2.マンドリン合奏(続き)
昨年7月16日、札幌市教育文化会館で母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会に出演することが出来た。
これも10年来の願望だった。
この願望がかなえられて本当に嬉しかった。
まず母校のマンドリンクラブが10年毎に記念演奏会を開催しているという事実を知ったのが、10年前だった。
この時は40周年だったのだが、同期生のMが突然私の自宅に電話を掛けてきたのだ。
卒業してから何度か住所を変わっているので電話番号が分かるわけがないと思ったが、実家に電話して私の自宅の電話番号を聞いたとのことだった。
Mとは20数年振りの再会だったが、声の感じは全くと言っていいほど変わっていなかった。
40周年の記念演奏会をやるので出てみないか、と言ってくれた。
こういう記念演奏会があるとは知らなかった。案内は今まで来たことが無かった。
藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」をやるのだという。
参加したいと思った。
しかしその頃私は、休みが殆どとれない状態だった。
4か月間、土曜も日曜もずっと連続で仕事だった。毎日夜中まで働いていた。
今から考えるとぞっとするけど。
40周年記念演奏会は2008年の9月中旬に開催された。
Mから飲み会であれば参加できないかと、連絡があったが、出来なかった。
今回の50周年記念は案内も来なかった。
住所が変わったせいだろう。
今度は何が何でも出たかった。
自分から現役生にコンタクトをとった。
現役生(部長)がOB会に連絡を取ってくれた。ありがたい。
ギタートップの方が楽譜を送ってくれた。
4月と6月に札幌に行って合同練習に参加した。
あいさつで、5月の大規模演奏会に出演すると言ったら、千葉で活動しているメンバー(マンドリンのIさん)が話しかけてくれた。
自分の現役時代に一緒だった人は数名だった。
その中にMがいた。
懐かしかった。
マンドリン合奏を始めるまで独奏をやっていて天狗になっていた私に対し、嫌と言うほど合奏の厳しさに直面させ、私を叩きのめした先輩のTさん、夏合宿の貸し切りバスに寝坊で乗り遅れて汽車で後から合宿所に着いたにもかかわらず、点呼を十分にしなかった自分が悪いとバス代を免除してくれた当時の部長Aさんもいた。
そして私が4年生の時の1年のベースのO君とは、私の弟子のCの消息などを話した。
記念演奏会の演奏の思い出は、前日の練習と当日のリハーサルだけだ。
わずかしか合同練習に参加できなかったから無理もないか。
本番は完全とは言えなかったが、悔いを残さない演奏をした。
もしかするとこれで最後かもしれないから。
本番終了後、ロビーに同期生が来ていて私のことを探しているという話を聞いて、駆け付けた。
あの懐かしい面々が待っていてくれた。30数年振りの再会だった。
セロのF、ギターのI、ベースのS、コンマスのS、皆年をとった。
帯広にいるギターのSとは、Iのスマホで顔をみることができた。全然変わっていないな。
1年後輩のギターのK、彼の家で卒演(ギター三重奏)の練習をしたことが思い出される。彼は学生時代硬派だったがやわらかくなっていてちょっと驚いた。
そして同期のマンドリンの旧姓Kさんから話しかけられたが、最初Kさんだと分からなかった。
Kさんと一緒に聴きにきていたという2ndマンドリンの旧姓Kさんとは合うことができなかった。
2ndマンドリンのkさんは、私が寝坊で遅刻した夏合宿でのレクレーションの出来事を今でも憶えていてくれたらしい。
またロビーに来ていたが、私の来る前に帰ってしまったギターのYさん、彼は私の卒業した高校の先生になったが、今はどうしているのか。高校に赴任して間もない頃、Yさんの下宿に遊びに行って、下宿で晩御飯までご馳走になったことを思い出した。
それ以外にも何人かの先輩、後輩と会うことができた。
皆、懐かしがった。
同期や後輩の中には北海道を出て就職したけど、Uターンで戻ってきた人も何人かいた。
そういう人たちは定期的に交流を持っているという。
OBで作ったマンドリンクラブに所属している方もかなりいた。
私は30数年間の間、何をやってきたのであろう。
学生時代に関わった人たちとは、卒業後殆ど全く縁が無かった。
弟子やMのことは時々思い出したが、それ以外の人は全く記憶の外に置かれていた。
関東に出てきて、苦しみと仕事しか残さなかったような気がする。
あわれな生き方だ。
これからでは遅いような気もするが、人生はまだまだ残されていると思って、少しでも前向きに行こうか。
下の写真は、この正月休みが終って実家からの帰路での飛行機の窓から写した景色だ。
雲の上はこんなに綺麗で明るいのですね。
この雲の上にまで到達できるような、これからを歩んでいきければな、と思った。
昨年7月16日、札幌市教育文化会館で母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会に出演することが出来た。
これも10年来の願望だった。
この願望がかなえられて本当に嬉しかった。
まず母校のマンドリンクラブが10年毎に記念演奏会を開催しているという事実を知ったのが、10年前だった。
この時は40周年だったのだが、同期生のMが突然私の自宅に電話を掛けてきたのだ。
卒業してから何度か住所を変わっているので電話番号が分かるわけがないと思ったが、実家に電話して私の自宅の電話番号を聞いたとのことだった。
Mとは20数年振りの再会だったが、声の感じは全くと言っていいほど変わっていなかった。
40周年の記念演奏会をやるので出てみないか、と言ってくれた。
こういう記念演奏会があるとは知らなかった。案内は今まで来たことが無かった。
藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」をやるのだという。
参加したいと思った。
しかしその頃私は、休みが殆どとれない状態だった。
4か月間、土曜も日曜もずっと連続で仕事だった。毎日夜中まで働いていた。
今から考えるとぞっとするけど。
40周年記念演奏会は2008年の9月中旬に開催された。
Mから飲み会であれば参加できないかと、連絡があったが、出来なかった。
今回の50周年記念は案内も来なかった。
住所が変わったせいだろう。
今度は何が何でも出たかった。
自分から現役生にコンタクトをとった。
現役生(部長)がOB会に連絡を取ってくれた。ありがたい。
ギタートップの方が楽譜を送ってくれた。
4月と6月に札幌に行って合同練習に参加した。
あいさつで、5月の大規模演奏会に出演すると言ったら、千葉で活動しているメンバー(マンドリンのIさん)が話しかけてくれた。
自分の現役時代に一緒だった人は数名だった。
その中にMがいた。
懐かしかった。
マンドリン合奏を始めるまで独奏をやっていて天狗になっていた私に対し、嫌と言うほど合奏の厳しさに直面させ、私を叩きのめした先輩のTさん、夏合宿の貸し切りバスに寝坊で乗り遅れて汽車で後から合宿所に着いたにもかかわらず、点呼を十分にしなかった自分が悪いとバス代を免除してくれた当時の部長Aさんもいた。
そして私が4年生の時の1年のベースのO君とは、私の弟子のCの消息などを話した。
記念演奏会の演奏の思い出は、前日の練習と当日のリハーサルだけだ。
わずかしか合同練習に参加できなかったから無理もないか。
本番は完全とは言えなかったが、悔いを残さない演奏をした。
もしかするとこれで最後かもしれないから。
本番終了後、ロビーに同期生が来ていて私のことを探しているという話を聞いて、駆け付けた。
あの懐かしい面々が待っていてくれた。30数年振りの再会だった。
セロのF、ギターのI、ベースのS、コンマスのS、皆年をとった。
帯広にいるギターのSとは、Iのスマホで顔をみることができた。全然変わっていないな。
1年後輩のギターのK、彼の家で卒演(ギター三重奏)の練習をしたことが思い出される。彼は学生時代硬派だったがやわらかくなっていてちょっと驚いた。
そして同期のマンドリンの旧姓Kさんから話しかけられたが、最初Kさんだと分からなかった。
Kさんと一緒に聴きにきていたという2ndマンドリンの旧姓Kさんとは合うことができなかった。
2ndマンドリンのkさんは、私が寝坊で遅刻した夏合宿でのレクレーションの出来事を今でも憶えていてくれたらしい。
またロビーに来ていたが、私の来る前に帰ってしまったギターのYさん、彼は私の卒業した高校の先生になったが、今はどうしているのか。高校に赴任して間もない頃、Yさんの下宿に遊びに行って、下宿で晩御飯までご馳走になったことを思い出した。
それ以外にも何人かの先輩、後輩と会うことができた。
皆、懐かしがった。
同期や後輩の中には北海道を出て就職したけど、Uターンで戻ってきた人も何人かいた。
そういう人たちは定期的に交流を持っているという。
OBで作ったマンドリンクラブに所属している方もかなりいた。
私は30数年間の間、何をやってきたのであろう。
学生時代に関わった人たちとは、卒業後殆ど全く縁が無かった。
弟子やMのことは時々思い出したが、それ以外の人は全く記憶の外に置かれていた。
関東に出てきて、苦しみと仕事しか残さなかったような気がする。
あわれな生き方だ。
これからでは遅いような気もするが、人生はまだまだ残されていると思って、少しでも前向きに行こうか。
下の写真は、この正月休みが終って実家からの帰路での飛行機の窓から写した景色だ。
雲の上はこんなに綺麗で明るいのですね。
この雲の上にまで到達できるような、これからを歩んでいきければな、と思った。