緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

運指を考える

2018-04-29 00:27:22 | ギター
今日から9連休。
1年前のゴールデンウイークはシステムの入れ替えで殆どが出勤だったが、今年は何とか休めそうだ。
今日は朝からマンドリン合奏の練習で東京へ行ってきた。
日頃の寝不足で電車の中でウトウトし、風邪をひいてしまったらしい。
しかし今日の練習はとても充実していた。
曲の技術面の練習の成果があったことにもよるが、指揮者や他パートのメンバーを見る余裕が出てきた。
指揮者は2人であるが、素晴らしい方々だ。
2人ともタイプが違うが、両者とも現役のマンドリンオーケストラの指揮者としては超一流だと思う。
音楽の様々なノウハウ、解釈を学べる貴重な機会を得られたことが嬉しいし、もっと音楽を深めたいという気持ちが湧き起ってくる。
メンバーは数多くいるが、まず顔を覚えるようにしている。
演奏の合間に周りを見渡し、できるだけ表情を見るようにしている。
言葉は交わさないが、音楽をやる人特有のものを直感で感じる。
これだけで私は満足だ。
できれば直接会話できればいいのだが。

本番まで完成度を高めたい。
技術的にも音楽的にも納得のいくレベルまで持っていかないと完全燃焼できないことは学生時代の経験から分かっている。
理想は曲に完全に同化すること。
それはイコール、作曲者の感情と一体化することだ。
その域まで到達できるか。
演奏会まで1か月を切った。
それにしても、指揮者はこの域まで持ってこれるようメンバーに精神的エネルギーやパワーを知れずとも封入しなければならないことを考えると、大変な、経験と努力と人間的な器が要求される仕事であることが分かる。
私も全力でぶつかる気持ちでいる。

私の所属するパートで、運指の解釈の相違によるちょっとした論争があった。
運指は技術面と音楽面の要求に対し、ベストな決定をしなければならない。
技術的な面では、或る程度の法則的なものがある。
1例を挙げると、有名なアグアドの練習曲(イ短調)がある。
誰もが初歩の段階で練習する美しい練習曲であり、私の最も好きな練習曲の一つであるが、鈴木巌氏による運指が非常に基本的で重要な技術的土台構築のためのノウハウを示しているので、下記に掲載する。









下の写真のカーブを描いた矢線の意味するところは、矢線の始まる音をそのまま押さえ、その矢印の終わりの音を弾くときに弦から離れることを意味する。
またカーブを描く矢線と下矢線とが交差するのは、前の音を押さえていた指がその矢線の所で別の指と交代することを意味する。
この練習の目的は、音価を最後まで保持するために必要な技術的ノウハウの習得と奏者の意識付けを行うことにある。
音というのは出来るだけ最後の最後まで保持しなければならないことを初級者に分からせることにある。

独奏でも合奏でも、いい演奏をするためには徹底した技術的基盤を構築することがまず根本的に必要だと思う。
昨年、かつてスペインに長年留学した方に話を聞く機会があったが、その方はナルシソ・イエペスの個人指導を受けた方であったが、まずは徹底した基礎練習だと言い切った。
今の方は基礎練習をないがしろにしてすぐに曲に入るから、いい演奏が生まれないのだとおっしゃていた。
私もその通りだと思う。
昨年12月に静岡大学マンドリンクラブの定期演奏会を聴いたときに、メンバー達の技術的な基礎が徹底されていることに驚いたが、まずは何よりも徹底した基礎練習が前提条件となることは間違いない。

次に音楽的要素から決定される運指であるが、これは技術的要素と違い、答えは一つではない。
勿論、技術的要素の裏付けの得られたうえでの運指であるが、音楽的要素から決定される運指は、奏者の音楽に対する解釈、理念、感受性によって決まる。
奏者の音楽に対する解釈や信念は人により驚くほど異なっている。
クラシックギターを例にとれば、ギター界の巨匠であるアンドレス・セゴビアとナルシソ・イエペスとで運指の決定は大きな違いがある。
フェルナンド・ソルの練習曲「月光」(Op35-22)を例にとれば、メロディラインをセゴビアは1弦と2弦の組み合わせであるが、イエペスは極力2弦で奏されるような運指の選択をしている。
現在はセゴビアの運指を使用する方が殆どであるが、このソルの「月光」に関しては、私はイエペスの運指の方が音楽的に優れていると確信している。





セゴビアの運指はややアルベジオ的な聴こえ方がするが、イエペスの運指はメロディラインが浮き彫りにされて聴こえてくる。
勿論メロディラインはアポヤンド奏法である。

アルペジオの形態を取りながらも旋律のある練習曲には上記のソルの月光の他、カルカッシ25の練習曲(OP.60)の第19番があるが、旋律部を浮き彫りにすべくアポヤンドで奏しなければならない。
このような形態をとる練習曲には他にソルのOp.6-11があるが、この曲もセゴビアとイエペスとで運指の付け方が大きく異なっている。
特に転調して最後の部分のメロディラインに顕著な差が見られる。





この運指の決定は、奏者の音楽に対する解釈、感受性、信念によるものであり、奏者の熟考された上での決定はそう簡単に揺らぐものではない。
逆に揺らぐようであれば、奏者の音楽的な信念は土台を形成されるに至っていないと思われる。

上記の話は独奏での考察であるが、合奏ではどうだろう。
ギターという楽器ほど様々な運指が出来る楽器は無いと思う。
技術的側面による運指法は別として、音楽的解釈に基づく運指は異なる設定(付け方)が出てきて当然である。
合奏という側面により、統一的要求から自分に合わない運指をやむ無く採用せざるを得ない場合もある。
自分に合わないとは、技術的側面の場合もあるが、音楽的側面から来る根本的相違によるものもある。
合奏は指揮者、指導者の要求に応えるのが第一義的に必要とされるところであり、その要求に応えるベく、最適な運指を考察し選択する。

非常に難しい問題であるが、合奏曲での運指の設定は、究極的にはその曲の音楽的理解度如何により決定付けられるものであり、その意味では正解が限りなく1つに近いのかもしれない。
その正解、すなわち作曲者の感情そのものといってもいいだろうが、作曲者の感情に真に触れることのできる感受性が無いと運指はあらぬ方向に行ってしまう。
運指がどうのこうのの前にまず、曲の持つ根源的なのもの、それは作曲者の感情や時に思考そのものであるが、これらをそのまま感じ取れる感受性を得られるように努力することが最も大切であり、運指の選択はその感受性を通して表出された音楽的表現を昇華させるための手段だと認識したい。
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