あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」

2017年12月21日 04時05分56秒 | 靑年將校運動

中央部幕僚の彈壓強まる
青山三丁目のアジトを借りなければならないほど、中央部幕僚の北、西田に対する排撃、
すなわち、私らに対する圧迫は強化されつつあった。
  村中孝次 
そのころのことを村中は
『 粛軍に関する意見書 』 に、次のように書いている。
昭和八年十一月六日から十六日までに
九段上の富士見荘の会合に始つて偕行社の会合に終りました
軍事予算問題を機会とした
首脳部推進と少壮青年将校の大同団結促進との為めの幕僚、
青年将校の聯合同期生会の状況の如きは、
彼の一群が如何に私共に対して
悪意の排斥、中傷、圧迫を企図して居るかを露骨に示した一例であります。
即ち六日の富士見荘の会合に出席したものは、
影佐(偵昭)中佐、満井(佐吉)中佐、馬奈木(啓信)少佐、今田(新太郎)少佐、
池田(純久)少佐、常岡(滝雄)大尉、権藤(正威)大尉、辻(政信)大尉、塚本(誠)大尉、
林秀澄大尉、目黒(正臣)大尉、柴有時大尉及海軍の末沢少佐等でありまして、
反西田、西田攻撃によって青年将校を圧迫し
其の空気の上に乗って大同団結を企図したるものでありますから、
山口(一太郎)大尉、柴大尉の意見により会合の性質が段々変化して
真の大同団結をなす如く努力されて来ましたが、
十六日偕行社の会合によつて遂に其目的が達せられなかったのであります。
当日は牟田口(廉也)中佐、清水(規矩)中佐、土橋(勇逸)中佐、下山(琢磨)中佐、
池田少佐、田中(清)少佐、片倉(衷)少佐、今田少佐、田副中佐、
満井中佐、常岡大尉、山口大尉、柴大尉、目黒大尉、
大蔵中尉、磯部主計等によって会合されたるものでありますが、
陸軍省の方針なりとして徹底的に弾圧されたのであります 」 

三十数年前の私の記憶の中に、
いまでも、鮮明に思い出されることは、
偕行社での幕僚と青年将校の懇談会の模様である。
陸軍省、参謀本部のお歴々がいならぶ大テーブルのまえに、
私等若いものがちょうど被告のようにすわっていた。

まず、牟田口中佐が発言し、
つづいて清水中佐が発言した。
その内容は
陸軍部内の大同団結を強調し、
青年将校の行動を抑制しようとするものであった。
のっけから
われわれの言い分を聞こうとするの態度ではなかった。
すべてが高圧的であった。
「 これでは話が違う、オイ、大蔵帰ろう 」
と、柴大尉が憤然として起ち上がった。
「・・・・」
私と磯部は黙って柴大尉に続いて起ち上がった。
でこの会合はあっさり終わった。
席についてから起ち上がるまで、
二十分か三十分ぐらいの短時間であった。
このことがあってから、皇道派青年将校
( 私らは皇道派という言葉をきらって、自ら国体原理派といった )
に対する弾圧は、
清軍派と統制派とが共同戦線を張ったかたちで、
いよいよ激しくなってきた。
私たちは弾圧が激しくなればなるほど、
不屈の闘魂を燃やしながら、
団結の強化を目指して、国家革新の一途を驀進した。

大蔵栄一著 
二・二六事件への挽歌
高まりゆく鳴動 から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大谷啓二郎著

昭和憲兵史
によると
・・・
十一月六日には、
中央部側からは、
影佐禎昭中佐、満井佐吉中佐、馬奈木少佐、今田新太郎少佐、池田純久少佐、
青年将校側からは、
常岡大尉、権藤大尉、辻政信大尉、塚本誠大尉、林秀澄大尉、
目黒茂臣大尉、柴有時大尉、それに海軍の末沢少佐も参加し、懇談は、進められたが、
この会合には、始めからまずい空気がながれていた。
というのは、統制派幕僚は、
「 軍内における横断的団結は、軍を破壊する危険があるからやめなくてはならない。
 これがため、国家革新は軍の責任において、その組織を動員して実行するから、
青年将校は改造運動から手を引いて、軍中央部を信頼してもらいたい 」
と、彼らの運動解消を提案したので、問題がうるさくなった。
その後、山口大尉や柴大尉の肝入りで、真の大同団結のために、
どうしていけばよいかという方向に、討議は進められたが、
両者、平行線を辿って結論が出なかった。
とうとう、最後の日、十六日には、
中央から、牟田口廉也、清水規矩、土橋勇逸、影佐、下村、満井、田副の各中佐、
池田、田中、今田、片倉の各少佐、
青年将校側からは、
常岡、山口、柴、目黒、大蔵、村中、磯部の各大尉らが参加し、
特に、中央部からは、錚々たる中堅幕僚の大部分が席を連ねて会議は進められたが、
席上、村中が
・・・それでは、軍中央部は、われわれの運動を弾圧するつもりか
と、問題をえぐり出してしまった。
影佐中佐はこれに答えて、

・・・そうだ。 
今後、軍の方針は、いま話した方針で進む。

これに從わなければ、断乎として取締るであろう。
もし、どうしても政治運動を望むならば、軍籍から身を引いてやるがよい。
と、いいきった。

この懇談会のあと、
西田税は、池田純久少佐を訪ねて、
この幕僚の態度をなじり、なぜ、われわれが荒木をかつぐのが悪いのかとくってかかり、
激論の末、退去したが、帰り際に、
われわれは決起する前に、先ず幕僚征伐を行わねばなるまい
と捨台詞をのこしていったが、
いうところの幕僚征伐とは、
まさしく彼、及び彼につづく青年将校の、心魂に徹した怒りの叫びであっただろう。
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統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」