世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

ナラタージュの蟻

2005年09月24日 23時07分31秒 | Weblog
過去に恋をする、
過去に恋をする自分に恋をする自分を解析してみた。

過去とは死んだ時間だと誰かが言ってた。
確にそうだ。
過去から学んだことを教訓として活かす手段はあるが、
過去を今に蘇生することはできない。

最近の私は死んだ時間に恋をしている。
いや、恋とは堕ちるものだ。するものではない。
…これも誰かが言っていた。

過去=死んだ時間。

死体に寄り添い、精気を吸い取られる童話の主人公のような私。

過去に恋するメリットとは傷付かないでいられることである。
反芻・懐古で蘇った思い出は、私の中で勝手に美化された心地良い玩具である。
玩具は私を傷付けない。邪魔もしない。
都合の良い時だけ取り出せる。


玩具欲を恋と錯覚している自分を充分認識している。
でも、もう少し、あと少し、この気持ちを私の中で舐っていたい。

高校時代、友達が「味が薄くなったガムを吐き出して、下敷に付けて扇いでまた食べると味が蘇る」って言っていた。
私は彼女の発言を信じたい。甘い過去が蘇るのならば…。

しかし、過去に恋することは、甘いばかりではなく、切なくて、辛くて「早くこんな気持ちに飽きれば良いのに」とさえ思う。
そんな祈りは焦りに変わりつつある。
「逃げなくては」と思うほど蟻地獄に引き込まれる蟻になった気分である。

堕ちていく蟻は、蟻自身、ある種の快楽を得ているに違いない。
このままではいけない、と思いつつも、このまま堕ちていったら「このままではいけない」という焦りから解放されることに気付いている筈だから。
今の生活と過去を天秤にかけ、今の生活の方に少し重みを感じる私は、完全に堕ちることはないだろう。
そのことも熟知している。
だから私は堕ちてゆく過程を客観視して、この文を打てるのだと思う。


過去に恋する。
過去に堕ちていく。
どうすることもできない。
…確信犯的であっても。

今はただ堕ちていく中で、過去という舞台に輝く一筋の幻の光だけを見ていたい。
あと少し
もう少し…




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