緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

エルネスト・ショーソン「詩曲 Op.25」を聴く

2021-06-06 22:02:42 | バイオリン
今日は社会人マンドリンクラブの合同練習に1か月ぶりに参加してきた。
やはり合奏は楽しい。
回を重ねる毎に、拍の捉え方が自然に出来るようになってきたり、他パートの音が聴こえるようになってきたり、様々な発見があるのがいい。
もちろんメンバーと音合わせするのが一番楽しいけど。

中規模演奏会が終って、少し時間に余裕が出て来た。
ただ演奏会の練習のためにセーブしてきた講習会の実践ワークも徐々に増えてきている。
先週は在宅勤務はなく全て通勤だったので、朝4時40分起き。
寝不足もいいところだ。
それでも定時で上がれたので帰宅は8時前、テレビを点けたらうるさい番組しかやっていないので、随分久しぶりにNHKFMラジオを入れてみたら、いきなりクラシック音楽が流れてきた。
2019年から2020年にかけて演奏されたコンサートのライブ録音だった。
ホールでの音をそのまま録音したものであったが、まず注意を引かれたのが音の響きの良さ。
実際の生の音にはかなわないが、ホールでの音を忠実に録音したであろうその音の美しさをあらためて実感した。
近年、プロの録音CDでもかなりのレベルで音を電気処理したものが増えてきている。
Youtubeなど投稿録音はその殆どが音を電気処理している。
言っちゃ悪いけど、この電気処理した音、私はすごく不快に感じる。
何で、生の音を全く別の音に人工的に変換して作り変えてしまうのだろう。
音でその演奏家の感情や感性、演奏レベルが分かる。
それを全く別のものに作り変えてしまうというその考えが信じられない。
生の音の再現に生涯を賭けた録音技術者やコンサートホールの設計者たちの努力は報われず、いかにオリジナルの音を聴き映えのいいものに作り変えていくか、ということがこれからの録音技術の主流となっていくに違いないが、本質的に間違っているように思う。

この1週間でさまざまなライブ録音を聴いたが、その中でとても素晴らしい曲に出会ったので、記事にしようと思った。
エルネスト・ショーソン(1855-1899)作曲の「詩曲 Op.25」。
演奏は、ヴァイオリン:神尾真由子、ピアノ:田村響
2020.11.13.文京シビックホール大ホールでのライブ録音
元々はオーケストラ伴奏によるものであるが、今回の演奏はピアノ伴奏版。
Youtubeでオーケストラ伴奏版も聴いたが、ピアノ伴奏版の方がより一層この曲の持つ詩情を感じられるのではないかと思う。

曲は15分ほどの規模の曲。
だいぶ前に、ショーソンの「風景」というピアノ曲を聴いたことがあったが、今日この曲をあらためて聴いてみると共通するものを感じた。
それは一言で言うと「悲しみと美しさとの限りなき融合」といったもの。
「詩曲」の出だしのピアノ伴奏のあとに、主題の悲しいヴァイオリンの悲しい旋律が始まるが、この旋律を聴くと、強い悲しみの感情が想起されてくる。
単なる短調の曲のもつ寂しさ、悲しさといったものとは次元の違う、もっと何というか深い人間の体験的感情のようなものが伝わってくるのである。
そしてこの悲しい旋律はただ悲しい感情の表出のみに終るのではなく、極めて芸術的な美しさにまで昇華されている。
この悲しい旋律は感性の豊かさだけで生れるものでなないように感じる。
もっと体験的な感情からくるような気がするのだ。
人によって捉え方は様々であろうが、少なくとも私はそのように直感で感じる。

ヴァイオリンの演奏で要求されるレベル、難易度は非常に高いものであろう。
中間部の神尾真由子の演奏は、エネルギッシュで情熱に満ちたものであるが、情熱的な表現やタッチが出来なければ平板な演奏に終わり、この曲の真価を感じ取れない。

ショーソンのこの「詩曲」はヴァイオリン曲としてはポピュラーなようだ。
ただ、この曲からこの曲の真価を本当に引き出せる奏者は少ないような気がする。
ヴァイオリン曲の鑑賞に関してはまだまだ未熟な私であるが、それでもそう感じないではいられない曲だ。

このFMラジオでのライブ録音をきかっけに神尾真由子のCDを買って聴いてみた。
ライブ録音のような臨場感は無いが、素晴らしい演奏だ。
これから何度も繰り返し聴いていくと思う。



※Youtubeではオーケストラ伴奏版がたくさん投稿されていたが、ピアノ伴奏版は少ない。
ピアノ伴奏版での投稿演奏もあったが、残念ながら聴いていて感情が引き出されるものでなかったので、今回の記事では貼り付けていない。
でもそれでも関心を持たれたならば是非聴いて欲しい。
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