緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2019(3)

2019-01-12 21:36:17 | 音楽一般
2.マンドリン合奏(続き)

昨年7月16日、札幌市教育文化会館で母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会に出演することが出来た。
これも10年来の願望だった。
この願望がかなえられて本当に嬉しかった。
まず母校のマンドリンクラブが10年毎に記念演奏会を開催しているという事実を知ったのが、10年前だった。
この時は40周年だったのだが、同期生のMが突然私の自宅に電話を掛けてきたのだ。
卒業してから何度か住所を変わっているので電話番号が分かるわけがないと思ったが、実家に電話して私の自宅の電話番号を聞いたとのことだった。
Mとは20数年振りの再会だったが、声の感じは全くと言っていいほど変わっていなかった。
40周年の記念演奏会をやるので出てみないか、と言ってくれた。
こういう記念演奏会があるとは知らなかった。案内は今まで来たことが無かった。

藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」をやるのだという。
参加したいと思った。
しかしその頃私は、休みが殆どとれない状態だった。
4か月間、土曜も日曜もずっと連続で仕事だった。毎日夜中まで働いていた。
今から考えるとぞっとするけど。

40周年記念演奏会は2008年の9月中旬に開催された。
Mから飲み会であれば参加できないかと、連絡があったが、出来なかった。

今回の50周年記念は案内も来なかった。
住所が変わったせいだろう。
今度は何が何でも出たかった。
自分から現役生にコンタクトをとった。
現役生(部長)がOB会に連絡を取ってくれた。ありがたい。
ギタートップの方が楽譜を送ってくれた。

4月と6月に札幌に行って合同練習に参加した。
あいさつで、5月の大規模演奏会に出演すると言ったら、千葉で活動しているメンバー(マンドリンのIさん)が話しかけてくれた。
自分の現役時代に一緒だった人は数名だった。
その中にMがいた。
懐かしかった。
マンドリン合奏を始めるまで独奏をやっていて天狗になっていた私に対し、嫌と言うほど合奏の厳しさに直面させ、私を叩きのめした先輩のTさん、夏合宿の貸し切りバスに寝坊で乗り遅れて汽車で後から合宿所に着いたにもかかわらず、点呼を十分にしなかった自分が悪いとバス代を免除してくれた当時の部長Aさんもいた。
そして私が4年生の時の1年のベースのO君とは、私の弟子のCの消息などを話した。

記念演奏会の演奏の思い出は、前日の練習と当日のリハーサルだけだ。
わずかしか合同練習に参加できなかったから無理もないか。
本番は完全とは言えなかったが、悔いを残さない演奏をした。
もしかするとこれで最後かもしれないから。

本番終了後、ロビーに同期生が来ていて私のことを探しているという話を聞いて、駆け付けた。
あの懐かしい面々が待っていてくれた。30数年振りの再会だった。
セロのF、ギターのI、ベースのS、コンマスのS、皆年をとった。
帯広にいるギターのSとは、Iのスマホで顔をみることができた。全然変わっていないな。
1年後輩のギターのK、彼の家で卒演(ギター三重奏)の練習をしたことが思い出される。彼は学生時代硬派だったがやわらかくなっていてちょっと驚いた。
そして同期のマンドリンの旧姓Kさんから話しかけられたが、最初Kさんだと分からなかった。
Kさんと一緒に聴きにきていたという2ndマンドリンの旧姓Kさんとは合うことができなかった。
2ndマンドリンのkさんは、私が寝坊で遅刻した夏合宿でのレクレーションの出来事を今でも憶えていてくれたらしい。
またロビーに来ていたが、私の来る前に帰ってしまったギターのYさん、彼は私の卒業した高校の先生になったが、今はどうしているのか。高校に赴任して間もない頃、Yさんの下宿に遊びに行って、下宿で晩御飯までご馳走になったことを思い出した。
それ以外にも何人かの先輩、後輩と会うことができた。
皆、懐かしがった。

同期や後輩の中には北海道を出て就職したけど、Uターンで戻ってきた人も何人かいた。
そういう人たちは定期的に交流を持っているという。
OBで作ったマンドリンクラブに所属している方もかなりいた。


私は30数年間の間、何をやってきたのであろう。
学生時代に関わった人たちとは、卒業後殆ど全く縁が無かった。
弟子やMのことは時々思い出したが、それ以外の人は全く記憶の外に置かれていた。
関東に出てきて、苦しみと仕事しか残さなかったような気がする。
あわれな生き方だ。

これからでは遅いような気もするが、人生はまだまだ残されていると思って、少しでも前向きに行こうか。
下の写真は、この正月休みが終って実家からの帰路での飛行機の窓から写した景色だ。
雲の上はこんなに綺麗で明るいのですね。
この雲の上にまで到達できるような、これからを歩んでいきければな、と思った。







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今年の抱負2019(2)

2019-01-12 00:01:21 | マンドリン合奏
以下、ジャンル毎に昨年の振り返りと今年の抱負を述べたい。

2.マンドリン合奏

昨年、趣味の活動で大きな転機があった。
1つ目は昨年5月に新宿で開催されたマンドリンオーケストラの大規模演奏会に出演したこと。
2つ目は大規模演奏会に出演した縁で、社会人マンドリンクラブに入部したこと。
3つ目は昨年7月に札幌で開催された母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会に出演したことだった。

昨年5月に開催された大規模演奏会はある特定の作曲家の曲だけをプログラムにし、2年毎に開催され、管楽器やパーカッションを含めた百数十名からなる大編成で構成されるオーケストラであった。
この演奏会を初めて聴いたのが2016年の演奏会だった。
その時の感想を記事にした。
とにかく素晴らしい演奏で、もしこの作曲家(鈴木静一)の代表作「交響譚詩 火の山」が今後演奏される機会があれば、自分も参加してみたいとも思った。
一昨年の5月初めであっただろうか。この記事にコメントが入っていた。
2018年の大規模演奏会で「交響譚詩 火の山」を演奏するので参加してみませんか、という内容だった。
コメント下さったのは2016年の演奏会に出演された方だった。
また別の記事(五木の子守唄)だったと思うが、時を同じくして、2016年演奏会に出演した別の方からも誘って下さる内容のコメントをいただいた。
このお二方はいずれもパートトップで一人はコンマスだったと記憶している。
ただ丁度この時、勤め先のシステムの入れ替えで多忙を極めていたことや、合奏経験が30年以上ブランクがあることから参加は難しいと思った。
私からのコメントの返信もそのようなことを書いたと思う。
しかし意外にもコメントを下さった方が再度誘ってくれたのだ。
エントリーのぎりぎりまで迷いはあったが、参加を決断した。
きっかけを与えて下さったこのお二方には感謝に堪えない。

この鈴木静一作曲「交響譚詩 火の山」は私が今までに聴き、また演奏したマンドリンオーケストラ曲の中では最高の曲である。
これ以上のマンドリンオーケストラ曲は無い。
私はこの曲を学生時代のある場面で聴いて衝撃を受け、マンドリン音楽の極致とも言えるものに触れた。
学生時代に所属していたマンドリンクラブの定期演奏会メイン曲としてこの曲を練習していた晩秋の頃であった。
当時600番棟と言われた高商時代から使われていた古い木造の部室の廊下を歩いていた時であった。
とても寒い時だったと記憶している。
その狭い部室から各パート1、2名ずつであろうか、小編成からなる「火の山」のワンフレーズが耳に入ってきたのである。
それはVivaceが終りSostenuto assai moderatoに入ったところだった。
このSostenuto assai moderatoのマンドリンの旋律を聴いて、私の歩みは止まった。
そしてこのフレーズが終るまで動くことが出来なかった。
この旋律があまりにも美しくかつ悲しく、詫びしくて、どうすることも出来ず釘付けとなってしまったからである。
これが鈴木静一の曲の神髄に開眼した瞬間だった。
この時まで私はギターパートの音楽しか耳に入ってなかった。












この出来事をきっかけに私はこの「火の山」の練習を滅茶苦茶にやり出した。
練習の合間に同期生のMと行った、札幌のヤマハセンターでのギターの展示会の時は、継ぎ接ぎのあるジャンパーを着た貧しい身なりの一学生が、当時200万円もした展示品のヘルマン・ハウザーをもぎ取って、人目を気にせず長時間、大音量でこの「火の山」を弾きまくったのである。
そしてこの曲をきっかけに、日本旋法によるギター曲の楽譜を探し始めた。
このような曲が当時のギター界でたくさんあるはずもなく、探し出せたのは伊福部昭の「ギターのためのトッカータ」と「古代日本旋法による踏歌」の2曲だけだった。
そしてこの2曲の譜面を合奏練習日に持ち込んで、休憩時間に弾いたものである。

この「交響譚詩 火の山」は主に4つの主題で構成されている。
①荘厳、雄大に聳える火山(阿蘇霧島)の形容
②火山が噴火する前の兆候から噴火、流れだした溶岩が草木、民家や人々を焼き尽くす様。
③噴火が収まったあとの冷酷な寂寥感、生き残った人々の深い嘆き、悲しみ
④徐々に自然が回復し、人々もかつての地に戻り復興を成し遂げていく様子。祭が復活する。
⑤しかし幸福の束の間、再び噴火が繰り返される(②と同じ)。
⑥最後は①の主題を一層華やかにして終る。

この①~⑥は一切の無駄が無い。非常に完成度が高い。
主題と主題との間のつながりも絶妙である。
また各主題が各々独自性を持つ音楽であり、しかも非常に美しくレベルが高い
独自性を持ちながら小説の各章のように有機的につながり、全体としてのストーリーを構成している。
これほど念入りにかつ周到に考え抜かれたマンドリンオーケストラ曲を聴いたことは無い。
鈴木静一の曲のNo.1として「交響詩 失われた都」をあげる方が多いが、私はそうは思わない。
「火の山」の方が、音楽構成力、旋律、音楽の美しさ、完成度の高さ、魂を揺らすほどの情熱、感動する度合いなど、1段も2段もそれ以上も上回っている。
何度も聴き比べてみればそのことがかならず分かると確信する。

鈴木静一はこの曲を作曲するにあたり、素朴な日本の子守唄をその主要主題にしたいと始めから考えていたと述べている。
この子守唄とは「五木の子守唄」のことである。
この曲の最大のキーポイントとなる「五木の子守唄」が果たしてどの部分に挿入されたか。
この挿入される箇所が実に絶妙なのである。
それは③の主題の最後である。
この「火の山」の主題の中でもっとも素晴らしいのは③の主題である。
噴火の後の庶民の嘆き、悲しみの気持ちが表現されている。
ホルンの後に続く次のギターの和音、その後に続くセロやベースの強い嘆き。
このギターの和音がとても好きだった。









この主題は短調でありながら、ニ短調、ハ短調、ト短調と頻繁に転調する。
「五木の子守唄」がいきなり挿入されることはない。
ここが凄い所なのだが、徐々に嘆きや悲しみが微妙に変化していき、美しい素朴な昔の日本の情景とからみあいながら曲は進み、ピアノのアルペジオの後に子守唄が情熱的に奏される。



またあの悲しい、静寂の中、寒く、雪がしんしんと降り続くようなフレーズで終わる。
この主題の一連の心象風景の移り変わりの表現は見事というしかない。
決して大袈裟で言っている感想ではない。

④の主題で「再生」されていく庶民の生活。
とくに下記の部分は躍動感と強い生のエネルギーに満ち溢れ、演奏していて物凄く感情が高まる。





右手の親指の爪が削れて無くなってしまうほど強く弾かないと曲に乗ってこない。
そして意表を突くように祭りの華やかなニ長調の鈴木静一特有のリズムの刻みが挿入される。



演奏してとても高揚する部分。
幸福の絶頂感を感じながらも不安の気配が忍び寄る。
このような表現が素晴らしいのである。

この大規模演奏会は学生時代に出会った思い出の「交響譚詩 火の山」を再びステージで弾きたいという夢の実現のために参加した。
大規模演奏会の録音CDをこの正月休みに初めて聴いたが、プログラム曲の中ではもっとも素晴らしかった。
この曲は今まで数多くの録音を聴いてきたが、この大規模演奏会のライブ録音が最高だった。
指揮者はよくここまで曲をまとめあげたと思う。凄い!。

この曲を聴き、新宿まで練習に行ったことが思い出される。
私にとっては初めての体験であったが、数多くの様々な方と共に練習し、演奏できたことは貴重な体験であった。
本当に感謝したい。

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