事件直後に発足した 「 中隊長を偲ぶ会 」
毎年二月になると、埼玉県の大宮の近くで一つの戦友会が開かれる。
今は亡き中隊長の大きな写真を上座に飾り、和気あいあいと語り合う。
お互いの消息を確かめ合い、何時間かを昔の若者に返る。
最後には中隊歌を歌い、記念撮影をして、散開となる。
どこでもあるような戦友会・・・・。
しかし彼らには特異な体験があった。
二・二六事件のときに歩兵第三聯隊第六中隊に属し、
安藤輝三大尉とともに山王ホテルに立てこもった中間たちなのだ。
安藤輝三
写真の中の安藤中隊長は、事件当時の国会議事堂の外套の立ち姿だった。
戦友会の名は 「 安王会 」。
「 安 」 は 安藤大尉の頭文字、「 王 」 は 山王ホテルからとったという。
二・二六事件の起きた翌年の昭和十二年に発足した。
当時の 「 安王会 」 の幹事の一人だった板垣秀男氏の回想は、
あの立像の安藤大尉の写真の原版から始まる。
板垣氏の兄が読売新聞社に安藤大尉の写真を貰いに行った。
その原版を北満の戦地にいた板垣氏に送った。
歩三の第六中隊は事件後の五月から北満のチチハルに派遣されていた。
板垣氏はしせめ九年兵たち ( 昭和九年に徴兵検査され昭和十年一月に入隊した事件当時の二年兵 ) は、
この写真を見て懐かしい思いにかられた。
昭和十二年二月、九年兵は現役の期間が終わるので、北満から歩三の原隊に帰還した。
この輸送途中に、「 安王会 」 を作ろうという話が出た。
板垣氏が中心となって、東京出身者と埼玉県出身者から二名づつ幹事となり会則を作った。
歩三部隊への入隊者は、浦和、川口など埼玉県の一部と、足立、葛飾などの北東京から召集された。
そこで 東京、埼玉からの幹事の選出となった。
「 安王会 」 会則は七項目あり、「 安王会 」 の名称、昭和九年兵の集り、会費は年一円、
春秋に二回集り親睦を図ろうなどというものだった。
当時の会員四十名の記名もある。
第一回は二月ころ? 浅草の 「 いろは 」 で開催された。
しかし後は続かなかった。
臨時招集が相次ぎ、集れる者がいなくなったのである。
発起人の一人の板垣秀男氏も十月には北支へと派遣されて行った。
それから三十年も過ぎた戦後の第一回の会合が、
昭和四十四年、羽生市の金子春雄私宅で、十二名で行われた。
どういう経過で会を持てたのかは、多くの者が他界していて不明である。
第二回は大宮、第三回は上尾市内、このころは九年兵だけの集りだった。
熊谷のロイヤルホテルでの第四回目には板垣氏も出席した。
集ったのは二十九名、このときに板垣氏が提案した。
「 戦後も大分たったから会の名称 「 安王会 」 を 変えないか?」
たちまち全員の反対にあったという。
その後、十年兵 ( 昭和十一年の入隊 ) や 八年兵 ( 同九年入隊 )、下士官も加わり、
仏心会 ( 二・二六事件の遺族の会 ) 会長の河野司氏も何回か訪れた。
「 二十二士の墓 のある麻布賢崇寺での法要にも必ず出席した。
賢崇寺で会を開催したこともある。
けれども近年、会員の老齢化が進み、集まれる者が少なくなった。
この辺で解散しようということになった。
平成八年四月十二日、安藤大尉の未亡人房子さんが亡くなった。
房子夫人は会を蔭から支えていた。
房子夫人の追悼もかね、六月四日の伊香保温泉旅館での会合を最後に、
「 安王会 」 は 解散することになった。
集れた者十二名、一番若い人も八十歳を越えていた。
「 あれ ( 二・二六事件 ) から六十年も経ちましたからねえ 」
板垣氏は感慨深げに話した。
・
安藤中隊長の部下としての誇り
こんなにも長い間 慕われた中隊長安藤輝三は、
下士官兵には一体どんな人物だったのだろう。
「 安王会 」 の人々に聞いてみた。
全員が 「 温情 」 と答えた。
「 進級の遅れを慰められた 」
「 親が病気のときに臨時外出を許された 」
「 職業や家族のことを聞いてくれた 」
「 訓練の後のねぎらいが優しかった 」
「 なにか惹きつける人間味があった 」
・・・。
そして 最後に必ず、
「 立派な中隊長の部下であつたことを誇りに思う 」
と つけ加えた。
それでは安藤中隊長の革新思想についてどんなふうに感じていたのだろう。
彼らは安藤大尉が話のときに画いた絵の話をした。
黒板に太陽が上で、真ん中に黒雲、その下に草の芽を画く。
太陽が天皇で、その光を遮っている黒雲が、元老、重臣、軍閥などである。
芽が国民である。
この黒雲を取り除かねば、芽が育たない。
国民は苦しむばかりだ。
中隊長は国家の現状をこの絵で説明した。
相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を惨殺した後には、その動機、背景なども話した。
皆、拳を握りしめながら、熱心に聞き入ったという。
第二小隊長だった 堂込喜市元曹長 ( 事件後、佐々木と改名 ) は 安藤大尉の影響を強く受けていた。
事件の五、六年前の安藤中尉だったころから二人は歩三の営内暮らしだったので、
安藤は下士官室に来ては、軍縮問題、日ソ関係、農村問題などを話した。
堂込曹長は昭和維新は必要であると思ったという。
「 私は安藤中隊長に傾倒していましたから
革新思想はもとより、安藤大尉のいうことはすべて間違いないと思っていましたよ 」
彼は生前そう話した。
下士官や二年兵はともかく、常識では初年兵たちが、革新思想を理解していたとは信じがたい。
二・二六事件参加の六中隊の人員が次のようであるからだ、
将校一、下士官十一、二年兵四六、初年兵一〇一、計一五九名。
この中で初年兵が一番多い。
第一師団の満洲派遣が決まっての徴集だからだ。
彼らは一月十日に入隊したばかりで、決行日までたった一カ月半しか経っていない。
彼らに革新思想を植え付けるには、あまりにも時間が短すぎる。
二・二六事件の最後は決起軍に状況が不利になり、賊兵と呼ばれた。
この中で最後まで安藤中隊長と山王ホテルで抵抗しつづけたその団結心は、
どこから来たものなのだろう。
この疑問に 「 安王会 」の人々は 「 そうでしょうねえ 」 と 微笑むばかりだ。
理解できないのも無理はない・・・。
そう思わせる笑顔なのだ。
そこで もう一度、六中隊の下士官兵たちから見た二・二六事件り要点を探ってみることにした。
・
事件下の下士官兵の行動
蹶起前夜、点呼終了後、階段下の広場で中隊長の訓話が行なわれた。
安藤大尉は黒板に富士山を画き、次に白黒で塗りつぶした。
「 今の国民は一部の上層部の暗雲によって閉されようとしている。
今こそこの暗雲を払いのけ、国体を護らなければならない 」
大谷武雄二等兵は、このとき何かが起こるのではないかと予感した。
この語九時ごろ、下士官たちは中隊長室に集められた。
蹶起の時刻、襲撃場所、人名、配置、合言葉など詳しい説明があった。
奥山粂治軍曹 ( 後、中島と改名 ) は、
「 いよいよ来るときが来たのだ、命令を拒むことなど不可能なのだ 」
と 判断した。
兵隊たちはというと、前夜兵営内がざわついて不審には思ったが、何も知らなかった。
二十六日未明、非常呼集で起され、舎前にて実包装填、
『 靖国神社参拝 』 の 号令で 三時半ごろ営門を出たが、まだ疑っていなかった。
大谷二等兵が蹶起を知ったのは、首相官邸脇にさしかかったとき、
「 他の聯隊の仲間がここを襲撃し、六中隊も鈴木侍従長を襲う 」
と 奥山分隊長から聞いたときだった。
一時間後、鈴木邸到着、その門前で安藤中隊長から初めて鈴木貫太郎侍従長襲撃の命令を受けた。
「 敵は目前にあり 」
岩崎英作二等兵は、出動の目的を知りおどろいたという。
鈴木邸に進入、奥山軍曹が押入に隠れていた鈴木侍従長を見つけた。
後方から永田曹長が一発、堂込曹長が二発ピストルで射った。
弾は左肩と股に当り侍従長は倒れた。
後から安藤大尉が入って来て止めを差そうとしたのだが、鈴木たか夫人が懇願した。
「 それだけは私に任せてください 」
安藤大尉は軍刀を収め、捧げ銃つつを命じ 引上げた。
鈴木侍従長は一命をとりとめた。
「 あのピストルは安藤大尉から渡されていました。
上を向く くせがあって、下に向けたらそれてしまった。
私は心臓を狙ったのですがねえ 」
堂込曹長の話である。
六時ごろ、安藤隊は三宅坂一帯の警備に入り、交通を遮断した。
首都の機能はマヒ状態になった。
その夜は雪の中で露営しての警備が続いた。
二十七日、
安藤隊は正午過ぎ 三宅坂の警備を解き、新国会議事堂前に移動した。
ここは工事中で入れなかった。
路上で休憩した。
聯隊から暖かい飯が届き 喜んだ。
午後七時ごろ、
料亭 「 幸楽 」 に 移った。
玄関前の広場には群集が 「 昭和維新万歳 」 と 叫んでいた。
二日ぶりの休養で ほっとしたのも束の間、
二十八日の朝には、形勢は逆転していた。
いつの間にか蹶起部隊は反乱部隊となり、「 幸楽 」 の外には鎮圧軍が戦車を先頭にとり巻いていた。
よく見ると歩三の残留部隊だ。
昨日歓呼の声で出迎えた群集もこわごわと遠巻きに事態を見ている。
午前六時半に 「 原隊に復帰せよ 」 という奉勅命令が出ているが、正式には下達されていない。
もちろん下士官兵は知らない。
午前六時ごろ、五中隊の小林美文中尉が来て
「 まもなく総攻撃が開始される 」 と いった。
午後一時ころには、同志の村中孝次大尉が 「 もはや自決以外には道はない 」 といって来た。
安藤大尉は 「 俺は最後までやる 」 と 突っぱねた。
安藤大尉は蒼白となり、戦闘準備を宣し、皆 白襷掛けになった。
・
中隊長とともに死ぬ覚悟
三時ごろ、山岸伍長が郵便葉書を各人三枚ずつ配った。
「 家族に遺書を書け 」 という。
« 愈々時期切迫し、生か死かの境に立つ。勝てば官軍 敗ければ賊軍だ。
これより戦いに行く。勿論必死三昧の気だ。 では ごきげんよう。元気で戦います »・・市瀬操一・二等兵
「 必死三昧 」 は 日蓮主義だった安藤がつけた六中隊の標語だった。
« 我々は今 昭和革新の一員として鈴木大将を討ち、反対者は徹底的に之を討つべく決心の勢いほ以て
奮闘します。皆様によろしく »・・大谷武雄・初年兵
大谷氏の留守宅は母親一人だったが、この葉書を受取って動転してしまったという。
« 生還を期せず (血書) »・・相沢伍長
« 自分達第六中隊は幸楽を出発する前に貴家の父母兄弟に一通差上げます。
自分達の仲間歩三、歩一、近歩三 各東京部隊は二十六日朝五時をきして政治家を夜襲しました。
自分達満洲に出発する前、国賊を皆殺して満洲で戦う覚悟であります。
自分達中隊長初め国の皆様に国賊と言われるか又勤皇と言われるか、
今議会(?) に 来て居るのであります。
自分達を射つ為に佐倉の五十七聯隊が出発して居り 今三聯隊に来て居るそうであります。
自分達は中隊長殿初め国賊と言われたら皆脈を切って死ぬ覚悟であります。
自分達が真でから母国の皆様によくわかると思います。
自分達もこの東京で死ぬ覚悟でありますから、もし生きて居ましたら 御書面差上げます。
父母兄弟御身大切に。さようなら »・・木下岩吉・初年兵
血書の相沢伍長は下士官だから覚悟していようが、木下二等兵の手紙は切ない。
国賊の汚名を着た場合は、安藤中隊長ともども、脈を切って果てようというのだから。
ここでは初年兵も覚悟をきめ、正義に死ぬと思っている。
・
その深夜、安藤隊は山王ホテルに密かに移動した。
山王ホテルに移ると窓に銃座を作り交戦の準備に入った。
二十九日、
朝から投降を勧めるスピーカーが鳴り出した。
飛行機がビラを撒いた。
「 下士官兵ニ告グ---今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。
抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 」
兵士たちは初めて奉勅命令が下ったことを知った。
鎮圧軍の戦車にも投降を勧める幕が貼られている。
蹶起隊の兵士たちの間で同様が起きていた。
遂に蹶起将校たちも 「 兵を帰そう 」 と いい出した。
しかし
「 今ここで兵を帰せば兵達が賊兵の汚名を着ることになる 」
と 安藤大尉はあくまで引くことに同意しなかった。
参加将校たちは、高官の説得に応じ、下士官兵たちを次々と原隊に帰えし出した。
正午過ぎには山王ホテルにの安藤隊のみとなった。
四面楚歌、こんな状態の中の下士官兵と安藤中隊との信頼関係は、依然として変わりない。
村中孝次はこう記している。
「 二月二十八日、歩三将校間に於て、安藤大尉を刺殺すべしと決議し、
この報 安藤中隊に伝わるや、部下下士官兵は安藤大尉を擁して、他の者を一切近づけしめず、
為に余も安藤に接近し得ざりしこと前述の如くなりき 」・・村中孝次遺書
この情報は二十八日夜、歩三の森田大尉が、秩父宮の令旨を伝えるときに持ってきたものだ。
下士官兵たちにどの程度伝わったかはわからない。
しかし安藤隊は中隊長に説得に来る者を兵士たちは追返した。
同志将校でさえ、安藤中隊には容易に近づけなかった。
・
戦後も変らない安藤大尉への思慕
しかしながら 決起軍の敗色の状況はいかんともしがたい、
安藤中隊だけではどうにもならない。
「 最早これまで 」
安藤大尉は全員を集め 復隊への訓示を始めた。
そこへ歩三の大隊長伊集院謙信少佐が来た。
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
「 はい、一緒にに死にます 」
安藤は無造作にピストルを取り出した。
とっさに当番兵だった前島清上等兵が、腕にぶら下った。
同志の磯部浅一も後ろから抱き止めた。
「 俺を死なせてくれ。俺は負けは厭だ。裁かれるのは厭だ。自らで裁くのだ 」
安藤は怒号した。
磯部はこのときの情景を、獄中書簡 『 行動記 』 に 書いている。
「 大隊長も亦、『 俺も自決する 安藤のような立派な奴を死なせねばならんのが残念だ 』
と いいつつ号泣する。
『 おい、前島上等兵、お前が かつて中隊長を叱ってくれた事がある。
中隊長殿、いつ蹶起するのです、此の侭でおいたら農村はいつ迄たっても救えませんと言ったねぇ、
農村は救えないなあ、俺が死んだら お前達は堂込曹長と永田曹長を助けて、
どうしても維新をやりとげよ、二人の曹長は立派な人間だ、いいか、いいか 』
『 曹長、君達は僕に最後迄ついて来て呉れた。有難う、後を頼む 』
と 言えば、群がる兵士等が 『 中隊長殿、死なないで下さい 』 と 泣き叫ぶ 」
磯部は将兵一体の団結に感動して、
あれ丈 部下から慕われるという事は、安藤の偉大な人格が然らしめたのだ、
と、記している。
・
午後二時ごろ、安藤大尉はホテル前の広場に整列を命じた。
安藤中隊長は最後の訓示を与えた。
彼は部下に礼をいい、このような結果になったことを謝り、満洲に行っても頑張れと励ました。
最後に全員で中隊歌の合唱になった。
中隊長は静かに隊列の後ろに歩いて行った。
後方でピストルの音がした。
中隊長が倒れていた。
皆駆け寄った。
額に中隊旗をかけた。
たちまち血で赤く染まった。
兵隊の一人がこの様子を近くで見ていた師団参謀に向って
「 お前たちが中隊長を殺したのだ 」
と 泣き叫びながら突っ込んだ。
参謀は逃げ去った。
安藤大尉の傷は左の顎からこめかみに至る盲管銃創で、命に別状なかった。
救急車が来て、奥山軍曹、門脇軍曹、当番兵の前島上等兵が付添い、
第一陸軍病院に向った。
これが六中隊の兵士が見た中隊長の最後の姿だった。
六中隊は永田、堂込の小隊長に引率され、軍歌を歌いながら原隊に戻った。
武装解除を求められたが、小隊長が拒否した。
彼らは中隊長がいなくなっても、その統率力は変りなかった。
なぜ彼らの武装を解かせられなかったのか?
不思議がると板垣氏はいった。
「 恐かったのですよ 」
安藤輝三という一人の中隊長の熱情と覇気が、
六中隊の下士官兵の一人一人に浸透していたことを、信じざるを得なかった。
・
歩三の聯隊に帰ると、夕食後、下士官以外はすぐに近歩三の兵舎に移された。
翌日取調べを受けた後、原隊に帰された。
帰隊後も不参加者との隔離がつづき、行動範囲も制限され、参加者は軍帽を被り、
不参加者は略帽という既定まで設けられた。
毎日精神訓話で感想文を書かさせられた。
五月、チチハルに派遣されたが、渡満前の帰宅も集団外出だった。
上野までは聯隊の下士官、上のからは在郷軍人の引率で自宅に帰り、
夕刻までには駅に戻る、という監視つきだった。
翌年二月、九年兵が満期除隊すると、初年兵が入ってきて、十年兵が戦力の中心になった。
八月、九月と北支に転戦がつづき、多くの戦死者を出した。
二・二六事件の汚名を返上するのだ、と 上官たちから前線に出されることが多かった。
・
一方下士官は営倉に入れられ、代々木の衛戍刑務所に送られた。
七月五日、裁判が開かれ、判決がいい渡された。
六中隊では、永田露、堂込喜市の両曹長が二年の実刑、渡辺春吉、門脇信夫、奥山粂治、
中村靖、小川正義の五人の軍曹と、山田政男、大木作蔵の両伍長が、
執行猶予つきの二年の刑に処せられた。
彼らは兵役から除かれたのに刑期が終わると、また 召集され、格下げになり、
苦労の連続を味わされた。
六中隊の下士官では四名が改名した。
それでも安藤中隊長に対する思慕は変らない。
当時としては何かが起こるに違いない、と思うほど世の中が不況で貧乏だった、と 感じている。
・
戦後、生き残った者は、敗戦国日本復興のため働きつづけた。
志半ばで処刑された安藤中隊長を偲ぶ会は、戦後だけでも二八回続いた。
「 あの人たちはたいしたもんですよ 」
安藤房子さんは そう話していた。
解散時の 「 安王会 」 会員三十六名、
日本を震撼させた四日間をともにした仲間たちは、「 安王会 」 は 一応解散したが、
お互いに 連絡し合って懇親の場を持ち合おう、 と 話しているという。
・
小池泰子 著
安藤中隊長を慕い続ける 「 安王会 」
別冊歴史読本 2・26事件と昭和維新 1977年 から