あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」

2017年12月12日 19時57分48秒 | 磯部淺一

「 男子にしかできないのは戦争と革命だ 」
と 佐々木二郎の言葉に
磯部淺一は大きくうなずき
「 ウーン、俺は革命のほうをやる 」
と 答えた。
これは陸軍士官学校本科のころ、ある土曜日の夜、
山田洋、佐々木二郎、磯部淺一、三人で語り合った時のやりとりである。
  士官候補生 ・ 磯部浅一
磯部淺一 は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河原 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
尋常小学校を卒えると、山口市の松岡家に移る
義父・・養父・松岡喜二郎
大正八年四月三十日、単身広島へ、五月一日 広島陸軍幼年学校に入校する
《 広島市大手町の旅館に泊まった。「 二郎あれを見よ 」 と 父にいわれて隣を見ると、
同じくらいの子供が一人、ポツンと坐っていた。
「 あの子は一人で来ているらしいぞ 」  と、父は感心した眼色でその子を見つめていた。
・・・佐々木二郎  》

陸士の予科に入ったばかりの頃、ある日の日曜日
下宿で、山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ
「この軍閥野郎 」
と 叫んでいたという。

磯部は幼年学校から陸軍士官学校を卒業するまでの、
七年三ヶ月の将校生徒としての歳月の間に、
生涯の方針を定めた。
それは下級将校として、維新を己の手でやろうと決意したのだ。

大正十三年三月、
陸軍士官学校予科を卒業した磯部浅一は、
四月から六ヶ月間、朝鮮大邱にある陸軍歩兵第八十聯隊に入隊した。
十月、
陸軍士官学校本科に入校
大正十五年七月、
第三十八期として卒業し、再び原隊に帰る。
十月二十五日、
歩兵少尉に任官と同時に、大田分屯隊に派遣された。

昭和六年九月十八日、満州事変が勃発し、
朝鮮の師団は極度に緊張してきて、
満州へは大邱の聯隊から一部の部隊が出勤することになったが、
大田分屯隊は南鮮警備のため残留することになった。
それを聞いた磯部は、
同期の石丸作次と、片岡太郎 ( 四十一期 ) と共に分屯隊の将校を代表して、
大邱の聯隊本部に出かけ、聯隊長の川辺三郎大佐に意見具申して、
出勤を要請したが容れられなかった。
この頃から磯部は青年将校の革新運動の同志になって行く。
誰が磯部に誘いの手を差し伸べたか不明だが、
大蔵栄一の述懐によると 西田税の許にいた澁川善助ではなかろうかと言っている。
 澁川善助
大蔵の回想によれば
「 歩兵第八十聯隊には快男児がいる。  君側の奸を斬るべし、と高言して憚らない痛快な青年将校がいる 」
と 西田税の口から聞いたことがあるという。
西田の旨を含んだ澁川が訪ねて行ったかも知れない。
一期下だから恐らく顔は知っていた筈だと大蔵は言っている。
磯部が革新運動の陣営に加わるのは、翌七年 の夏からである。
七月の初め頃の日曜に、
青山の明治神宮参道わきにあった菅波三郎のアパートに姿を現し、
同志の将校たちが寝そべって国事を談じているのを非難する場面が大蔵の著書の中にでてくる。
これは大田時代から磯部が革新運動の列に加わっていたことを意味する。
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夢見る昭和維新の星々 
そして、しだいに在京の同志たちの間に重きをなして行く。
「 磯部の激しさはズシンと腹の底に響くような重さがあった。
圧迫されるような強さがあった。
同じ急進派で激しさをもっていた栗原とは、大きな違いがあった。
栗原のは軽い、アーまたか、と 同志に軽くあしらわれた 」
と 、大蔵は語っている。
この磯部の上京する前、昭和六年から七年春にかけて、
同志の将校たちがしきりに磯部を訪ねて合同宿舎に泊まりこんで、
密談しているのを、河内稔は目撃している。
「 それはお そらく私や朝山小二郎であろう。
共に羅南において私が歩兵七十三聯隊、朝山は野砲兵第二十五聯隊であった。
東京への行き帰りにはよく磯部の合同官舎に泊まったものである 」
と、佐々木二郎は語っている。

昭和六年秋から翌七年にかけて、磯部の血が騒ぐ事件がつづけさまに起こった。
未遂に終わったクーデターの十月事件、
つづいて血盟団事件、上京直前には五・一五事件が起きている。
「 朝鮮の田舎にひっこんではおれない。東京へ出なければ俺の出番はない 」
と おもったのであろう。
主計将校になって中央に転出しようと、経理部への転科願を出したのはこの七年の春のことであった。
「 磯部の主計将校ぐらい不似合なものはなかった 」
と、大蔵栄一は笑ったが、本人はしごく大真面目であった。
聯隊長はすぐ許可を与えてくれた。
「 転科願を出す時は、私は大隊副官をしていた。
ある晩、私の家にやって来た磯部はその出願動機についてこんな話をした。
『 革命をやるためには沢山の軍資金が必要である。
聯隊の金庫にはいつも莫大な現金が入っている。
この金庫の責任者は聯隊長だが、鍵を持って自由に出し入れできるのは主計将校である。
だから俺はこの金庫の金を自由に動かせる主計将校に出願したのです 』
という。なるほど良い所に目をつけたなと笑って別れた。
わしには何でも自由に話してくれたから、或は本音であったかも知れない。
しかし、磯部も革命のために金庫の金を自由に使う前に、
陸軍から追放されて折角の遠大な計画も駄目になってしまった。
十一月二十日事件でわかるように磯部は特別にマークされていたのではあるまいか 」
と、これは山崎喜代臣の回想である。
昭和七年六月、陸軍経理学校に入校した磯部は、
翌八年三月、卒業して原隊の大邱第八十聯隊に帰って来た。
しかし、激しい革新運動の渦中に身を置いてきた磯部には、一刻も早く上京したい。
そこで
「 糖尿病治療のため、東京に転勤したい 」
旨の願いを出し 近衛歩兵第四聯隊に転勤が決まったのが、八年五月の終わりであった。
いよいよ上京することになった。
これから俺の舞台は東京だと、磯部の心ははずんだ。
さっそく入院中の河内稔に決別の手紙を書いた。
「 半島の生活九年、
 闘争と恋の北大邱は げにロマンスの都なりし、
今一切の我執をすて
一念耿々こうこう の志にもえて東天に向ふ。
心甚だ快なり。
君の御健闘を祈る。
特に病体御大切に。

河内南樹殿    菱海書 」
昭和八年六t月三日の消印がある。
躍るような筆勢である。
「 壮士一度去って亦還らず 」
といった勃々とした雄心
と 一抹の悲壮感
が こもごも入り混じっていた。

「 被告人磯部淺一は豫て國家社會の問題に關
昭和七年五 ・一五事件に依り大なる刺戟を受け、
同年六、七月より菅波三郎と相知り、同年八月同人が満洲に轉任する迄數回同人に面會し、
更に西田税、北一輝等に接し 同人等の所説を聴くに及び深く之に共鳴し、
爾來 熱烈なる國家改造論者として被告人村中孝次、大蔵大尉、安藤大尉、佐藤大尉、栗原中尉等と共に
該運動に從事し、同志聯絡の中心的地位に在りたるもの 」
これは 昭和九年十一月二十日、反乱陰謀の疑義で檢擧された
磯部淺一らに對する第一師團軍法會議の檢の一部であるが、
上京後の磯部の行動を端的に表現している。
 菅波三郎
「 上京後の磯部は、私のアパートに二、三回は来た、
その都度軍内部の動向、革新運動一般の情勢について説明した。
既に改造法案は熟読しており、北、西田両氏とは会っていた。
急進派の中心的存在であったことはたしかだ 」
と、菅波三郎は語っている。
上京して後の磯部淺一は常に急進論の先頭に立っていたことは、
大蔵栄一の著 『 二・二六事件への挽歌 』 に何度か出てくる。

大蔵も
「 磯部は気迫で押しまくってくる。
こちらも気合負けしたら一挙に暴走する。必至にやり合ったものだ 」
と 述懐している。
磯部と栗原安秀中尉とが急進論の中心であったが、なぜ彼らが蹶起を急いだのか。
それは わが国の内外に問題が山積みしているのに、国内も軍部内も派閥抗争を繰り返し、
進んで国難を打開しようという真人物が、国政の中枢に座ることができない状態であったからである。

「 革命とは暗殺を以て始まり 暗殺を以て終わる人事異動なり 」
これは私宛の手紙の中にあった文句である・・・佐々木二郎

磯部が西田税の家に初めて行ったのは、上京してから間もなくの頃であったと思われる。
昭和七年の五月、西田は五・一五事件のそば杖をくって、
重傷をうけ 六月の末退院し、
七月の中旬から一ヶ月あまり湯河原へ転地療養に行っているから、
退院してから療養に出発するまでの間に行っていることはほぼ間違いない。
「 北さんの家には月に一、二度、西田さんの家には毎晩のように顔を出した 」
という大蔵の述懐によれば、
「 磯部もよく顔を出していた。
さすが豪傑の磯部も大先輩の西田さんには頭が上がらず、
素直に兄事していたのが印象に残っている 」
と 語っている。
磯部は西田から北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を 与えられ、熟読玩味したであろう。
後に免官になって閑のできた時には、改造法案を清書しているし、
獄中遺書に、
「 余の所信とは日本改造法案大綱を一点一角も修正する事なく 完全に之を実現することだ。
法案は絶対の真理だ、余は何人と雖も之を評し、之を毀去することを許さぬ。
・・・・日本の道は日本改造法案以外にはない、絶対にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の歿落ぼつらくの時だ 」
と、絶叫し、
「 日本改造法案は一点一角一字一句悉く真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の真表現だ 」
とも言い切っている。

弓張月の円くして、
射る矢は天にとゞくなり。 散れ、散れ、
散るならパット散れ、パットね
・・磯部が作った歌

須山幸雄 著
二・二六事件 青春群像  から


對馬勝雄中尉の結婚話

2017年12月12日 13時35分14秒 | 對馬勝雄


對馬勝雄 

豊橋の駅の別れの名残りと
 吾子をのぞけば眠り居りけり
« 註 »
對馬千代子夫人記
二月二十六日、私が静岡日赤病院に入院のため、なにも知らずに送られて、
豊橋を後にしました。これが最後の別れとなりました。

きたか坊やよ悧口な坊や
たつた一つで母さんの
つかひにはるばる汽車の旅
お々  お手柄 お手柄
父より
昭和十一年七月八日
好 彦さんへ
« 註 »
對馬千代子夫人記
私が一月十六日出産後、病床にありましたため、最後の面会に行かれず、
祖母に連れられて好彦が上京致しました折に・・・・・・

 
・・・あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
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對馬勝雄中尉の結婚話
對馬中尉が豊橋教導学校の区隊長をしているころ、
中隊長が對馬に対してしつこく結婚を勧めたことがあった。
對馬はその話を全く受けつけなかった。
相手の女性は中隊長のかつての大隊長の令嬢であった。
かつての大隊長からはヤイヤイいわれるし、對馬は全く受けつけないし、
仲にはいった中隊長ハ困りぬいたあげく、
「 對馬中尉、オレの立場モ考えてくれ。
  君が松永少佐 ( というのがその上官 ) のお嬢さんと結婚の意志のないことはわかったけれども、
見合いだけはしてくれ。
見合いしてから断わればそれでいいから、形式だけの見合いだけは頼むぞ、
それでないとオレが引っ込みがつかないんだ 」
いずれは国家革新のために挺身しようと情熱をもやしつづけていた對馬の心の奥底を、
うかがい知ることのできなかった中隊長の提案が、形式的な見合いであった。
この提案に対して、對馬はことわる理由がなかった。
ついに承知せざるを得なかった。
對馬はひそかに思った。
形式的見合いというものがあっていいものだろうか、
それは先方の令嬢の心を傷つけるものだ、
見合いをするからには結婚を前提としたものでなければならぬ、
いいかげんな気持ちは對馬の性質が許さなかった。
對馬は決心した。
見合いするまえ、すでに結婚の決意を固めた對馬にとっては、
その見合いは別な意味において形式的であった
私は、對馬の結婚にまつわるそんな話を、大岸大尉からかつてきいたことがあった。

大東亜戦争が終わって、世の中もだいぶ落ち着きをみせはじめた昭和二十七、八年ごろであった。
清水市在住の七夕虎雄が発起人となって、
静岡市の護国神社で二 ・二六事件の慰霊祭を催すことになった。
その慰霊祭に招かれて、東京から参加したときのことであった。
私は、はからずも對馬中尉の岳父松永少佐に会った。
「 あのとき私は、對馬から全くだまされましてね・・・・」
と、老少佐は 『 二 ・二六事件 』 前夜のことを話し出した。
「 ちょうどあのとき、むすめは初孫を出産しましてね、豊橋の病院に入院中でした。
  初孫でしかも男の子でしたから、私ら夫婦はことのほか喜んでいました。
突然對馬が私のうちにやってきて、
『 今度弘前の方に転任することになりました。
  これから急に赴任しなければなりません。

  あとはくれぐれもよろしくお願いいたします 』 
と、あいさつにきましたのが、二月二十五日でした。
そこで私は、心配するな、退院したらなるべく早く弘前に送りとどけるから・・・・と、
彼を喜んで豊橋駅まで送っていったんです。
ところが翌日はあの騒ぎです。
對馬が参加していることがわかったときはびっくりしました。
物の見事にだまされましたが、だまされたことに怒りを感ずるどころか、
私はむしろ清々しい気分になりましてね、全くおかしな話でした 」


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から