あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

ヤルヤル中尉 1

2017年10月23日 13時50分16秒 | 栗原安秀


栗原安秀

栗原は
いつも ガタガタしている

とは、同志間の定評であった。
一、
昭和六年十月事件には部隊側は幕僚派が憲兵隊に軟禁せられてからも、
なお突出しようと栗原らは準備に余念なかったが、西田税 、菅波三郎らによって抑止せられた。
二、
昭和八年十一月の埼玉挺身隊事件に際して栗原は在郷軍人、学生らを煽動し
事件の拡大をはかったが、同志たちの説得によって中止せしめらる。
三、
昭和九年栗原は戦車第二聯隊に勤務中、
戦車十数台を引率、行軍途中大森附近宿営予定に際し、実包その他を準備し、
西園寺、牧野らの元老重臣を襲撃しようと準備していたのを大蔵栄一らが知り、
阻止説得にあたったがきかず、西田税 の説得でようやく中止した。
四、
昭和十年六月、満洲国皇帝来朝の機会を狙い 事をあげようと秘かに檄を飛ばしたが、
同志の賛成を得られず中止。
・・・
このように彼はいつも 「 やる、やる 」 といい、
かえって同志達の嘲笑を買っていたが、
昭和十年八月の相澤事件の突出にはつよいショックをうけた。
これまでの不実行を恥じたのであろう。
この事件のあと、栗原は磯部にしみじみと、こう語った。
「 磯部さん、 あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云って、
如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、
進んで呉れないか と云ふ事が残念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相沢さんの事だって青年将校がやるべきです。
それなのに 何ですか青年将校は、私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
来年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出来ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけても許しません。
私は必ずやるから 磯部さん、 その積りで盡力して下さい 」 ・・・第二 「 栗原中尉の決意 」 

・・・これが、栗原の本心だったのだ
泣いて磯部に心中を語ったという。

栗原は同志達が相澤公判の動向に一喜一憂しているのを尻目に、
着々と歩一、さらに歩三の若い者たちに働きかけ、武力発動に専念していたのだった。
この場合、部隊のあれだけの動員力は、一に栗原の負うところであり、
たとえ歩三の安藤が立たなくとも、歩一、歩三を動員してみせる自信があったのだろう。
したがって、まれにみる闘志を発揮し みずから首相官邸の襲撃と占拠を志していた。
首相官邸の占拠こそ維新の旗印を掲げる絶好の目標であったからだ。
かくて 蹶起後は首相官邸の占拠に執着し維新発祥の地としていたと思われる。
解散説得にも絶対に応ぜず、維新の聖地として首相官邸に頑張っていた。

首相官邸には絶えず激励の訪問者も多く、
また その門前に来て万歳を叫ぶ市民もあった。
形勢逆転して包囲軍の攻撃が予想されても、なお彼は最後の成功を信じていた。
ここには彼等の成功を信じさせる情報も入っていた。
例えば
二十八日 決死抗戦に移ったが その日の夕刻には徳川義親侯が田中国重大将と共に、
青年将校を同道して宮中に参内するという旨が斎藤瀏少将より伝えられた
( これは 栗原が西田税 の意見により断っている )
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・・・挿入・・・
  徳川義親侯

二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、
父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
・・・ 斎藤史 ・・・昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 ・・・
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亦 、その夜には、
「 宮中では皇族会議において維新断行との案が通過した、我々は昭和維新の礎となるのだ 」
「 今日 皇族会議があった。軍令部長宮を中心に海軍首脳も協議し、海軍の意向をとりまとめている 」
・・といった情報が流されていたのだ。
ともかくも 栗原は維新革命家を自任しているだけに闘志は旺盛だったが、
二十九日朝に至って、屈服によって下士官兵を助けて後日の再起に備えようとして、
部下と訣別した。

事が敗れては、もはや彼は自らの死を覚悟していたが、その大量死刑には強いショックをうけた。
死の直前 書いたという
「 維新革命家としての所感 」    ・・・リンク→あを雲の涯 (九) 栗原安秀 
と 題する一文は、まさに鬼気迫るものがある。 
・・・大谷敬二郎著  二・二六事件 から


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