緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

2015年度 Nコン全国大会高等学校の部を聴きに行く

2015-10-11 00:17:22 | 合唱
今日、東京渋谷のNHKホールで、NHK全国学校音楽コンクール(略してNコン、合唱コンクール)があったので聴きに行った。
帰宅してからも鑑賞できるようビデオテープをセットする。
ビデオテープは店頭に販売されなくなったので、アマゾンで調達した。
NHKホールに行くと凄い人の数であった。合唱の好きな日本人がいかに多いか思い知らされる。
会場で整理券を受け取ると3階席の、といっても10列ほどであったが、真ん中くらいの席があてがわれた。
舞台からからかなりの距離だ。歌声が聴こえるかどうか心配したが、演奏が始まってそれが杞憂であることがわかった。

今年の課題曲は、作詞:穂村 弘、作曲:松本望、「メイプルシロップ」、テーマは「ピース」であった。
この「メイプルシロップ」という詩を読んで感じたことは今までの記事に書いてきたが、何故「ピース(平和)」というテーマが選ばれたか改めて考えてみる。
第二次世界大戦後、ここ数年前までは概ね世界は平和だった。
しかし世界情勢はここ数年危うくなってきた。第二次世界大戦までの動きのように、領土、資源拡大という流れを組むものもあるが、それとは異質の、人や物を何の直接的因果関係もなく破壊する勢力が拡大してきたことは見逃すことができなくなってきた。
この反社会勢力の根源には、平和で豊かな時代のなかで、精神的に虐げられてきた存在が少なからずあるのではないか。虐げられたきた者は執念深い。しかも心が冷酷なものにまで落ちてしまっている。
このような人たちが勢力を生み出し、世界各地で破壊行為を繰り返している。
このような勢力に武力で持って対抗、壊滅させる手段は本質的に有効と言えるのであろうか。
ある勢力が武力で制圧されても、根本的な問題が解決されない限り、今世界が直面しているような問題は繰り返される。
ピース「平和」の反対は「戦争」である。
「戦争」によって何を得、何を失うのか考えてみる必要があると思う。
他国固有の領土や資源を力でもって、人命を犠牲にしてまで奪って、何の価値があるのか。それによって獲得したもので自国の人々は豊かで幸福になれるのか。
破壊、殺戮行為で自己の悲惨で過酷な生い立ちから生じる負の感情を晴らすことで、自己は幸福になれるのか。

日本が平和で豊かだった1980年代から1990年代まで「平和」について語られることは殆ど無かった。
平和な時代に、何を今さら「平和」を語るのか、ということである。
しかし今、徐々に世界情勢は「平和」の維持、秩序が土台から崩れかけてきているように思う。

最近あることをきっかけに、第二次世界大戦を経験した作家の著作を数冊読む機会があった。
「戦争」を実際に体験した人が語るものには真実の思いがある。
先に述べたように、「戦争」によって何を得、何を失うのか、一度でも考えてみてもいい。

さて、今日のコンクールの演奏で、私が生演奏を聴いて特に印象に残った学校を演奏順に紹介させていただきたい。

まず演奏順位4番目の北海道プロック代表、北海道札幌旭丘高等学校である。
私は北海道出身なのでこの高校のことは知っているが、私が中学校時代の頃は成績の上位の者が行く学校であった。「ガオカ「と呼ばれていた高校である。私が卒業した学校とは非常に大きな差がある。
Nコンの全国大会に出場する学校は優秀な名門校が多いと聞くが、その通りだと認めざるを得ない。
ちょっと話が外れるが、底辺校の生徒を全国大会レベルにまで引き上げるのは、よほど優秀な指導者を得ても極めて至難なことである。底辺校の生徒がどのような生徒か分かっていればおのずと分かる。
今日の全国大会の高校生を見ていて正直いって羨ましかった。自分の高校時代が良くなかったからなおさらそのように思うのであるが、自分の高校時代にしたくても出来なかったことを感じさせてくれるだけも今は満足感を感じる。
札幌旭丘高等学校の演奏は、知性を感じさせる演奏だった。「メイプルシロップ」の演奏の解釈はとても深く考えられた結果としての表現だと感じた。全体的にパワーを前面に出すことはせず、表現の多彩さを重点に置いているように感じた。ソプラノの声が直線的な強さを持っているのが印象的だった。この歌い方は自由曲にも効果的に作用していたと思うが、中間部から後半にかけての各パートの交叉する部分とピアノ伴奏との音のずれと表現の分かりにくさがやや気になった。

次に演奏順位9番目の中国ブロック代表、島根県立松江北高等学校。
この高校は平成21年度、第76回全国大会のCDでその演奏を聴いたことがあった。その時の課題曲は「青のジャンプ」で、CDで聴き比べをしていた時に愛媛県立西条高等学校に次いで印象に残った学校であった。
今日の演奏も素朴な高校生らしい飾らない歌声を聴かせてくれて惹きこまれた。
技術的にやや粗削りな面があるが、この素朴な自然な歌声が好きだ。
他の学校のように力まない。賞を取ろうとして力を入れたり、背伸びをしたり、無理な歌い方が無い。
40人に満たない人数であったが、3階席まで十分に通る音量であった。
松江市と言えば、22年前に訪れたことがある。松江駅から歩いて数十分のところに宍道湖という比較的大きな湖がある。
その湖に石造りの地蔵が置いてあり、その地蔵の夕陽に映える姿をバックに写真を撮ったことがあった。

最後に演奏順位10番目の東北ブロック代表、福島県立郡山高等学校。
この高校は2年前の平成25年度全国大会で聴いた、高田三郎の水のいのちから「川」の演奏が強烈に印象に残っている。
この時の演奏もそうであったが、今日の演奏も自然体で無理がないが、随所でとても強い感情的な力が直線的にホールの奥まで突き抜けていくような力を感じた。
課題曲は他校のようにパワーを出し過ぎることなく、あくまで自然にかなった演奏だったと思う。
「メイプルシロップ」は感情表現を強調しすぎると、かえって聴きにくくなる難しい曲である。
この曲に対するアプローチは色々あると思うが、どのように曲作りをするか、それが一番難しかったのではないかと思う。
聴き手にとっては、詩と曲の整合が取れているとは感じにくく、詩の内容と曲想が連動しにくいので、「曲」を優先して、「曲」の自然の流れのなかで詩の内容を正確に伝えていくような歌い方に感じた。
いずれにしても歌い方、表現の仕方を相当苦労して仕上げてきたのではないかと思わせる演奏であった。
自由曲は鈴木輝昭の難解な曲であった。
ブロックコンクールでこの曲の演奏を聴いた時、ある意味で衝撃を受けた。
その意味とは難解な現代音楽の表現をどのようにするのか、ということであった。
この曲を歌っている時の生徒たちの「目」が印象的であった。
この演奏をきっかけに、鈴木輝昭の難解な現代曲、例えばオルガンとティンパニの重奏や、すでに聴いていたマンドリン・オーケストラ曲を聴いた。
このような難解な曲は感情に訴える要素よりも詩の内容と、作曲者の音の表現を、深く意味を考えながら鑑賞していく部類のものである。
それゆえに、一度だけの演奏でとうてい理解できるものではなく、何度も聴いてその意味することが徐々に石を積み上げるように、またからまった紐を解きほぐしていくかのうように時間をかけて理解を深めてゆくものであろう。
この自由曲も今日の演奏1回限りで終わらせるのは勿体ない。今後も継続して聴いてみたいと思う。

全ての演奏が終わった全体的な感想としては、音の大きさのコントロールが課題だと感じたことである。
パワーの大きさが必ずしもいいとは限らないと感じた。今日の演奏の中で、あまりにも力み過ぎて聴くのがかえってつらく感じるものもあった。3階席でも今日のどの高校の演奏も十分に歌声が届いていた。
全ての歌い手がパワー全開だと、かなりきつく聴こえる。そのパワーが意図的な強調したものであればなおさらである。
今日の演奏を聴いて、スポット的にではあるが、直線的なホールの一番後ろまで突き抜けていくような強い、均一的な音を感じる音を出している学校があった。その音は意図的ではなくあくまでも自然なものに感じた。
音量はわずかな差であっても、意図して力んで出したものと自然に出たものとはかなり異なって聴こえる。
これは器楽を鑑賞する時に共通して感じるものである。
また、3階席で聴いていると、「あら」が分かってしまうということだ。
1階席や2階席の前半で聴いていると目立たなくても、遠い3階席で聴くと、声の不透明さ、不揃い、乱れ等の「あら」が際立ってくる。
今日聴いて素晴らしいと感じた学校は、その「あら」が殆ど無かった。基礎的な修練の積み重ねに差を感じた。
しかしその「あら」が無く、素晴らしく均一な音を出している高校もあったが、私には物足りなく感じた。
もっと根源的な感情的なものが無いからである。音楽の目指すもの、方向が違うのではないか。

今日の演奏を聴いて、都会の学校と地方の学校とで演奏差が出ていることも感じた。
最後は指導者を含めて演奏者の心の状態、人間力である。
地方の学校の中でも素朴な学校ほど、自然な歌い方をするように思う。
指導者の人格、考え方にも大きく左右するが、生徒の心が出来るだけピュアになれるような環境づくりが必要だと思う。
歌うことに最大限の喜びを感じていることが伝わってくることが第一なのである。
指導者の解釈に従わせるやり方もあるが、歌い手の自主性を尊重し、全員で作り上げていくような演奏がいい。

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