最近、吉熊上司や会長、社長、副社長に話しかけるとき、必ず前傾姿勢を取り、手を前で合わせている。
面接試験まであと二日。動きは普段の仕事で練習している。
副社長に書類を持っていったら、
「暑いね。もうすぐ夏休みだな~。え?」
と呟かれた。
「ええ、そうでございますね」
と、前傾姿勢で対応。
「あなたは実家に帰るのか?」
と副社長。
ここで下手気なことは言えない。昭和一桁生まれで軍国少年だった彼には遊びや旅行やバケーションという単語は禁句。
欲しがりません、勝つまでは。
月月火水木金金。
贅沢は敵だ。
民主主義?何それ、うまいの?
という感じである。
「ええ」
しれっと対応。
本当は、小樽、旭川、登別、函館を満喫するんだがな。
「あなた、出身は?」
と副社長。
「栃木です」
と私。
そこから、一気に彼の青春時代についてを聞かされた。
彼は栃木に疎開をしていたらしい。
県の南に位置する旧制中学を出たとのこと。
当時、村では旧制中学に入る子なんて1人か2人だったらしい。
「副社長、昔からご優秀だったのですね」
と私。
てか、旧制中学って!
なんだか重々しい響きである。
私の出身高校も、昔、旧制中学だった。
急に高校1年生の時の現代社会の先生を思い出した。
若林先生といっただろうか。
彼はあの学校が旧制中学だったときの卒業生である。
私の大先輩だ。
若林先生はことあるごとに、自らの中学時代のことを話していた。
軍事教育一色の青春のことを。
勉強よりもゲートルを巻いて、援農動員をさせられていたと。
修学旅行なんてなかったんだよって。
彼の言葉にはいつも「君たちは平和な時代に生まれて、いいね」という気持ちが微かに内包されていて、聞いてて切なくなったものである。
ある日の授業の内容はとても強烈で、いまだに覚えている。
若林先生は、目があまり良くなくて、徴兵検査に落ちた。
落ちたときは、「お国のためになれなかった」と、悔し涙が頬に一筋流れていったとのこと。
しかし、合格した友達は戦場で皆死んでしまった。
話のあと、旧制中学の校歌を熱唱し終えた若林先生は、泣きながら教室を出ていった。
あまりの衝撃で休み時間になっても教室は静まり返り、女子の数人が泣いていた。
死んだ友達への想い、
ろくに学べなかった悲しさ、
兵役検査に落ちた悔しさ、
彼のさまざまな感情は、平和な時代においては「あの戦争はいったい何だったんだろう」という疑問として、戦後も自身の中にいつもあったのだろう。
やはり戦争の残した功罪は大きい。
「旧制中学」という副社長の一言で、ずっと忘却の彼方にいた若林先生のことを想いだし、物が豊かに溢れ、生き方を選べる現在の平和の有りがたさに改めて気づいた。
てか、副社長の話の間、ずっと前傾姿勢を取っていたので腰が痛い。
★追伸★
帰宅後、高校の「創立70年誌」を開いてみた。
今まで一度もまじまじと読んだことがなかったのに。
(回想録に若林先生がいた!懐かしい。)


戦時中に兵器庫として使用されていた建物。
私の在学中はブラスバンド部の部室だった。
今はもう取り壊されてないらしいが。


面接試験まであと二日。動きは普段の仕事で練習している。
副社長に書類を持っていったら、
「暑いね。もうすぐ夏休みだな~。え?」
と呟かれた。
「ええ、そうでございますね」
と、前傾姿勢で対応。
「あなたは実家に帰るのか?」
と副社長。
ここで下手気なことは言えない。昭和一桁生まれで軍国少年だった彼には遊びや旅行やバケーションという単語は禁句。
欲しがりません、勝つまでは。
月月火水木金金。
贅沢は敵だ。
民主主義?何それ、うまいの?
という感じである。
「ええ」
しれっと対応。
本当は、小樽、旭川、登別、函館を満喫するんだがな。
「あなた、出身は?」
と副社長。
「栃木です」
と私。
そこから、一気に彼の青春時代についてを聞かされた。
彼は栃木に疎開をしていたらしい。
県の南に位置する旧制中学を出たとのこと。
当時、村では旧制中学に入る子なんて1人か2人だったらしい。
「副社長、昔からご優秀だったのですね」
と私。
てか、旧制中学って!
なんだか重々しい響きである。
私の出身高校も、昔、旧制中学だった。
急に高校1年生の時の現代社会の先生を思い出した。
若林先生といっただろうか。
彼はあの学校が旧制中学だったときの卒業生である。
私の大先輩だ。
若林先生はことあるごとに、自らの中学時代のことを話していた。
軍事教育一色の青春のことを。
勉強よりもゲートルを巻いて、援農動員をさせられていたと。
修学旅行なんてなかったんだよって。
彼の言葉にはいつも「君たちは平和な時代に生まれて、いいね」という気持ちが微かに内包されていて、聞いてて切なくなったものである。
ある日の授業の内容はとても強烈で、いまだに覚えている。
若林先生は、目があまり良くなくて、徴兵検査に落ちた。
落ちたときは、「お国のためになれなかった」と、悔し涙が頬に一筋流れていったとのこと。
しかし、合格した友達は戦場で皆死んでしまった。
話のあと、旧制中学の校歌を熱唱し終えた若林先生は、泣きながら教室を出ていった。
あまりの衝撃で休み時間になっても教室は静まり返り、女子の数人が泣いていた。
死んだ友達への想い、
ろくに学べなかった悲しさ、
兵役検査に落ちた悔しさ、
彼のさまざまな感情は、平和な時代においては「あの戦争はいったい何だったんだろう」という疑問として、戦後も自身の中にいつもあったのだろう。
やはり戦争の残した功罪は大きい。
「旧制中学」という副社長の一言で、ずっと忘却の彼方にいた若林先生のことを想いだし、物が豊かに溢れ、生き方を選べる現在の平和の有りがたさに改めて気づいた。
てか、副社長の話の間、ずっと前傾姿勢を取っていたので腰が痛い。
★追伸★
帰宅後、高校の「創立70年誌」を開いてみた。
今まで一度もまじまじと読んだことがなかったのに。
(回想録に若林先生がいた!懐かしい。)


戦時中に兵器庫として使用されていた建物。
私の在学中はブラスバンド部の部室だった。
今はもう取り壊されてないらしいが。


