對馬勝雄
殘生
二・二六事件で
昭和十一年七月十二日に
死刑になった十五人のうちの一人、
對馬勝雄中尉の獄中作に次の漢詩がある。
同志胸中秘内憂 追胡萬里戰邊洲
還軍隊伍君己欠 我以殘生斬國讎
文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて
自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。
・
同志が胸中に内憂を秘めて、胡を万里に追って辺州に戦ったというのは、
昭和六年の満洲事変で、内地からはじめて一箇旅団が出征したとき 對馬中尉と、
その同志が国内の革新を心に秘めて、この部隊に加わっていたことをさすのである。
この旅団は、第八師団管下の各歩兵連隊で、
それぞれ集成の一箇大隊を編成した四箇大隊を基幹に、
それに相応する砲兵、騎兵、工兵を加えた混成旅団だった。
それに、弘前の歩兵三十一聯隊の對馬中尉 ( 当時少尉 ) と
秋田の歩兵十七聯隊の菅原軍曹、
私の属した青森の五聯隊から
對馬中尉の仙台幼年学校以来の同期生 遠藤幸道少尉と私が参加していた。
同志といえばこの四人をさしたに相違ないが、そのうち
菅原軍曹 ( 戦死して曹長に進級 ) と
遠藤少尉 ( 渡満後中尉に進級、戦死後大尉 ) が戦死したから、
凱旋した部隊から欠けていたのである。
出征したのは十一月中旬で、十月中旬に未遂に終わった十月事件の直後だった。
が、革新的な動きは、これで終熄したわけではなかった。
それは直後におこった事件が実証している。
十月事件で青年将校と行動を共にすることを誓った民間同志が、
井上日召を中心に一人一殺を、出征して間もなく始めたし、
その翌年の五月には五・一五事件がおこっている。
しかも對馬中尉にとっては、
自分の直接影響下にあった同じ三十一聯隊の野村三郎士官候補生が
五・一五事件に海軍士官と行動を共にしているからである。
たしかに内憂に心ひかれながら、それを胸奥に秘めての出征であり戦いであった。
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中略
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・・昭和六年にうつることにしよう。
對馬も遠藤も、もう古参少尉になって、それぞれの聯隊の聯隊旗手をしていた。
私は中尉になっていて、この夏、戸山学校の学生で東京に出ていた。
外では満洲事変がおこり、内では十月事件のクーデター計画が進められていた。
十月事件というのは計画が挫折したのが十月中旬だったからこの名があるが、
決行予定も同じ十月中旬だった。
これが若し実行されていたら、
スケールにおいては、
二・二六事件も遠く及ばぬ陸海、民間合同の大クーデターが実現するはずだった。
予め全軍の同志将校にもわたりがついていた点も二・二六事件の比ではなかった。
が、事実は、軍当局がこれを押えて挫折させなくても、実行は危ぶまれた。
橋本中佐ら参謀本部を中心とする幕僚と、部隊を直接指揮する青年将校との間に
革新についての根本観念に食い違いがあり、
それが決行日が近づくにつれ益々はげしくなり、対立までなっていたからである。
食い違いとは、つづめていえば、幕僚ファッシズムに対する批判反撥だった。
もちろんマルキシズムに基づかない革新がすべてファッシズムと分類規定されるならば、
この区別は無意味である。
憲兵が手を下したのが十月十七日だった。
ちょうどその日、青森から大岸中尉が、牛込若松町の私の下宿に、
和服姿で、軍刀をさげてやってきた。
大岸中尉は、仙台の教導学校から青森の原隊に復帰していたのである。
もともと私の戸山学校入校は、上京が目的の手段で、大岸中尉としめしあわせてのことだった。
これには独自の計画があったのだが、
三月事件から糸をひいた橋本中佐らのクーデター計画を知り、
それと合流変形したのである。
変形は整形しなければならなかった。
決行前に整形すべきか、決行後に第二革命といった形式で整形すべきか、
それがはっきりせぬままに
月日は とんちゃくなく、対立抗争の様相を内部にはらみながら過ぎて、
決行予定日の二十日が、いたずらに迫っていたのである。
・
青森の聯隊はこのころ、秋季演習で秋田県下に出払っていた。
大岸中尉は留守隊に残留して、
情況偵察かたがた、必要によっては決行参加を覚悟して上京したのである。
計画の挫折を知った大岸中尉は早速、
演習地の相沢三郎少佐らと、弘前の對馬中尉に上京中止の電報を打った。
私の下宿に一泊した大岸中尉は、帰りぎわに、
「 女房も上出来さ。 家を出ようとすると、何も知らないはずなのに、
尾頭づきの鯛と赤飯を供えたよ。」
と いった。
大岸中尉が帰ると一足ちがいで、
これも和服姿に軍刀の對馬少尉と菅原軍曹が下宿に現われた。
對馬少尉は仮病をつかって留守隊に残っていたが、抜け出して、
秋田の聯隊の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。
菅原軍曹は大岸中尉の仙台教導学校時代の教え子である。
将校とちがって、ごぼう剣を後生大事に風呂敷に包んでいた。
この二人が帰ったあと演習地の平田聯隊長から
「 アイザワ、カメイ、エンドウ、スグカエセ 」 の 電報が届いた。
変な電報だと思ったが、 「 ダレモキテイナイ 」 と 返電した。
が、その翌日、
電報の主の相沢少佐、亀井中尉、遠藤少尉の三人が
これも和服にトンビを羽織った姿で現れた。
みな大岸中尉の電報を待ちきれず飛び出してきたのである。
相沢三郎中佐は、
この年の八月の異動で五聯隊の大隊長に着任し
大岸中尉らに共鳴したのであった。
その大隊を相沢少佐はほうりだし、中隊長代理の亀井中尉は中隊をほうりだし、
聯隊旗手の遠藤少尉は軍旗をおいてけぼりにして、
そろって演習地からずらかったのだった。
演習に出るときから 相沢少佐は軍刀をマントにくるんで乗馬の尻にくっつけていたし、
亀井中尉は青竹の筒に軍刀をいれて、それを当番兵にかつがせていた。
軍服を着かえたのは、
山形県の酒田で中等学校の配属将校をしていた横地大尉の家であった。
横地大尉も もと五聯隊で中隊長をしていて、大岸中尉のシンパだった。
・
満洲に混成旅団が出征したのは、このときから一カ月あまりあとである。
相沢少佐と大岸中尉、亀井中尉は残留した。
が、翌年四月、師団主力の渡満と同時に亀井中尉だけ追及してきた。
あとに残った相沢少佐はしばらく青森にいたが、
五・一五事件のあと秋田の聯隊に転任になり、
ついで福山の聯隊に変っていった。
永田事件は福山の聯隊付中佐のときだった。
大岸中尉は大尉となり和歌山の聯隊に変った。
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菅原軍曹が戦死したのは昭和七年の高梁の茂る炎暑の夏だった。
四月に師団主力が渡満してからは、
第八師団は大遼河以西、山海関までの奉山沿線に駐屯していた。
秋田の聯隊は本部を大虎山に置いて、一部をその西方の北鎮に駐屯させていた。
北鎮は鉄道沿線から外れているので、
本部から毎日糧秣、郵便物、慰問袋を届ける定期便のトラックがでていた。
その定期便のトラックに軽機関銃一箇分隊を率いて菅原軍曹が警乗した日に、
途中の高梁畑に待伏せしていた数十倍の敵が包囲襲撃し、
菅原軍曹以下が全滅したのである。
綿州にいた對馬中尉は、その追悼式に駈けつけ、
菅原軍曹の遺骨の一部をもらいうけ、その一片を噛みくだいて嚥下した。
遠藤中尉が戦死したのは、
この年の暮れから翌年の正月にかけての山海関の戦闘でだった。
戦死した場所は
万里の長城、天下第一関の扁額のある東門に相対した山海関場内の西門直下だった。
敗敵を追及して西門に追ったとき、城門上から狙撃されたのである。
・
二・二六事件のあった年の正月、
對馬中尉は郷里の青森に帰っていたそうだが、
私は東京、千葉の間を旅行していたので会えなかった。
そのとき 對馬中尉は生家の仏壇に安置してあった袋を、
これは貰って行くといって、持ち帰ったという。
袋は満洲事変で戦死した自分の部下と菅原軍曹の分骨のはいったものだった。
師団が凱旋したのは昭和九年の四月初旬だったが、
それより一足先に對馬中尉は豊橋教導学校の区隊長に転任になって内地に帰っていた。
が、師団の凱旋をきいて、それを迎えるため、休暇をとって郷里に出向いた。
その時、肌身はなさず持っている袋を母堂に見とがめられ、
問われるままにわけをはなすと、
母堂から、そんなことをしていては些末になるから仏壇に納めるようにといわれて、
置いていったものだった。
昭和十一年の二月二十六日未明、
興津の西園寺公望襲撃が同志間の意見の齟齬から不調とみるや、
對馬中尉は竹嶋継夫中尉と一緒に上京して蹶起部隊に合流した。
そのとき恐らくは、正月に生家から持ち出した菅原軍曹らの遺骨のはいった袋を、
肌身につけていたはずである。・・リンク→ 池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
二・二六事件までの對馬中尉の身は、残生にすぎなかった。
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相沢中佐は對馬中尉に先立つこと九日、七月三日に死刑になった。
亀井中尉は日支事変中、少佐で大隊長だったが、北支山西戦線で戦死した。
大岸大尉は二・二六事件後 軍職を去り、
終戦後は郷里の山村に隠棲していたが、数年前に肺病で亡くなった。
十月事件のとき、一劒を抱いて相ついで脱藩上京した壮士はみな不思議にこの世を去り、
当時これを東京で迎えた私一人が生き残ったのである。
末松太平著 私の昭和史 から
磯部淺一
磯部淺一は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河村 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
のち獄中日記に彼が「菱海」と号したのは、この生れ故郷の寒村の名をとったものである。
農家といっても、農業で暮らしをたてていたわけではない。父の仁三郎は左官であった。
その頃の菱海村は貧しい農漁村で、家わ新築したり、改造する人はごく稀れであった。
そのために仁三郎は遠くの町に出稼ぎに行き、家には殆んど居なかった。
家には二反(二〇アール)あまりの水田と、
山林と畑合わせてこれも二反あまりの土地があり母親のハツが一人で耕し、
作った野菜を近くの塩田の労働者たちに売って、暮らしの足しにしていた。
磯部淺一はこうした家庭に育った。
彼は物心ついた時から、母一人子一人の生活が多く、
朝から晩までまっ黒になって働く母親を見ているだけに、子供の時から親思いで働き者であった。
浅一は学校から帰ると、さっさと野良着に着かえて、畑仕事を手伝ったり、
野菜を母と二人で浜まで売りにいったりした。
磯部淺一の竹馬の友であり今も磯部の生家の近くで農業を営んでいる下瀬諒は、
少年の頃の磯部を追想してこう語っている。
「私は磯部より一級下であったが、家が近くだったので兄弟のようにして育った。
学校はごく近く(五百メートル位)だったので昼食はいつも食べに家に帰る。
二人は朝昼は一緒に歩いた。
磯部は頑丈な身体つきの元気者で、激しい気性の男であったが、
幼少な者や老人にはいたって親切であった。
しかし、大人の無理や非道に対しては、強く反撥した。
ふだんはニコニコしていて、まひとに明朗闊達であったから、先生にも友達にも好かれていた」
済美小学校では一年からずっと主席で通し、明治四十五年三月尋常小学校を卒業する時は、
当時としては例のない山口県知事の特別表彰を受けている。
それは学業が優れているばかりでなく親思いで、よく母親の仕事わ手伝い自分も野菜を作って売り、
一家の生計を助けた類いまれな孝行少年であるという理由からであった。
磯部の噂さを耳にした厚狭郡厚狭町(現山陽町)の、山口県属の松岡某(名不詳)が、
是非磯部少年を自分の力で世に出したい。 (松岡喜二郎)
自分に任せてくれまいかと申し出てきた。
松岡の夫人が菱海村の西光寺の娘であったので、
西光寺の住職が返事を渋る仁三郎夫妻を説得したと謂われる。
松岡家に引きとられた磯部は、厚狭町の大殿高等小学校に入り、ここでも抜群の成績を示した。
松岡家は代々長州藩士で、老父は古武士的な気風の人であったが磯部を一目で惚れこんだ。
頑健な身体と優秀な成績、少年ながらも気魄も闘志も充分である。
しかも、平素は明朗闊達、生まれながらの将器である。
ぜひ陸軍に入れと、熱心にすすめた。
その頃、山口県下の退役将校の親睦団体に「同裳会」という組織があった。
明治の末頃、山形有朋の主唱と毛利家からの援助で作られ、
この会によって、山口市伊勢小路に「山口県武学生養成所」が建てられた。
これは防長二州から軍人志望(主として陸軍)の優秀な少年を、軍関係の学校に入れ、
大いに後進を増強しようというものであった。
磯部もこの武学生養成所の指導を受け、
高等小学校二年の春、受験して合格、大正八年九月一日広島陸軍地方幼年学校に入校した。
磯部は幼年学校へ入った後も休暇で家に帰ると、すぐ野良着に着かえ終日まっ黒になって働いた。
「まだその頃は封建色が強く、田舎は因習にしばられていた。
貧乏人のくせに将校生徒になりおってという羨望と嫉妬のまざりあった目で磯部は世間から見られていた。
磯部はそんな世間の冷たい目を意識していたのだろう。
広島から休暇で帰る時は、人の通らない山道を歩いて家にこっそり帰る。帰るとすぐ、
つぎはぎだらけの野良着に着かえ、母を助けて畑仕事に精を出していた」・・・下瀬諒談
社会の一番下積みの階層に育ち、たえず自分わ殺し続けてきた磯部も、
広い世間に出てみると無能な奴やくだらない人間が、富や地位を得て威張っている。
磯部はそんな世の中の不条理に激しい怒りを感じ、やがて、権力者への反撥となる。
陸軍士官学校の予科に入ったばかりの頃、磯部はある日、
日曜下宿で山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ、「 この軍閥野郎 」 と叫んだいたという。
「 男にしかできないのは、戦争と革命だ、おれは革命のほうをやる 」 と、高言していたという。
ここには少年の日の磯部の面影は全くない。
まるで山口版の二宮金次郎のようであった。
篤学で孝心のあつい勤勉な少年が、どうしてこんなに急に変貌したのか。
少年時代に抑圧されていた批判精神が、
社会の矛盾や不条理に触発されて激しい反逆精神となり、一気に燃え上がったものとみえる。
しかし、磯部の陸士在学中の反逆精神は、まだ心情的で深みをもったものではなかった。
磯部がはっきりと国家改造に志を定めたのは、朝鮮に赴任してからであり、
更に思想的に展開したのは、昭和七年六月上京して西田税の家に出入りし、西田の影響を受けてからである。
磯部は大正十五年七月、陸軍士官学校を卒業して、原隊の大邱歩兵第八十連隊に帰り十月に任官した。
任官直後大田分遺隊付を命ぜられて、大田に赴任する。
磯部はここに四年あまり居て、昭和五年大邱の本体に帰っている。
磯部が国家改造に志を定めるのは、この大田の四年あまりの時代であったと思う。
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少尉任官記念 歩兵第八十太田分屯隊営門
大正十五年十一月
料亭 『 荒川 』 別荘
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「・・・大田の料亭 「 あらかわ 」 で酒をくみ交わしながら磯部はこんなことを言った。
財閥、特権階級、それに政党は国家に害毒を流し、国民を苦しめている。
われわれ若い者が起ち上がって、こいつらの息の根をとめねばならん。
日本では昔から下級武士が革命をやっている。
源頼朝は武家政治を開いたが、下積みの田舎武士だった。
建武中興の楠正成もそうだ。
明治維新も薩摩や長州の下級武士の力で成った。
昭和の維新は、俺たち下級将校の力でやらねばならん。
そして、天皇陛下の大御心による仁慈の政治をとり返さねばならん。
この国民の苦境を救うものは、もはや陛下の大御心だけだ
と、磯部は涙を流しながら語った。
その言葉は今でも耳の底に残っている 」
と、下瀬は述懐する。
・
ある夕方、大体本部から、むっつりした顔で戻ってきた磯部は
「 おい、呑みに行こう 」 というので、「 あら川 」 に行って、二人で痛飲した。
あくる朝、大隊副官が将校官舎にやってきて、
「 磯部、大隊長の所へ謝りに行け 」 と言う。
磯部は
「 自分は謝る理由がないから謝りません。処罰するなら勝手にして下さい 」
と、きっぱり断った。
わけを聞くとこうである。
大隊長の矢野少佐が磯部の部下の特務曹長に、あらぬ濡れ衣をきせて退役するように迫った。
特務曹長は口惜しさを磯部にもらした。
激怒した磯部は大隊長を面詰し、その不当なことを事例をあげて痛論した。
大隊長もやり返す、あげくの果て、磯部は大隊長を一つ二つ殴って帰ったというのである。
あとで特務曹長の冤罪を知った矢野大隊長は
「 磯部、よく殴ってくれた 」 と、手を握って礼を言ったという。
磯部という男はこんな男であった。
荒武者だったが、清廉潔白という字義通りの男で、何よりも不義、不正の許せない性格であった。
国家、国民のためならいつでも生命を捧げる気持ちでいた。
二・二六事件にはいろいろな批判のあることは知っているが、
磯部が起った気持ちは、天下万民のために起つ、止むに止まれぬ赤誠心であったと、私は信ずる。
・・・・
磯部淺一の登場
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から