながら磯部はこんなことを言った。
財閥、特権階級、それに政党は国家に害毒を流し、国民を苦しめている。
われわれ若い者が起ち上がって、こいつらの息の根をとめねばならん。
日本では昔から下級武士が革命をやっている。
源頼朝は武家政治を開いたが、下積みの田舎武士だった。
建武中興の楠正成もそうだ。
明治維新も薩摩や長州の下級武士の力で成った。
昭和の維新は、俺たち下級将校の力でやらねばならん。
そして、天皇陛下の大御心による仁慈の政治をとり返さねばならん。
この国民の苦境を救うものは、もはや陛下の大御心だけだ
と、磯部は涙を流しながら語った。
その言葉は今でも耳の底に残っている 」
と、下瀬は述懐する。

ある夕方、大体本部から、むっつりした顔で戻ってきた磯部は 
「 おい、呑みに行こう 」 というので、「 あら川 」 に行って、二人で痛飲した。
あくる朝、大隊副官が将校官舎にやってきて、
「 磯部、大隊長の所へ謝りに行け 」 と言う。
磯部は
「 自分は謝る理由がないから謝りません。処罰するなら勝手にして下さい 」
と、きっぱり断った。
わけを聞くとこうである。
大隊長の矢野少佐が磯部の部下の特務曹長に、あらぬ濡れ衣をきせて退役するように迫った。
特務曹長は口惜しさを磯部にもらした。
激怒した磯部は大隊長を面詰し、その不当なことを事例をあげて痛論した。
大隊長もやり返す、あげくの果て、磯部は大隊長を一つ二つ殴って帰ったというのである。
あとで特務曹長の冤罪を知った矢野大隊長は
「 磯部、よく殴ってくれた 」 と、手を握って礼を言ったという。
磯部という男はこんな男であった。
荒武者だったが、清廉潔白という字義通りの男で、何よりも不義、不正の許せない性格であった。
国家、国民のためならいつでも生命を捧げる気持ちでいた。
二・二六事件にはいろいろな批判のあることは知っているが、
磯部が起った気持ちは、天下万民のために起つ、止むに止まれぬ赤誠心であったと、私は信ずる。
・・・・
磯部淺一の登場
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


菅波三郎の革新思想

2017年12月10日 11時59分15秒 | 菅波三郎


菅波三郎

政治には思想、哲学がなければならない。

国体の進化に対する正確な認識が欠けてくると、
政治制度や経済組織が時代の進運にそわなくなり、
その欠陥が失政となって、国民生活を脅かし貧窮する。
社会不安はいろいろな主義思想が入り乱れて、抗争と混乱が生れてくる。
このような国情に対して、当時の日本陸軍には三大潮流ができて対立していた。
一つは現状維持派であり、
次が対外拡張派であり、最後が国内革新派である。
現状維持派とは長老 ( 将官級 ) の一部であり、
国家改造とか、社会革命をタブーとし、
軍人はただ上官の命令に服従し、軍務に精励せよ、と軍人の本分を説き、
そのくせ自分たちは派閥の中に生き、派閥のために憂き身をやつすやからである。
対外拡張派は、軍人の中堅 ( 佐官級 ) の一部で、
陸軍省、参謀本部、関東軍などの出先機関の中枢に属し、
ひそかに謀議を以て武力進出対外発展を企図し、
軍備の拡張、軍事費の獲得、さらにこれらを容易にする軍政府の樹立をはかる一群であり、
青年将校はこれを幕僚ファッショと呼んだ。
最後の国内革新派が、
国家の内部に潛む矛盾、社会の底辺に喘あえぐ国民の貧窮問題を解決する、
国内政治の出現を最大の急務とした尉官級隊付青年将校の一群である。


藤井齊 『 昭和6年8月27日の日記 』

2017年12月09日 09時57分39秒 | 藤井齊

『 郷詩会の會合 』
赴任先の九州大村海軍航空隊から參加した藤井が、
井上日召の家 ( 代々木上原の権藤成卿の借家 ) に歸ると、そこへ對馬がガリ版刷りを持ちこんできた。
「 全艦隊に送るべく宛名を書き終えた 」 という。
よく見ると、「 陸海軍靑年將校一同 」 と書かれている。
「 満蒙問題に就て陸海軍合同すべし 」 と呼びかける文書で、
藤井は、
「 これはいかぬ、早速止めさせろ 」
と 青山參道アパートの菅波三郎宅に集まっていた對馬の仲間たちを説いて止めることにした。
藤井はこの日の午後、海軍の同志である古賀、三上卓海軍中尉、井上らと共に
霞ヶ浦海軍航空隊の小林省三郎司令を訪ねて 「 革命 」 への決意を問い、
さらに參謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐、大川周明らと會う約束をし、
「 本年秋の義擧 」 について詳しく調べ 知らせる約束をした。 ・・ 十月事件

我等はそれに代わつて之を擴大--深刻化し
指導して 我等の革命になさんとするものなるが故なり、

斯くて陸海軍の合同はなるべし

陸軍はどうも政治革命迄しか考え居らざる様子、
先ず一辺やらせよ、而る後 之を叩きつぶすし我任なり、
恐らくは革命の本体なるべし
・・・8月27日

藤井齊
藤井斉、昭和6年8月27日の日記 
・・・検察秘録五 ・一五事件 より

・・と 陸軍側に信を置かず、
政権奪取とは違う直接行動の蹶起をこの時點で練りつつあった。
それゆえ、對馬が持込んだ満蒙問題の呼びかけ文書を中止させたのも、
大事の前に海軍側の名前が漏れるのを危惧したためと思われる。
郷詩會や翌8月27日に集った靑年將校の中に、末松太平中尉もいた。
郷詩會を機に、西田税の自宅を聯絡場所として、
陸海軍有志や井上日召グループが毎晩のように顔を合わせていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『 郷詩会の會合 』 ・・昭和六年八月二十六日
この会合のあとも、私は何ごともなかったように戸山学校に通い、剣術、体操に励んだ。
そして毎晩のように西田税のうちに出掛けた。
藤井斉大尉、古賀清志、中村義雄中尉、大庭春雄、伊東亀城少尉らの海軍や、
菅波三郎、村中孝次中尉らの陸軍や、井上日召、小沼正、澁川善助らが、
このころの西田のうちで出合う常連だった。
会えば語り合い、語りあえばそこに何物かが胎動した。
それは 「 郷詩会 」 を 単なる組織固めに終らせたくなかった、
海軍のペースに乗ったものだった。
・・・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合 


末松太平 ・ 赤化将校事件 1

2017年12月08日 04時56分58秒 | 末松太平

青森歩兵第五聯隊の記録
---赤化将校事件---

末松太平

二・二六事件連座の獄をでた私は
翌昭和十五年、
ある会合に出席して、
たまたま同席した厚生省労政課長の北村隆に紹介された。
紹介したのは、これも同席した竹内俊吉だった。
竹内俊吉は永年つとめた東奥日報をやめて、
東京の昭和通商に はいったばかりだった。
東奥日報といえば 青森県の代表的新聞である。
竹内俊吉は東奥日報社時代からの知合ということで北村隆と久濶を叙していたが、
ことのついでのように、そばにいた私を北村隆に紹介した。
私は北村隆とはもちろん初対面だから、初対面のように挨拶した。
が 北村隆は、いくぶん皮肉めいた笑いをうかべて
「 末松さんのほうは初対面のつもりでも、私のほうは初対面ではありません。
私は五聯隊赤化将校事件当時の青森県特高課長ですから。
青森県特高史に五聯隊赤化将校事件と、はっきり記録されています 」
と いった。
北村隆のいう五聯隊赤化将校事件がなんであるかは、私にはすぐに理解できた。
私が昭和五年の暮、仕出かした、
事件というほどのこともない些細な事件のことをさしているわけで、
赤化将校とは、とりもなおさず 当時の私のことである。
その意味で当時青森県特高課長だった北村隆にとって
私は初対面の相手ではないわけだった。
互いに初対面の顔が覆い会合だった。
引合わされて幾組も初対面の挨拶を交わしていた。
そのなかで私の場合は、ただの初対面でなく、
五聯隊赤化将校事件などという思いがけないものが、
十年後に、引きずりだされることになった。
それにしても、赤化将校事件とは恐れ入った格付けだった。

昭和五年は、
半ばから年末にかけて私は、機関銃隊長代理をしていた。
本職の機関銃隊長が千葉の歩兵学校に派遣されていたから、
その留守のあいだ、
中尉になったばかりだったが、
機関銃隊将校のなかでは最古参というだけで私が代理をつとめていた。
赤化将校事件と青森県特高でいっていたという事件は、
この機関銃隊長代理をしているあいだの、
除隊兵を送り出すとき、おこしたことだった。

毎年十一月の末に、その年の二年兵は除隊することになっていた。
一緒に入営した同年兵のうちでは、最後まで残された兵である。
一緒に入営した同年兵のうち
幹部候補生に合格した有資格者は、甲種、乙種の別はあったが、
旧制度の一年志願兵同様、一年で除隊した。
残ったもののうち入営前、居住地で軍事訓練をうけ、入営後の検定に合格したものは、
それから半年後に除隊した、
十一月に除隊する兵は幹部候補生になる学歴もなく、
北海道やカムチャッカなどに出稼ぎにいっていたか、家族が忙しいかで、
入営前に軍事訓練などうける暇のなかった兵である。
この最後まで残った兵に召集した予備役兵を合わせて、
稲の刈入れのおわる十月半ばから十一月の初めにかけて、毎年秋季演習が行われる。
これがおわると、それを待ちかねたように予備役兵は
「 うちのほうにも内務班がありますから 」
というものもあって、さっさと除隊して帰郷してしまう。
あとの兵営は人影もまばらで閑散になる。
二年兵は、いよいよ自分の番を待つだけである。

除隊日が迫ると、中隊長は除隊兵を集めて現役最後の訓示をする。
良兵良民の訓示である。
良兵である お前たちは、こんど郷里に帰ったら良民にならねばならぬ、
ということがいいたいたるの訓示である。
軍隊内務令にも
「 在営間の教養は、
ただに全服役間を通じて軍人の本分を完うするに緊要なる基礎たるのみならず、
またもって国民道徳を涵養し、終世の用を為すべき習性を賦与するに至るべきものにして、
軍人は帰郷ののちと雖も、永くこれよりて各自の業務を励み、忠良なる国民となりて、
自らよく郷党を薫染し以て国民の風向を昻上せしむることを得る 」
良兵の証明書が善行証書で、それには照明者の聯隊長の官姓名が印刷しいあり、
判もおしてある。
が 教育とは分類し序列をつけることであるかのように、
序列によって、もらえぬものと、もらえぬものとが分類される。
比率があって除隊兵の何パーセントかが、もらうのだが、
もらえるものより、もらえぬもののほうが数が多い。
善行証書に値打ちがあるのはそのためで、就職、嫁取りの身分保障にもなる。
善行証書はしかし、
このころの五聯隊では、いよいよ除隊する、その日の朝でなければ渡さないことになっていた。
前日に渡して不都合なことのおこった前例があってからのことである。
二年間要領よく、かぶりつづけた猫を、善行証書をもらったとたん、
もう大丈夫と、たった一晩の辛抱がしきれず、ぬいで、正体をあらわすものがいたわけである。
一度渡したものを取返すのも無様だが、
たとえ取返したとしても、見込みちがいは取返しがつかない。
それを予防するため、営門を出る、ぎりぎりまで善行証書は渡さないことになっていた。
が 現役で除隊するまでは、猫をかぶりとおして無事善行証書をもらっておきながら、
予備役できて、臆面もなく正体をあらわして、あとの祭り、中隊幹部をくやしがらせる例もあった。

善行証書とは関係ないが、なかには折角、猫をかぶりおおせて除隊したのに、
わざわざそれをぬぐいにくる兵もいた。この年の機関銃隊の除隊兵のなかに今岡という兵がいた。
今岡は除隊日の夜、合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
「 なんだ、まだ帰らなかったのか 」
というと 今岡は
「 このまま帰ろうと思いましたが、猫をかぶったまま帰っては教官殿に、
すまない気がしたものですから 」
といって、自分の入営前の経歴をはなした。
入営前憲兵にわかっていれば、多分要注意兵にされていたであろう経歴だった。
軍隊には要注意兵という扱いをうける兵がいた。
五聯隊にも毎年わずかながら、そういう兵が入隊した。
要注意兵というのは憲兵から赤化した危険人物と、入営前連絡のあった兵のことである。
実は、この年の機関銃隊の除隊兵のなかにも要注意兵が一人いるはずだった。
毎年初年兵の入営を前にして、人事係特務曹長は聯隊本部から、
配属される兵員名簿を受領してくるのだが 二年前、このときの除隊兵のとき、
機関銃隊の人事係特務曹長は、要注意兵を一人、押しつけられてきた。
聯隊本部から帰ると初年兵教官だった私に
「 こんどは機関銃隊も番だと聯隊副官殿から因果をふくめられ、厄介者を一人もらってきました 」
といって苦笑した。
前には漸くレルギーが軍隊にあったが、このころの五聯隊では、個人差はあったが、
一般ではもう、それを特別意識するようなことはなかった。
かえって要注意兵自身のほうが終戦後、本人が書いたものなどをみても過剰にそれを意識していたようで、
要注意兵だからということで特別に変った待遇をするわけではなかった。
但し人事係特務曹長だけはべだった。
前からつづいている規則によって、一人でも要注意兵がいると、そのため毎月、聯隊本部に、
異常のあるなしにかかわらず報告書を提出しなければならなかった。
要注意兵がいるというだけで面倒な仕事が一つ増えるわけで、
人事係特務曹長にとっては、いかにもこれは有難くない荷物だった。
が 幸いなことに、このときの要注意兵は入営直後の身体検査にはねられ即日帰郷になった。
特務曹長はほっとした。
初年兵が入営する前、各中隊では親許に家庭通信を郵送し、所要の欄に記入したものを、
返送してもらうことになっていたが、このときの要注意兵は、本人の特長という欄に
「 命ぜられたことには反抗する性質がある 」
と 本人の筆跡らしい字で記入してあった。
それで、どんな青年だろうと、即日帰郷で帰りかけているのをとらえて
「 なにをしたんだ 」
と きいてみたら、家庭通信のそれとは、うってかわった素直さで、要注意兵にされたと思われるいきさつの、
あらましをはなした。
格別のことではなかった。
今岡の猫かぶりの経歴と似たようなことだった。
今岡と同じように組合運動の、お先棒みたいなことをしていたというだけのことだった。

猫を脱いだ今岡は、私の部屋に一晩とまって翌朝、北海道の親許に帰っていった。
帰りぎわに今岡は着ようとしたチョッキの裏をみていたが、着るのを一旦中止して、
ここに記念に字を書いてくれといって、チョッキの裏をひろげた。
裏地は白地だった。
私はなにか気負った文句を書いたようだった。
「 一剣報公 」 というのだったかも知れない。
北海道に帰りついた今岡からは時々手紙がきた。
手紙は二・二六事件までつづいた。
父親と同じ職場で働いているといっていた。

私が機関銃隊長代理をしていた昭和五年はロンドン条約が締結された年である。
条約の調印をめぐって統帥権干犯問題がおこり、
これがもとで総理大臣浜口雄幸は十一月十四日、
東京駅で佐郷屋留雄に狙撃された。
草刈海軍少佐が財部海軍大臣を、ロンドン会議からの帰朝の途中を要して
暗殺しようとしたが果たせず、それを自責して自刃したのは、
これに先だつ五月十一日のことだった。
ロンドン会議の最中、海軍中尉藤井斉は海軍部内に
「 憂国概言 」 を 配布して、
国家革新の見地からロンドン会議の重要性を訴えた。 ・・・リンク→ 
藤井斉 ・ 『 憂国概言 』 
加藤軍令部長の手記も、写しが陸海軍革新将校のあいだに順次手渡しされ、
私のところにも届いていた。
そのなかには、草刈少佐自刃の真意を財部海相に云う、
とか、若槻全権帰る、刈り出しの歓迎盛んなり、などといったことが記してあった。

昭和五年はまた世界恐慌が日本にも波及した年で、失業者は急増していた。
「 大学は出たけれども 」 就職はむずかしかった。
農村は豊作飢饉だった。
この年の東北地方も豊作だったが、冷害凶作のときと変りはなかった。
酒保で呑む一合の酒が、
在郷の親がつくる大根何本に相当するかを思うと兵隊は、うかうか酒保の酒も呑めなかった。
軍隊は閉鎖社会といわれていた。
五聯隊では青い針の棘が痛い、からたちの生垣を
有刺鉄線で補強して、社会から兵営を隔絶していた。
藤原義江の歌う歌のように、
兵営の生垣のからたちも、春には優しく白い花が咲き、
秋には金色のまろい玉の実がなった。
が、からたちの生垣から一歩出ると外には、失業の風が吹きすさんでいた。
善行証書をもらわぬ除隊兵にとっては、ことさら冷たい娑婆の風だった。

秋季演習にいく前だった。
兵営の裏側の稲田を一人たたずんで眺めている機関銃隊の二年兵がいた。
兵営裏側の水田は、私の郷里の九州などと比べれば問題にならないが、
この地方では反収の多い良田のほうで、稲はゆたかに実って刈入れを待っていた。
私は近づいて
「 いよいよ、除隊だね 」
と 声をかけた。
その二年兵は
「 このまま軍隊に残っておれたら楽ですが、
うちの人手のことをかんがえると、そうもいきません 」 と いった。
稲が実のれば除隊日が近づく。
兵隊は稲を除隊草といって実のりを待ち、除隊日を待った。
その除隊草の二度目の実のりを迎えて、除隊日が目の前にきているのに
「 このまま軍隊に残っておれたら---」
と、ふとつぶやく兵もいるわけだった。
私も代理ながら格は隊長だから 除隊前の訓示をしなければならなかった。
が 除隊の前日になってもしなかった。
かわりに善行証書授与式を行った。
が 午後になって訓示代りに、何か書いて除隊兵に持たして帰そうと思った。
将校室の机に向かって筆をとった。
「 諸子が一歩営門を出れば失業が待っている 」
といったようなことから書きだした。
そこで藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のことを思いだした。
「 憂国概言 」 は 私のところにも郵送されてきていて、都合よく将校室の机のなかにいれてあった。
私がこれから書こうとしていることは結局 「 憂国概言 」 と 同じようなものになると思った。
どうせ同じようなものになるのだったら、新たに文章をひねりだすより、
これをそっくり真似たほうが労力が省けて利口だと思った。
私は 「 憂国概言 」 をとりだすと、
営門を出ると失業が待っている、の 書き出しは、そのままにして、
ところどころ時期的に合わないところなどを直しんがら、引き写しをはじめた。
剽窃ひょうせつである。
原稿ができあがると自分でガリ版切りをした。
表題は 「 憂国概言 」 をもじって 「 憂国数言 」 とした。
ガリ版刷りは部下の下士官にやらせた。
夜の点呼ごろまでかかった。
紙は官給の和紙より良質の和紙を買ってこさせておいた。
和紙特有の香りのいい、少し黄色がかった紙だった。
除隊日の朝は、
現役最後の朝食をおえた除隊兵が身支度をして舎前の営庭に、各中隊一様に整列した。
そこで各中隊では同じように善行証書授与式を行っていた。
機関銃隊の除隊兵は善行証書授与はすんでいるから、
各班ごとに班長から、ガリ版刷りをもらうと、
各中隊の善行証書授与式を尻目に奉公袋を提げて、さっさと営門をでていった。

除隊兵が出ていって十二月にはいると兵舎はさらに閑散になる。
雪は十二月にはいる前から、降っては消えていた。
山はもう雪におおわれ、八甲田山はとうに真白になっていた。
が 里の根雪はまだだった。
将校集会所の炉辺でも、
ことしの根雪は、いつからだろうといってみることが欠かせない挨拶だった。
そのなかで翌年一月十日に入営する初年兵の教育の準備をする。
このときの初年兵が、あとで私と一緒に満洲事変に出征する兵になる。
初年兵教官がきまり、助教、助手が選ばれる。
内務班の編成がえもし、支給する兵器、寝具、被覆の整備もする。
そうこうして十日ぐらいたった夜のことだった。
突然三人の除隊兵が、班長一人に付添われて合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
西山、須藤、前川の三人で、三人とも青森市内のものだった。
が、それがそろいもそろって在営間は、いわくつきの一等兵たちだった。
もちろん善行証書などは無縁の三人だった。
西山は商業学校中退だから当時としては学歴のあったほうで、
能力からいっても上等兵になって当然だったが、
商業学校中退という経歴に何かいわくでもあったのか、
世にすねたような性質を軍隊にまで持ちこんだようで、
酒癖のわるさも手伝って内務での行儀もわるく、
上等兵候補者にはなったが、上等兵にはなれなかった。
須藤は、うちが魚屋で、魚屋のむすこらしい威勢のよさはあったが、
西山同様、これも酒癖がわるく、
日曜祭日の外出のたびに泥酔して、帰営時刻すれすれに営門を通過するのが常習で、
週番勤務者を、いつもはらはらさせた。
それだけでもよくなかったが、
時には帰営後一旦内務班におさまったかと思うと、裸になって営門にむかって飛びだし、
あわてて追っかけた戦友たちにつれもどされるという、おまけまでついた。
前川は、うちが蕎麦屋で、魚屋と蕎麦屋の家業のちがいのせいでもあるまいが、
須藤とはちがって朴直だったが、因果なことに夜尿症を持ったまま入営した。
機関銃隊の不寝番は前川をしくじらせないため、
時間をきめておこし便所いかせる特別の申送りをしなければならなかった。
こういう厄介を戦友にかける劣等感のせいもあってか、
前川は何をさせても、動作が鈍く冴えなかった。
三人が三人ともいわくつきというわけであったが、いわくつきなのは三人だけではなかった。
付添った班長の山田がまた、三人におとらぬ、いわくつきの下士官だった。
下士官は年度がわりごとに再志願をする制度になっていた。
が 一般ではそれは例年、書類を出すだけの形式にすぎなかった。
が 山田の場合だけは、それがすんなりいかず、
再役志願のたびに、許可するかしないかが問題になった。
これも酒がもとの不始末が原因だったが、結局は本人の将来を慮り、
将来をいましめて再役許可に落ち着くのだった。
「 人のいやがる五聯隊に、志願ででてくる馬鹿もいる 」
という歌は、聯隊番号を自分の聯隊のものに替えて、全国の兵隊にうたわれたものである。
志願ででてくる馬鹿、というのは、
徴兵適齢まえ、満一八才で志願して入営するもののことをいったものだが、
下士官志願で軍隊に残るものを、風刺揶揄したものだった。
その人のいやがる軍隊だが、山田のような当時の農村出の青年にとっては、
下士官になって軍隊に残ることは、単なる口減らしの目的からだけでなく、
誇りの持てる安定した就職口だった。
下士官をやめて、これよりましな職場がほかで滅多にみつかるものではなかった。
本人の将来を慮るとは、このことであり、
酒さえ呑まなければ---と 将来をいましめて再役許可の判をおすわけだったが、
その都度山田も、酒をつつしむことを涙までだして誓った。
が、ほとぼりがさめての気がゆるみから、性懲りなく同じ不始末を仕出かしてきた。
仏の顔も何度とやらだが、それが三度をすぎて、四度五度となり、ずるずる年功が重なって山田も、
このころでは機関銃隊でも古参株の軍曹になっていた。

仏の顔が三度すぎて、なお山田が下士官にとどまり得たのは、
酒さえ呑まなければ---と 思わせる取柄のようなものが山田にあったからでもあった。
それを証拠立てたのが満洲事変での設営だった。
戦地での設営は戦闘ちはちがった才覚がいるものだが、山田に設営を任せておくと、
疲れた兵隊を徒らに路上にさらすことなく、手際よく休息につかせることができた。
もめごとのまとめ役も山田の取柄のうちだった。
駐留中は、互に気がすさんでいるから、軍隊側と民間側とで、酒の上のまちがいから、
もめごとがおこりがちだった。
こういった場合、山田が居合わすと、双方をまるくおさめてくるわけだった。
たずねてきた除隊兵が除隊兵なら、下士官も下士官ということだったが、
この四人も、もともと悪い人間ではなかった。
軍隊が要領を本分とするものであるならば、
この四人はそろいもそろって要領がわるいということでもあった。

次頁 末松太平 ・ 赤化将校事件 2 に 続く


藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』

2017年12月07日 09時21分13秒 | 藤井齊

午後、外苑日本靑年會館に郷詩社の名にて會合あり。
海の一統、陸の一統 ・・大岸君の東北、その他は九州代表の 東 來れるのみ
井氏の一統、菅波、野田、橘孝三郎、古賀潔、高橋北雄、澁川善助、
初對面は 對馬、高橋と秋田聯隊の少尉 金子伸孝と
四人なり

こゝに組織を造り中央本部は代々木に置き、
西田氏之に當り、井氏を助け遊撃隊として井氏の一統はあたることゝせり
こゝに最も急進的なる革命家の一團三十餘名の團結はなれり
新宿に行きて酒を飲みつゝ 一同歓談し、その中に胸襟を叩き割って相結べり
野田又宅に黒澤、菱沼、古賀清と 東 と行つて泊まる

藤井齊
・・藤井齊、8月26日の日記
・・・検察秘録五 ・一五事件 より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『 郷詩会の會合 』 ・・昭和六年八月二十六日
リンク

・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』


末松太平 ・ 赤化将校事件 2

2017年12月07日 07時04分55秒 | 末松太平

 
末松太平 
前頁 末松太平 ・赤化将校事件 1 の 続き

たずねてきた四人の顔は謹聴で硬ばっていた。
たずねてきたわけは除隊兵のリーダー格西山が話した。
「 今日青森の警察のものがきて、
除隊のとき、なにか印刷物をもらわなかったかときくから、
なにももらわなかったというと
こんどは教官殿の教育ぶりは、どうだったときくのです。
別にほかの将校とちがった教育はしなかった と いったのですが、
どうしてこういうことになったのか、わけがわからぬから、
警察が帰ったあと須藤のところにいってきいてみると、
やはり警察がきて同じことをきいていることがわかりました。
それじゃ前川のところは、同だろうと
須藤と二人で前川をたずねてみると事情は同じでした。
それで三人で班長殿のところにききにきたら、
班長殿が一緒に教官殿のところにいってみようというので、
こうして、うかがったのです 」
西山は、いいおえると須藤と前川に 「 そうだったな 」 と 念をおした。
須藤と前川は 「 そうだ、そうだ 」 と 口々に相槌をうった。

除隊日の朝 渡したガリ版刷りが、どこからか青森警察の手に渡り、
除隊したことによって憲兵から警察に縄張りが移った除隊兵から早速、
ガリ版刷りのことと私の偏向教育のことを、ききだそうとしているわけだった。
が、ガリ版刷りが問題になっていることは、
この三人の除隊兵からきく少し前だが私は知っていた。
大岸中尉から知らせてきていたから。
ガリ版刷りのことについては、大岸中尉には、なにも知らせてなかった。
が 大岸中尉はガリ版刷りのことを知っていて、
これは軍中央部は不問に付することになっているから、
心配いらないと、いってきていた。
警察、憲兵、軍中央部と伝わったものが、大岸中尉の耳にかえってきたものだろう。
当時仙台の教導学校にいた大岸中尉にとっては 「 兵火 」 問題のほとぼりが、
やっとさめたといったところだった。
「 兵火 」 というのは大岸中尉が、全国の有志将校に月々配っていた印刷物の表題である。
何号かに憲兵の目にとまり問題になったが、
軍中央部は 「 憂国の至情に出でたるもの 」 ということで不問に付した。
それと同列に 「 憂国数言 」も、軍中央部で処理されたというわけである。
三人の除隊兵が、 「 憂国数言 」 のことを警察に、かくしだてするほどのことは、
もうなくなっていた。
が、それをここで明かしては折角心配して知らせてくれた除隊兵たちの腰を折るようでわるいと思った。
私は決まっている軍中央部の処置のことは明かさず、
「 知らせてくれて有難う。だが心配いらないよ。
ガリ版刷りのことも警察にかくさなくてもいいよ 」
とだけいって、除隊兵たちの心の緊張をほぐそうとした。
が 須藤は、
「 いや、おれたちは、絶対にしゃべらないよ。 前川、お前もそうだな 」
と 前川にいった。
前川も、
「 そうだ。 絶対にしゃべらないよ 」
と 気色ばんでいった。
西川といい 須藤といい 前川といい、在営時代には、ついぞみせたことのない頼もしさだった。
合同官舎のはしに、偕行社といっていた官舎相手の売店があった。
私は山田に、
「 どうだ、顔ぶれがそろってるじゃないか。 偕行社にいって一升とってこいよ 」
といつた。
が 山田は、
「 こん夜は、このまま帰ります 」
といって、しばらく世間ばなしをしたあと、
門限がありますからと、三人の除隊兵をうながして帰っていった。
除隊兵たちには、もう門限はなかったが、下士官の山田にはまだ門限があった。
翌朝私は出勤すると、その足で聯隊本部にいき、聯隊付中佐に、
「 中佐殿、私のことで何か問題が、おこってるでしょう 」
といった。
中佐は一瞬どぎまぎして、
「 実はそうなんだ。 君にどういうふうに切り出そうかと思っていたところだ 」
といった。
私が
「 憲兵分隊にいきましょうか 」
というと、中佐は、
「 そうしてくれるか 」
といった。
五聯隊には内地の部隊にしてはめずらしく官舎があった。
その官舎街のはずれ、青森市内に近いほうに憲兵分隊があった。
その途中に独身ものの合同官舎がある。
私は中佐と肩をならべて歩きながら官舎街まできて、
合同官舎のそばにさしかかると、
「 中佐殿、普通こういうときにはやることになっているでしょう 。
私の部屋を調べては如何ですか 」
といった。中佐は、
「 そうさせてくれるか 」
といって合同官舎の私の部屋に寄った。
中佐はひとわたり部屋をみまわしたあと、
「 随分本があるね。これ、みな読んでるのか 」
と 本棚の本ばかり、じろじろながめていた。
私は 「 これなど如何でしょう 」 と 本棚から、
大岸中尉が少尉のとき書いて、士官候補生の私にくれた
ガリ版刷りの小冊子 「兵農分離亡国論 」 を とって中佐に渡した。
証拠物件といったつもりだったが、いまから思えば渡さずもがなのものだった。
馬鹿げたことをしたものだった。
物のはずみということだった。
これ以来 「 兵農分離亡国論 」 は私にとって、幻の文献になってしまった。
中佐は証拠物件に「 兵農分離亡国論 」 一つを持って部屋を出るとき、
「 すまないね、憲兵に知られた以上、聯隊だけで内々にすますわけにいかないからね 」
といった。
軍中央部の処置が決まってしまっていることだけに、
中佐の人の好さが、余計気の毒だった。
が、このときも私は軍中央部の処置のことは打ち明けなかった。
青森の憲兵分隊長は、大尉のことも中尉のこともあった。
が、どういうわけか、このときは少佐が憲兵分隊長だった。
憲兵少佐は机の上に 「 憂国数言 」 を ひろげて、勿体ぶって、
「 これはあなたの書いたものですね 」
と、ことばだけは丁寧にいった。
軍中央部では、とうに結論がでていることを、
これから調べて報告書を書こうとしている田舎憲兵の勿体ぶった態度が、
かえって気の毒に思えたが、私は、
「 いや、これは海軍の藤井中尉がロンドン会議の最中に書いたもので、
別段もう、めずらしいものではありません 」
と 空とぼけたようにいった。
憲兵少佐は、それが癪にさわったのか、それとも私が逃げを打つとでも思ったのか、
むっとして、
「 あなたはそういうが、これではもうロンドン条約は締結したことになっていますよ 」
と、いって、さあ、どうだ、といわぬばかりに身構えた。
が、私は逆らわず、
「 時期的には合わないところは直したのです。私が書いたといってはうそになるが、
私が書いたといったほうが都合がよければ、それにして下さい 」
といった。
憲兵少佐は機嫌を直して、このあと二、三きいていたが、
これが取っておき、といったように、その箇所を指摘して、
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬、とありますね。
これはどういう意味ですか。共産党のいっていることと同じじゃないですか 」
と 語気をつよめていった。
私は、
「 毎日、ブルジョアの門の前にきて、ねそべっている犬をみれば、
よその犬でも、知らぬ人は、この犬は、このブルジョアのうちの番犬だと思うでしょう。
そういう意味です 」
と いっておいた。
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬 」 という文句は、
藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のなかにあったものである。
それをそのまま私は 「 憂国数言 」 のなかにも書いておいた。
憲兵少佐が特に、この文句にこだわったように、青森県特高も、この文句にこだわり、
私を赤化将校と規定し、ガリ版刷り事件を、赤化将校事件と銘打ったものだろう。
「 憂国概言 」 改め 「憂国数言 」 については憲兵少佐が、
紙質を 「 これは、いい紙ですね。隊の紙ではないようですね。
あなたが自分で買ったのですか 」 といったようなことまで、きくようになって一段落し、
そのあとで憲兵少佐は、大岸中尉の 「 兵火 」 のことをふれた。
憲兵少佐は苦り切って、
「 大岸中尉には、ひどい目にあわされましたよ。
大岸中尉が兵火を送ったという将校にきくと皆、そんなもの知るものか、
といってぷりぷりおこるのです。 あなたのところには、どうだったのですか 」
といった。
私は、もうすんだことだから、
「 送ってきたといっても、送ってこなかったといっても、どちらでもいいでしょう 」
といった。
大岸中尉の原隊が五聯隊だっただけに、
「 兵火 」 の送り先の調査は当然五聯隊に集中された。
大岸中尉は口から出まかせに五聯隊の将校の名前をあげた。
が、そうまでしなくてもよかったのに要心深く、私の名前だけは伏せておいた。
そのため五聯隊の将校が何人か調べられたが、私のところには憲兵は、ついにこなかった。
憲兵に調べられた腹いせに 「 大岸の奴、ひどい奴だ 」 と、
将校集会所で、ぶつぶついっている将校が何人かいた。
最後に憲兵少佐は、
「 大岸中尉の書いたものは兵火に限らず、用語が共産党と、ちっとも変りませんね 」
といった。
この道の権威らしい口振りだった。
この憲兵少佐は着任早々、将校集会所にきて、軍隊教育の参考に、ということで、
共産党、共産主義の退屈な講話をしたことがあった。
憲兵分隊を出ると、分隊長の前では殆ど口を利かなかった中佐が、
「 君は若いに似合わず腹がすわっているね。何か特別の修養でもしているのかね 」
と きいた。
別に腹がすわっているわけではなかった。
もうすんでしまっていることを、
そうとは知らずに調べる田舎憲兵に、横道をしてみせたまでのことだった。
「 憂国数言 」 事件は
大岸中尉がいったとおり、
これだけのことですんで、あとは何の沙汰もなかった。

十二月の末に機関銃隊長が歩兵学校から帰ってきた。
私はもとの住居住の身になった。
年が明けて一月十日に初年兵は入隊した。
この聯隊で任官して以来、毎年初年兵教育をしてきた私は、
この年からは、それをしなくてよくなった。
初年兵の教育は後輩がするようになった。
私は教育が機関銃と歩兵砲に分科するまでは暇だった。
私は歩兵砲だけの教育をすればよかった。
三月にはいると積もる雪より解ける雪が多くなる。
八甲田山を源にして、兵営を挟むようにして流れている筒井川と駒込川の
川っぷちから雪は消えはじめる。
兵隊を教育するかたわら、雪の消えかけた川っぷちにでてみると、
もうそこには蕗ふきや藪人参や、その他の名も知らぬ雑草の芽が萠えでている。
第一期教育は四月の末におわる。
これで初年兵も、いつ戦争につれていっても一人前の役に立つ兵になる。
春の遅い青森も四月の末から五月の初めにかけて桜の花が咲き、
兵営の土手につらなって根をはっている桜の古木が、
ちょうど花の見頃の五月五日には軍旗祭がある。
大岸中尉が仙台の教導学校から原隊の五聯隊に復帰したのは、軍旗際のあとだった。
三月事件のことは、聯隊にかえってきた大岸中尉から、はしせめてきいた。
三月事件というのは、
軍中央が宇垣大将を担いで政権をとろうとしたクーデター未遂事件のことである。
この事件には大岸中尉の同期生も関係していたから、
その同期生からの連絡で大岸中尉は知ったのだろう。
三月事件のことを知って、私には思いあたることがあった。
クーデターでもおこそうとしていた軍中央が、田舎聯隊の一中尉が仕出かした、
けちなガリ版刷り事件など、不問にして当然だということである。

五月にはいると同時に、二期の教育がはじまる。
二期以後の教育は部隊単位の訓練だから、
八甲田山の山裾に演習にいくことが多くなる。
山裾の松林では郭公が、しきりになき、
田甫では単作地帯だから、もう田打ちがはじまっている。
前年昭和五年はこの地方も豊作だったが、
この年昭和六年は東北、北海道は大凶作に見舞われるのである。
宮沢賢治が 「雨ニモマケズ 」 を 書いておいたのは昭和六年十一月である。
「 雨ニモマケズ 」 のなかの 「 サムサノナツハオロオロアルキ 」 の 「 寒さの夏 」 が、
この年の大凶作の原因だった。
大凶作になるとは知らず兵営のまわりの田甫で農家が田植えをはじめた
六月の半ばごろの、ある日曜日、
なんの前ぶれもなく高村という、このまえの除隊兵が合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
高村は大工だったが、その仕事のことで青森にきたから寄ったということだった。
私は、ついでにただ寄ったのだとしか思わなかったが、
そうとばかりはいえなかった。
ついではついでながら、あやまりがいいたくて、高村は寄ったのだった。
「 私は在営中、教官殿の話をきいて、そんな過激なことが、いまの世のなかにあるものかと、
小馬鹿にしていましたが、こんどそれが過激でなく本当のことだったことを思い知らされました。
実はそのことであやまりにきました。
除隊のとき、もらった印刷物を警察に渡したのも私です 」
と 高村はいって、一部始終を話した。
高村が除隊していった先は恐山のある下北半島の陸奥湾に面した田舎町である。
町では除隊兵が帰りつくとすぐ恒例の歓迎会を、町長以下町の名士が列席して催した。
その席で、各中隊の除隊兵が順々に立って、在営中の思い出ばなしを披露した。
高村は自分の番がくると、
おれの隊には変った教官がいて、除隊のときこんな刷り物をくれたといって、
除隊服のポケットに突っこんでおいた 「 憂国数言 」 を取り出すと読んできかせた。
田舎町では駐在巡査も名士のうちだから、歓迎会に列席していた。
高村の読んだ 「 憂国数言 」 に別段聞き耳たてるものはいなかったが、
駐在巡査だけは別だった。
高村に 「 憂国数言 」 をみせてくれといった。
高村は、こんな刷り物などと思って駐在巡査に渡して、そのままになった。
高村にしてみれば、除隊のときにもらうにはもらったが、
途中捨ててもいいぐらいの気持でポケットに突っこんでおいたものだったから
「 憂国数言 」 の行方など気にとめるはずはなかった。
これで 「 憂国数言 」 が青森県警察の手に渡り、憲兵隊にも通牒され、
西山ら除隊兵の身辺に警察の手がのびたわけだった。
が、そんなことは高村の知るところではなかった。
「 憂国数言 」 のことなど忘れてしまっていた。
が、それを思い出さずにおれないことが高村の身辺におこった。
高村の弟が町の若いもの数人を相手に喧嘩をし、そのあとしばらくたって死んだ。
高村は弟の死んだのは喧嘩のとき受けた傷がもとだと思った。
高村は喧嘩相手の若いものたちのことを駐在巡査に訴えた。
が駐在巡査はとりあわなかった。
高村は相手の若いものたちが町の権力者の身内のものだから
駐在巡査がとりあわないのだと思った。
いままで小馬鹿にしていた在営中の教官の話 「 憂国数言 」 のことが、
いまさらのように思い出されてきたという。
高村は、
「 私は町の権力者とたたかいます。教官殿の仲間にしてもらいます 」
といった。
高村のいう町の権力者というのは、
下北の田舎町には不似合な豪壮な邸宅に住み、
大湊海軍要港部の新任の司令官は必ず挨拶にくるのが慣例になっているほどの権勢で、
そのとき権力者は、どてら姿で内玄関から、新任司令官を応接したという。
新任司令官が帰るとき南部鉄瓶を持たせることも慣例で、
入営前の高村は、それを容れる桐の箱をつくらせられたことがあるという。
財力があるから権力がつき、権力がつくから、その上また財力がつく。
高村の話では、この権力者は、権力と財力をかさに、
伝説に似た悪徳を重ねてきているようだった。
帰りぎわに高村が、
その権力者を殺す、といったから、
言行が必ずしも一致するとは思わなかったし、
悪い奴は人が手を下さずとも、天が必ず手を下す、
と世間ありきたりの文句だけいっておいた。
が たかむらが下北に帰って間もなく、
問題の権力者が不慮の死を遂げて、
高村から、教官殿のいったとおりだった、と いってきた。

「 憂国数言 」 の件を 「 五聯隊赤化将校事件 」 と北村隆はいったが、
北村隆のいったとおり、青森県特高史に記録されているかどうかはわからない。
「 五聯隊赤化将校事件 」 といったのは、北村隆の皮肉だったのかも知れない。
が 何等かの形で青森県特高史に、跡はとどめたことであろう。
どこが火元だろうということは、別に気にしていなかった。
が 高村のはなしで、それが下北の田舎町だったらしいことはわかった。
火元が下北とすれば、それが陸奥湾を渡って、対岸の青森市に飛火したことになるが、
青森市だけでなく青森県下に散った機関銃隊除隊兵を求めて点々と、
飛火していったことだろう。
が 心配して駆けつけたのは青森市内の西山ら三人だけで、あとは何の音沙汰もなかった。
青森市は人口が多いだけに機関銃隊除隊兵も多く、伍長勤務上等兵を筆頭に、
良兵の保証の善行証書をもらったものも沢山いた。
が、そういう良兵どもからは何の沙汰もなく、
駆けつけたのは、そろいもそろって良兵の保証のない一等兵の三人だけだった。
私が満洲に出征するとき、
私をとらえて、別れを惜しんでくれたのがまた、この三人だけだった。
この年、満洲事変で内地から初めて第八師団で編制した混成旅団が満洲に渡った。
青森の聯隊からも一箇大隊出征した。
兵営を出発したのは十一月十四日の暗いうちだった。
兵営から乗車駅、青森駅までは四キロほどの道のりである。
行軍して青森市内にはいると沿道は人だかりで、
部隊のとおる道筋だけが、辛うじてあいていた。
歩兵砲隊は行軍部隊の最後尾だったから、軍隊のセオリどおり、
歩兵砲隊長の私は出征部隊の最後尾を歩いていた。
部隊がとおったあとは群集が、どっと道路に押しよせて、ややもすると私は、
もみくちゃにされそうだった。
その群集をかきわけて三人があらわれ、
私の手をかわるがわるとり、駅までついてきた。

日中戦争から大東亜戦争にかけて、
下士官の山田も西山ら三人も、高村も今岡も出征した。
山田は特務曹長になっていたらしいが北支で戦死したという。
西山ら三人のうち、
西山には終戦後、青森で一度会ったことがあるが、
あとの二人は戦死したようである。
今岡が北支の野戦病院で戦死したことは終戦後、生還した高村からきいた。
北支の戦線で軽傷した高村がたどりついた野戦病院の入口に、
血に染まった軍服がかかっていた。
なにげなく裏をかえして名前をみると今岡のものだった。
高村は軍医に、
「 今岡は同年兵だから会してくれ 」
といった。
軍医は
「 今岡は臨終が近い、いまのうちにいい遺すことを、きいてやってくれ 」
といった。
高村が病床に近づくと
「 高村か、大丈夫だよ 」
と 今岡は元気な声をだしていっていたが、
そのうち、
「 高村、暗くなったようだな。 日が暮れたらしいな 」
といったまま息をひきとったという。
外では、北支の太陽がまだ高かったという。

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