あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

ヤルヤル中尉 2

2017年10月22日 14時18分48秒 | 栗原安秀


栗原安秀

習志野の戦車隊にいた栗原中尉は、

日本での極寒地、旭川の雪原で行われる戦車演習に参加するため、
北海道に渡るついでに立寄ったのだった。
独身官舎の若い連中は、寄り集まって、青森市内の料亭で栗原を歓待したが、
このとき意外に思ったのは、栗原が結局は空騒ぎに終りはしたものの、
千葉に手ぐすねひいて二三十人が待機していたいきさつを、全然知らなかったことである。
「 へえ、そんなことがあったんですか。惜しかったなァ。どうして私に教えてくれなかったんですか。」
「 やらねばいかん 」 を 人の顔さえみればいう栗原中尉だった。
西田夫人などは、これを栗原さんの朝晩のご挨拶だといって笑っていた。
このときも若い連中の前で、つい この
「 やらねばいかん 」 が 飛び出した。
それでひやかし半分に私が
「 やらねばいかん、やらねばいかんというが、東京は何もやりはしないではないか 」
と、千葉での空騒ぎのことをふれたのだった。
・・・
栗原中尉が、このときはじめて、千葉の空騒ぎを知ったときいて私は
「 ああ、そういえば、あのころ栗原の姿をあまり見かけなかったな 」 と、
大蔵大尉のうちの 「 革新教室 」 でも、
西田税 のうちでも、ひよっとすると 「 宝亭の会合 」 でも、
私が歩兵学校在学中は、ほとんど栗原に会っていないことが思い出された。
「 やらねばいかん 」 の ことばだけが、
栗原の存在を、私に意識させていただけのようだった。

« 宝亭の会合 ・・末松太平 »
いよいよ鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉をさる時期が迫ったころだった。
東京から歩兵砲学生の送別会を開きたいから新宿の宝亭に集まるようにといってきた。
当日宝亭の大広間に集まったのは相当の人数だった。
正面の席には 早淵中佐、満井中佐らの先輩格も坐っていた。
歩兵学校グループはこの送別会にでることに、あまり気乗りしていなかった。
いまさら宴会でもあるまいといった気持だった。
偶然丸亀から小川中尉、江藤少尉、金沢から市川少尉が上京していて、これに出席していた。
酒がほどよくまわったところで 市川少尉が立ちあがって、
東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ、と 元気のいいところをみせた。
それに呼応するかのように、満井中佐が、
東京の若い将校は意気地がない、僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない、
と これまた市川少尉に輪をかけたように元気のいいところをみせた。
歩兵学校グループは一カ所にかたまって、ただ黙々と酒を飲み料理をつついていた。
そこだけが真空をつくっていた。
座が乱れたところで、私は真空のなかから満井佐吉の前に出向いて、
さっきいったことは本気ですかと聞いた。
満井中佐は本気であることを強調し、力説しはじめた。
みなまで聞かず、それが本気なら、そのうちお訪ねして、ゆっくりうけたまわります、
といって私は満井佐吉の力説から退避した。
二三日して私は約束どおり満井佐吉を自宅に訪ねた。
満井中佐は、滔々と革新を急がねばならない理由をのべたてたあと、
「 実行計画なんて簡単なものだ。二時間もあれば十分だ。
起とうと思えば今日いますぐでも起てるのだが、誰も僕に強力するものがいない。」
といった。
「 何人ぐらい協力者がいりますか。」
「 なあに、何人もいらないよ。」
「 では すぐやりませんか。協力者はいますよ。私の手もとに三十人ばかり、
五・一五の二の舞いでもいいからやろうていってきかない将校がいます。
千葉の歩兵学校ですから、急がないと、もうすぐ主力が帰ってしまいます。」
半分本気で半分はったりだった。
が 満井中佐は急にあわてだして、
「 ちょっと約束したことがあって、これから外出しなければならない。」
と いって椅子から立ち上った。
歩兵砲学生は卒業式をすますと、未練げもなく、爾後の互いの連絡を約して、
さっさと帰っていった。


末松太平 著 
私の昭和史  から


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