緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

牧野信一 「ゼーロン」を読む

2014-11-30 00:33:47 | 読書
牧野信一という作家を知ったのは、高橋和巳の夫人である高橋たか子の著作「高橋和巳の思い出」を読んだことによる。
高橋和巳が癌で亡くなる直前に読みたいと言った作家だ。
高橋和巳が牧野信一の著作の何を読みたかったかは知る由もないが、文学界でも現在は殆ど知られていないこの作家に興味を抱いた。
そして牧野信一全集(全3巻)を、それは湿った倉庫に長い間埋もれていたと思われ、箱に夥しいしみがついたものであったが、買って読んでみることにした。
牧野信一は39歳で自殺した。
作家で自殺した人は芥川龍之介や有島武郎など昔の時代ではかなりいた。
牧野氏はとても繊細な感性の持ち主で、図太く生きることができなかったのであろう。
作風は幻想的な短編と自らの日々の生活をもとに心理描写を描いた短い私小説が中心である。
この「牧野信一全集」第Ⅰ巻の箱の帯に書かれていた小林秀雄氏の書評があったので、ここに一部を紹介する。
「リアリズム小説全盛の当時の文壇にあって、彼の夢物語が異様な美しさに見えたといふだけの理由で、私は、彼の作に惹かれたのではない。それは、解ってゐたが、その独特の力が、何処から生まれたかには思ひ至らなかった。彼の自殺後、彼の実生活につき、思ひめぐらすやうになった今日、私は、やっと彼の夢物語の傑作たる所以を考へるに至った。彼は、逃げたのではない。夢みたのでもない。これらは、満身創痍で暮らした、彼の暮らしの手帖だったのである。」
牧野氏の短い小説は驚くような結末が用意されていたり、教訓めいたものを読者に暗に説くというようなものはない。寧ろ坦々としている。
それにもかかわらず彼の小説は読んだ後なかなか記憶から消えていかない。地味であるが力のある小説という印象だ。
幻想的小説の代表作は「ゼーロン」である。
新しい原始生活を始めるために身の回りの一切合切を整理した主人公が、自分をモデルに製作された一個のブロンズ像の始末に困り、かねてからそのブロンズ像を引き取ってもいいと言っていた某芸術家の住居に運ぶまでの道中で、険しい山を越えるために以前親密な間柄であったゼーロンという馬を借りることになった。
しかし、馬主が言うにはゼーロンは以前の優秀で聡明な馬とは全く違う、駄馬の性質に変わってしまったとのことであった。
この小説は以前愛情を注いだ馬が全く別の馬に成り代わってしまったとはにわかに信じられず、最初は以前のゼーロンのように愛情を持って旅を進めたが、次第に駄馬の現実に嫌というほど直面させられ、涙ぐましいほどの努力でこの駄馬を奮い立たせて、危険な道中のさまざまな恐怖や不安と闘う主人公の心理描写を描いたものである。
旅の最初は駄馬に成り下がったゼーロンに対し優しく歌を歌うなどして以前の優秀なゼーロンに戻ることを期待していたが、その愚かさについに主人公はゼーロンに暴力をふるうようになる。
最後は、旅の途中で思い出した主人公の父親の肖像画と、背中にしょったブロンズ像が生を得て、ゼーロンと主人公と「變挺な身振りで面白そうにロココ風の「四人組の踊り」を踊ってゐた。」とする幻影を見るまでになり、ブロンズ像を森の沼底に投げ込もうとするところで終わる。
この幻影の表現で、ストーリーは全く異なるが以前読んだ庄野英二の「星の牧場」の最後の場面を思い出した。

彼の小説は先に述べたように立派な教訓めいたもの、人間の生き方を考えさせるといったものを暗黙に織り込ませるとういう感じはしない。
小林秀雄氏の書評にあるように「満身創痍で暮らした、彼の暮らしの手帖」から生まれたものであろう。
彼の小説からは大それた野心的な匂いはしない。まさに坦々と感じたこと、浮かんだことを書いているように思える。
最近の小説の中には、本が出たあとに映画化、ドラマ化されることを見越したような展開のものがあるが、どこか作為的で読んだときは面白くてもあまり後で残らないものである。
牧野信一の小説がどの程度心に残り続けていくか正直まだわからないが、彼の小説は短く素朴であり、自分の気持ちに正直になって書かれた誠実さが感じられる。





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