あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

統制派と靑年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」

2017年12月23日 20時50分22秒 | 靑年將校運動

靑年将校は
統制派をもって中央部に蟠踞ばんきょする不純幕僚とし、
極力これと争っていたが、
この場合彼らはまた、
十月事件関係幕僚およびその流れをくむいわゆる清軍派とも、
鋭く対立して、たがいにざんぶ中傷をこととしていたが、
これは、すべて、靑年将校を弾圧するものとしての対抗意識であった。

しかし統制派は、
すでに見たように陸軍を正しい姿にかえし、軍の総意をもって革新を行おうとし、
これがため部内統制の確立と越軌下剋上の悪風を一掃しようとした。
そして靑年将校の革新運動は、軍紀上厳にこれを封殺すべきこと、
しかしこれにかわって軍首脳部が国家革新に熱意をもち、
軍全体の組織を通じてその革新にあたるべきだとした。

そこで、
靑年将校運動を弾圧する前に、まず彼らを説得する必要を認め、
昭和八年十一月頃、数字にわたって、九段偕行社などで、
中央部幕僚との懇談会がもたれたのであった。 リンク→ 
「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
だが、この懇談会は成功しなかった。
両者がその主張をくりかえすだけで、
ついに一致点を見出すことができなかったのである。
すなわち、統制派は、
「 軍内の横断的結成による革新運動は、軍を破壊する危険があり、
靑年将校が、荒木、真崎をかついで革新の頭首とすることは、
軍内に派閥をつくるもので、このような青年将校運動は廃絶して、
軍みずからが、その組織を通じ合法的に確信へと進むべきである 」
靑年将校は、
「 軍の組織をもって革新に向おうとするのは理論的であって
実際的ではない。
われわれ靑年将校は挺身して革新の烽火をあげるから、
軍中央部は、その屍を越えて革新に進んでもらいたい 」
といい、
両者平行線をたどって、けっきょくものわかれにおわったが、
しかしこの対立は、
この二つのものが根本的な違いをもっているように思われる。

靑年将校は、すべて人に中心をおいているから、
志を同じくする人材を求め、
この人によって、維新大業の輔翼にあたらせようとするが、
統制派幕僚は、人よりも組織を重んずる。
それは、彼らが軍の組織を動かし、
軍の一糸乱れない統制のもとで、国内改革に進もうとするからだ

こんな話がある。
さきの幕僚と青年将校の懇談会が、ものわかれになったあと、
靑年将校を裏で指導していた西田税が、
池田少佐宅に現われ、次の問答をかわしている。
  
西田税                 池田純久
軍の中央部が靑年将校の維新運動を抑圧するのはけしからん。
彼らが荒木大将のもとに集まり、荒木を信頼しているが、なぜ悪い。
年将校が国体信念に透徹した荒木将軍をかつぐのは、やむをえないことだ。
それはどうしてだ。
高級将校のなかで、国家革新に熱意のある将軍は、荒木大将と真崎大将だけだからだ。
そうでもあるまい。
われわれは、けっして荒木大将個人を忌避しているのではない。
軍の組織で行くべきだとしているのだ。
軍は個人によって、しかも横断的に動かされてはならないのだ。
それはわかる。
しかし、軍が革新に熱意があるなら、
革新の理解のある荒木大将を、かついだ方が有利ではないか。
荒木大将が陸軍大臣ならば、荒木、荒木といってかついでも弊害は少ない。
もし、荒木大将が陸軍大臣をひいて、そのあとに新たな大臣を迎えたとき、
君たちが、いぜん、荒木をかついでは、軍を私兵化する危険性がある。
私はこれを怖れるのだ。
それでは革新はできない。
革新に理解の乏しい人が陸軍大臣になったのでは、万事休すである。
われわれは、軍内の特定の将軍をかついで、革新をやる考えは適当でないと思う。
軍の組織を動かし、一糸乱れぬ統制のもとで、革新に進みたいのだ。
革新が組織で動くと思うなら認識の不足である。
ヒットラーは伍長ではなかったか。
彼は下士官の身をもって、ドイツを動かしたのだ。
それは見解の相違だ。
・・・池田純久の 『 統制派と皇道派 』

ここでは、革新における、
人と組織の問題は 「見解の相違 」 でおわっている。
しかし、私は、これこそ両者の方法論における対立を示すものだと思う。
それは、
統制派が陸軍省という機構の中にいたのに対して、
靑年将校が荒木、真崎のもとに個人的に集まっていたという事情からきただけではない。
両者の改造理念の根本にふれるものなのである。
つまり、
靑年将校は精神主義を信条とするから、具体的な政策というものは、二のつぎにする。
政治でも、経済でも、これを運営する人のいかんにある、との見解に立つている。
人によって世の中はよくもなり、悪くもなるとい考えているから、組織よりも人なのである。
ところが、
統制派は人よりは組織なり機構なりが改められなければ、社会はよくならない、という見解に立っている。
ことに、その名のごとく統制を旗じるしにしている。
だから、軍全体の組織統制のもとに、合法的に革新を行おうとする。
これがために、政治や経済についての政策が検討され、建設計画といったものが準備されることになる。
だが、
靑年将校は、信頼に値する人によって、革新の行われることを期待するから、
そこには、具体的な政策がうまれることがむずかしい。
靑年将校は統制派を目して、清軍派に対すると同様、「 幕僚ファッショ 」 と攻撃し、
統制派の、この軍の組織をもってする国家改造の志向と画策を、中央部万能主義、権力による独裁と、けなしていたが、
それはたしかに、第一線の隊付将校と中央部幕僚との業務的な関係を反映したものである。

すでにみたように、国防国策担当者としての統制派幕僚の国家改造は、
必然に 「 国防体勢の完成 」 から割理だされる。
それは現実的であり実際的であるが、
それが、精神主義を第一とする観念的抽象的な理想に生きる若い将校にとっては、
すべて、幕僚の述策としてうつり、幕僚は機関説だということになった。
幕僚の改造計画といっても、部外有識者の強力を得なくてはならない。
そこに幕僚と新官僚の結びつきがあったし、いわゆる進歩的分子とのつながりも生まれた。
靑年将校は、ここをとらえて、統制派を 「 赤 」 だとけなし、国体をわきまえない逆賊だとも誹謗したのである。
しかし、それは青年将校だけのものではなかった。
十月事件に関係した幕僚から統制派幕僚に至るまで、部外ことに政財界からは、「 赤い幕僚 」 との疑惑をうけていた。


身を挺した一擧は必ずや天皇様に御嘉納いただける

2017年12月23日 11時51分48秒 | 大蔵榮一

そのころのいわゆる青年将校は
『 革新 』 ということに関心を持つ者と、無関心の者とに大別することができた。
関心を持つ者がまた、
非合法もあえて辞せずとする者と、あくまで合法的にと主張する者とに分かれていた。
当局が一部将校だとか急進派将校といって、目のかたきにし、
弾圧の対象としていたのがこの非合法組であったことはいうまでもない。
非合法組の中にも単独直接行動は是認するけれども、
部隊を使用することは絶対反対する態度を持するものもいた。
状況やむを得ぬ場合は部隊使用もあえて辞さないグループが、
『 二 ・二六事件 』 を決行した連中であった。
その場合、統帥権を干犯することは百も承知の上であった。
だが、この行為はいわゆる西欧流のレボリューションではない。・・・政治革命
権力強奪的私心が微塵もあってはいけないことを、お互いの心に誓い合っていたのだ。
国家の悪に対して身を挺することによって、
その悪を排除し、日本本来の真姿顕現に向かって直往すれば、
その真心は必ず天地神明にはもちろん、
天皇さまにもご嘉納していただけることを念願しての一挙であったはずだ。
ご一新への念願成就の暁は、闕下にひれ伏して罪を乞い、
国法を破った責任において、死はもとより覚悟のまえであった。
破壊のあとの建設案など考えないのは当然である。
部隊の大小にかかわらず、斬奸の兵を率いて独断専行するとき、
それが明らかに統帥権を踏みにじった行為であることは、間違いのない事実ではないか。
・・・
松本清張は 「 統帥権とは天皇の 『 意志 』 である 」 と定義しているが、
これには私も全く同感である。
だが、ここで考えなければならぬことは、天皇の 『 意志 』 の内容についてである。
敗戦前の日本においては、
高御座たかみくらにつかせられた天皇の 『 意志 』 は
単なる喜怒哀楽に左右される自然人としての 『 意志 』 ではなく、
皇祖皇宗の遺訓、すなわち天地を貫く大本たいほんに則った 『 意志 』 でなければならぬということだ。
だが、天皇は万能の神ではない。
人間本能にもとづいて喜怒もあれば哀楽もある、自然人としての誤りをおかすことも、
当然あってしかるべきものであろう。
その過誤を最小限にとどめようと日夜聖賢の道を学び、
帝王の学を見につけるため努力を積み重ねられる天皇のために、
欠くことのできないのは輔弼の責めに任ずる側近の人達である。
明治の時代は若き天子を擁して西郷隆盛の実直があり、山岡鉄太郎の剛毅があって、
あるときは面をおかして直諫の苦言を奉り、過ちの改められない限り一歩も退かなかった、
という見事な諍臣ぶりに、われわれ明治に生を受けたものは、深い感銘を覚えたのであった。
昭和の時代は、果してどうだったであろうか。
大正から昭和にかけて、天皇の側近にはいつの間にか古今を大観する達人、
天地を貫く剛直の士が、影をひそめてしまった。
しも万民の苦しみをよそに、
側近はひたすら天皇を大内山の奥深くあがめ奉ることにのみ専念これつとめていた。
『 諫臣なき国は亡ぶ 』 と昔よりいわれたように、
忠諫の士が遠ざけられて、佞臣ねいしんの跋扈するところ、
大内山には暗雲がただよい、ために天日はおのずから仰ぎ難くなる。
『 二 ・二六事件 』 は、私によれば、
この暗雲を払い天日を仰がんとする、忠諫の一挙であったのだ。

 

大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌  か