あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

對馬勝雄中尉の結婚話

2017年12月12日 13時35分14秒 | 對馬勝雄


對馬勝雄 

豊橋の駅の別れの名残りと
 吾子をのぞけば眠り居りけり
« 註 »
對馬千代子夫人記
二月二十六日、私が静岡日赤病院に入院のため、なにも知らずに送られて、
豊橋を後にしました。これが最後の別れとなりました。

きたか坊やよ悧口な坊や
たつた一つで母さんの
つかひにはるばる汽車の旅
お々  お手柄 お手柄
父より
昭和十一年七月八日
好 彦さんへ
« 註 »
對馬千代子夫人記
私が一月十六日出産後、病床にありましたため、最後の面会に行かれず、
祖母に連れられて好彦が上京致しました折に・・・・・・

 
・・・あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
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對馬勝雄中尉の結婚話
對馬中尉が豊橋教導学校の区隊長をしているころ、
中隊長が對馬に対してしつこく結婚を勧めたことがあった。
對馬はその話を全く受けつけなかった。
相手の女性は中隊長のかつての大隊長の令嬢であった。
かつての大隊長からはヤイヤイいわれるし、對馬は全く受けつけないし、
仲にはいった中隊長ハ困りぬいたあげく、
「 對馬中尉、オレの立場モ考えてくれ。
  君が松永少佐 ( というのがその上官 ) のお嬢さんと結婚の意志のないことはわかったけれども、
見合いだけはしてくれ。
見合いしてから断わればそれでいいから、形式だけの見合いだけは頼むぞ、
それでないとオレが引っ込みがつかないんだ 」
いずれは国家革新のために挺身しようと情熱をもやしつづけていた對馬の心の奥底を、
うかがい知ることのできなかった中隊長の提案が、形式的な見合いであった。
この提案に対して、對馬はことわる理由がなかった。
ついに承知せざるを得なかった。
對馬はひそかに思った。
形式的見合いというものがあっていいものだろうか、
それは先方の令嬢の心を傷つけるものだ、
見合いをするからには結婚を前提としたものでなければならぬ、
いいかげんな気持ちは對馬の性質が許さなかった。
對馬は決心した。
見合いするまえ、すでに結婚の決意を固めた對馬にとっては、
その見合いは別な意味において形式的であった
私は、對馬の結婚にまつわるそんな話を、大岸大尉からかつてきいたことがあった。

大東亜戦争が終わって、世の中もだいぶ落ち着きをみせはじめた昭和二十七、八年ごろであった。
清水市在住の七夕虎雄が発起人となって、
静岡市の護国神社で二 ・二六事件の慰霊祭を催すことになった。
その慰霊祭に招かれて、東京から参加したときのことであった。
私は、はからずも對馬中尉の岳父松永少佐に会った。
「 あのとき私は、對馬から全くだまされましてね・・・・」
と、老少佐は 『 二 ・二六事件 』 前夜のことを話し出した。
「 ちょうどあのとき、むすめは初孫を出産しましてね、豊橋の病院に入院中でした。
  初孫でしかも男の子でしたから、私ら夫婦はことのほか喜んでいました。
突然對馬が私のうちにやってきて、
『 今度弘前の方に転任することになりました。
  これから急に赴任しなければなりません。

  あとはくれぐれもよろしくお願いいたします 』 
と、あいさつにきましたのが、二月二十五日でした。
そこで私は、心配するな、退院したらなるべく早く弘前に送りとどけるから・・・・と、
彼を喜んで豊橋駅まで送っていったんです。
ところが翌日はあの騒ぎです。
對馬が参加していることがわかったときはびっくりしました。
物の見事にだまされましたが、だまされたことに怒りを感ずるどころか、
私はむしろ清々しい気分になりましてね、全くおかしな話でした 」


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から


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