晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

遠藤周作 『父親』

2020-01-06 | 日本人作家 あ
松の内は7日まででしたっけ、10日でしたっけ。
ま、いずれにせよハッピーニューイヤー。
昨年は当ブログの駄文にお付き合いいただきありがとうございました。また今年もいろいろとよろしくお願いします。

さて、勧められはするんですが読むタイミングを逃してあまり読めずにいて、でもたまたま未読の作品を見かけると「読んでみようかな」と手に取ってしまう作家さんといえば、五木寛之さんと遠藤周作さん(あくまで個人の感想)。

タイトルが『父親』というくらいですから、家族関係のゴタゴタ?と思い表紙の裏のあらすじを読むと恋愛小説っぽくもあるし、なんだかよくわからないけどとりあえず面白そうだな、と。

この物語の時代は1970年代後半から80年代前半くらい。まだバブルには突入してません。化粧品会社に勤める菊次は定年後に京都移住を計画しています。そんな菊次と妻のあいだには娘と息子がおり、娘はスタイリスト会社の社員。この時代にOLって言葉は定着してたんでしょうかね?弟は大学生。

菊次は大学生のときに終戦を迎えた、いわゆる(戦中派)と呼ばれる世代。娘は戦後生まれで「戦後強くなったのは女性と靴下」という言葉が適切かどうかは置いといて、それまでの価値観とは全く違う女性。このふたりのジェネレーションギャップが話の核になるのですが、菊次にとって、会社の部下の言動や娘の言動には「けじめがない」と嘆いています。一方、その部下や娘にとっては「その考え方は古い」。

菊次は新商品開発の担当になったはいいのですがそう簡単にはいきません。さらに菊次にとって、会社での問題よりもさらにヘビーな問題が勃発します。それは、娘の純子の好きになった男というのが、なんと妻子持ちで・・・

純子と不倫関係となった男、宗と菊次は、じつはまったくの赤の他人というわけではなかったところがまたこの問題をややこしくしているわけではありますが、それはさておき、こういうケース、つまり不倫の男側のお決まりのセリフといえば「今は妻とは別居中、近いうちに必ず別れる」。
こんなの戦中派だろうが純情派だろうが「あーこの男ダメだ」と思うのですが、当人の純子からしてみれば(自分の幸せの前に立ちはだかる障壁)ぐらいの感覚で「宗さんは私といるときのほうが幸せだと言ってくれるんだし、だったらそれでいいじゃない、一番大事なのは当人の幸せよ」というスタンス。

菊次たちの世代にとってのプライオリティは「恥ずかしくない生き方」なのですが、菊次の大学の同級生は全員が全員復学できたわけではありません。つまり生きて帰ってこれなかったのです。そんな彼らに今の日本という国は「見せても恥ずかしくない」のか。
ところが純子ら戦後生まれは父親の世代の考え方が分かりません。というより、知ろうとすることを避けているのかもしれません。
と、まあ、そんなこんなで結末は「それみたことか」(オチは書きませんが)になっちゃうわけですが、そこがメインテーマではなく、やれジェネレーションギャップだ新人類だ言われますが、人間そのものがよっぽど変わったわけでもないので、やっぱりやっちゃダメなことはやっちゃダメ。

奈良時代の書簡に「最近の若いやつらの考えてることが分からん」といった文があったとかで、それ以前からもジェネレーションギャップっていうのはおそらくあったわけでして、先日チラッと見たNHKでしたっけ、俳優の香川照之さんの虫はスゴイとかいう番組で「ほとんどの虫は親に会ってない。卵を産んだら死ぬから。親からああしなさいこうしなさいと一切教わらない。でもその子たちは残された遺伝子の情報だけで生きてまた次の世代に繋げてゆく」と熱弁されていて、近代日本でも明治維新と太平洋戦争と2度も価値観が180度ひっくり返る大転換期があって、それこそ大人たちは自分が生き残る、順応することで精いっぱいで後進の育成はおろそか、おざなりだったと思うのですが、ところが(いちおう)世の中はまわってますし、日本は滅んでいません。親(大人)世代がどんなに憂いても嘆いても次の世代は勝手に育っていくんですね。で、また同じように子ども世代を憂いて嘆く。


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