あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二、二六事件等 変てコな名をつけた事は如何にも残念だ

2017年10月04日 13時34分14秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略3 磯部淺一の闘争

世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない。
又 吾人が満足している名称でもない。
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので 余は甚だしく二、二六の名稱をいむものだ。
名稱から享ける印象も決してばかにならぬから、余は豫審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても、
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に鞏調しておいた。

然らは余等は如何なる名稱を欲するか と 云へは 義軍事件 と云ふ名稱を欲する
否 欲するではない、事件そのものが義軍の義擧なる故に義軍事件の名稱が最もフサワシイのだ。
余は豫審公判に於ても常に義軍の名稱を以て對した。

そもそも 義軍の名稱は事件發起前、
二月二十二日栗原宅に於て同志の間の話題にのぼつた事だ。
私はその會合の席に於て云った。
「 吾人は維新の義軍であるから普通戰用語の合言葉では物足らぬ、 
四十七士の山川では物足らぬ、
どうしても同志のモットウを合言葉として下士官兵に迄徹底させる必要がある 」
そしたら村兄が 尊皇絶對 はどうだと云ふから
私は
「 それなら 尊皇討奸 にしよう そしたら尊王の爲の義擧なる意味がハッキリする 」
と 云ったら一同大いにサンセイして即座に合言葉が出來た。
この合言葉は事件そのものも意味すること勿論である。

從って二月事件はその蹶起の眞精神から云って 尊王義軍事件と云ふを最も適當とする。
略して義軍事件でもいゝ
おもしろい事には
二月二十七日北さんの靈感に國家正義軍云々と云ふのが現れた。
私はこの電ワをきいた時は思はす
「 不思ギですね 吾々は昨日來尊王義軍と云っています。正義軍と現われましたか 不思議ですね 」
と 云って
密かに自ら正義の軍 尊皇の義軍なることをほこり、神様も正義と云はれるなら何おか、はばからん
吾人は國家の義軍なりと云ふ信念が強くなつた。
吾々同志が鐵の如き結束をして軍の威武にも奉勅命令にもタイ然として對し、
正義大義を唱へつづけ得たのは國家の正義軍なりとの信念が強かったからだ。
然るに ワケノワカラヌ憲兵や法ム官等が、二、二六事件等変てコな名をつけた事は如何にも残念だ。

事件當時 義軍の將兵は尊皇討奸の合言葉を以て天下に呼號した。
實に尊王討奸の語を知らぬものは、現役大將たりとも國務總理たりとも占領台上の出入は出來なかったのだ。
兵卒が自動車上の將軍を劍をギして止め合言葉を要求している、
將軍、尊王討奸を知ず百方弁解すれども、
兵は頑として通過を不許さる狀態は實に此コカシコに現出し嚴粛な場面であつた。
この如き歩哨線へ同志が行って尊王と呼ぶど兵が討奸と答へる 
そして兵が
「 大尉殿 シツカリヤリマセウ、
何ツ 此処は大將でも中將でも入れるものですか上官が何ダ
文句を云ったら討ち殺シマス 」
等 云って
堂々たる態度で この歩哨卒等は義軍なる事を信し 國家の爲尊皇の爲めなる鞏い固い信念にもえていた。
富貴も淫する能ず威武も屈する不能ず 唯義の爲めに義を持してゆづらないのであつた。
余は日本人は弱いと思つた。
特に將校、上級將校はよわいと思った。
尊王義軍兵の銃劍の前にビクビクしてゐるのを見てコレデハ日本がくさる筈だと思った。
こんな弱い將校上級將校だから必ず富貴に淫し、
威武に屈して 正義を守ることを忘れ不義にダラクしてしまふのだとツクツク感じた。
然し日本人は正義を體感すると その日暮らしの水呑み百姓でも非常につよくなる、
大義を知るとムヤミヤタラに強くなるのが日本人だと痛感した。
然り義の上に立つ者は最強也、吾々同志將兵が強かったのは義の上に立つたからだ。
大義を身に體して行動したからだ。
この意味から云って余は二、二六事件と云ふ名稱を甚だしく忌む。
吾々は二、二六と云ふ年月の爲に蹶起せるには非す。
大義の爲めに蹶起せるものだ。
天下正論の士 宜しく解セラレヨ。

 磯部浅一
・・・獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」 から