緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

「誠実」というものに対する原動力はどこから生まれてくるものなのか

2021-03-06 22:30:22 | 心理
先日の新聞に、盛岡市在住の作家で直木賞などを受賞した、高橋克彦さん(73)のことを紹介するコラムが掲載されていた。



東日本大震災後、高橋さんは抱えていた連載を全て休載、積極的な物書きとしての活動が出来なくなってしまったという。

「被災地で物書きをする身として、のんきなもの(時代小説などの連載もの)は書けないという思いと、沿岸にいなかった自分に震災が書けるのかという葛藤。見極められずにこの10年間を過ごしてきた。書くなら未来につなげられる物語をと思う反面、震災を全く忘れたものは書きたくない。10年間のブランクもプレッシャーとなって出口が見つからない。」

しかし転機となる出来事に遭遇する。
「震災直後のテレビで、10歳くらいの男の子がインタビューを受けていた。祖父母と両親、きょうだいを亡くし、ただひとり生き延びたようだった。「自分よりもっとつらい思いをした人がたくさんいるから頑張る」と話すのを聞いて、泣いちゃってさ。
この世でひとりぼっちになった子どもよりつらい思いをしている人なんて、いないよ。その時に俺は、この子がつらさを一瞬でも忘れられるような小説を書きたいと思ったね。あの子が大人になった今、俺の小説を読んで「おもしろい」と思ってほしい。そのために何を書けばいいのか、答えを探している。」

この記事を読んだ時、この小説家はすごく誠実な姿勢を持った方だな、と感じた。
自分の取り組んでいる仕事に対する厳しさというものが伝わってくる。
職人や芸術家の中には、作品を見たり使ったりする人々のことは二の次で、自分の感性や能力のおもむくままに仕事が出来ればいい、という自分軸の人もいる中で、芸術や文化といったものが何のためにあるのか、という根本のところをよくわきまえている人もいる。

「誠実」という心の在り方は、常に人のことを考える、ということを抜きにはありえない。
野心、売名欲、などといった我執から解放され、克服されていないと出来ないことだ。

「無心」という境地に近いのかもしれない。
「純粋に人のために何かしてあげたい」という感情、恐らく、人間であれば誰しも根源的、本能的に持っている感情が原動力となって、誠実な行いというものが自然に生まれてくるのではないか。

「純粋に人のために何かしてあげたい」という気持ちを持っている人は案外少ないように思う。
多くの人は利害や損得勘定で動いている。
裏切られた人は、なかなか人に対して素直になれない。裏切られた経験が利害や損得勘定による生き方に向かわせる。
やさしさが裏切られたり否定されたりして、深く傷ついているからだ。
もう二度と、人にやさしくなんかしてやるもんか、という心境になる
しかしそうであっても、人の心の深いところから、「純粋なやさしさ」というものが抹消されること決してないと思う。

人間が根源的に持っている「純粋なやさしさ」を取り戻すにはどうしたらよいのか。
それは先の記事に書いてあるような、強く心を打たれるような出来事に触れることだと思う。
映画を見たり小説を読むというような疑似体験でもいい。

そして、人は純粋なやさしさが生み出す原動力の偉大さに気付いたとき、誰かに裏切られ傷ついたということが全く無意味なことであることを悟るのではないか。
根源的なやさしさの感情がもたらすものの大切さが心底わかった、ということは、自分が傷つくということを超越して、その揺らぎの無い価値に気付いたということではないだろうか。
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