やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

黄昏

2005-12-16 | 神丘 晨、の短篇
 なんということになってしまったのかー。

 ヨハネス・ブラームスは、仕事部屋の小さな窓を見ながら、ため息を飲み込んだ。
 新たな若葉を付けたばかりの木々の間から、小さな沼が見えた。水面は五月の光を散らし、幾筋かの光が窓のガラスに当たっていた。
 遅い冬が終わったのは、ひと月ほど前だった。
 保養地バート・イシュルの高台にある別荘の中で、ブラームスは身じろぎもしないで外をみていた。神が現在の自分に許しているのはそのことだけだ、というように椅子に深く身体を預けていた。
「だんなさま、食事は如何されますか?」
 小さなノックの後に、メイドのエリザベートの声が続いた。部屋の中のブラームスにやっと聞こえるほどの、か細い声だった。
「有難う。しかし、今は何も欲しくはない。暫くしたら、薄めのコーヒーをもって来てはくれないだろうか。今は、それだけでいい」
 エリザベートは気を使って、物音ひとつ立てないで部屋の前を去った。

 長旅の疲れが身体の中まで溜まっていた。
 六十歳を過ぎた身体には、四十時間近い汽車の旅は確かに応えた。いちどウィーンに戻ったが、そのまま逃げるように別荘に潜り込んだ。ボンから戻って一週間が過ぎたが、身体の節々の痛みは増すばかりだった。
 好きなこの地で一ヶ月もゆっくりすれば痛みは和らぐかもしれない。しかし、この歳になって空いてしまった気持ちの隙間は埋めようも無い気がした。このまま、歳を重ねてゆくのは、耐え難い苦痛以外の何ものでもなかった。

 結局、クララの葬儀に立ち会うことは出来なかった。
 訃報の連絡がウィーンの住所に送られてしまったのは仕方のないことだった。
しかし、なんとした事だろう。
 よりによって、私は何故あの時期にこのイシュルにきて仕事などをしていたのだろう。別に急がれていたコラールでもなかった。書けなければそれで済んだ仕事だった。もう、ほとんどの仕事はなし終えてしまったはずなのにー。

 六十三歳になったブラームスの元へ、クララから祝いの手紙が来たのは三週間前だった。
 たった、三週間前だ!
 三週間前には、クララから私の元へ、祝いの手紙が届いていたのだ!
 それがどうしたことだ。今は、もうクララはこの世にはいなくなってしまった!
 ブラームスは、羽根ペンを一度持ち、無造作に目の前の窓に向かって投げつけた。

 クララからの手紙は、ブラームスの誕生日の二日後に届いた。祝いに駆けつけた友人たちは、まだ幾人かはブラームスの元にいた。
 音楽評論家のマックス・カルベックは、誕生日の祝賀に真っ先にブラームスの家を訪れ、クララの手紙が届いた時もまるで大事な花束を持つようにブラームスの元へ届けた。
「ヨハネス! 最愛のクララからの手紙だ! 彼女は病の床にありながら、ご覧よ、こうしてしっかりと貴方の誕生日を忘れずに手紙を送ってきた! クララに乾杯! クララに祝福を!」
 すこしおどけるようにしながら、カルベックは封筒をブラームスに渡した。カルベックの姿を可笑しそうに見ながら、ブラームスはその手紙を受け取った。小さな老眼鏡を鼻に乗せると、ゆっくりと封を切った。

―心からのお祝いを
 心から愛する貴方のクララ・シューマンより。
 もうこれ以上、うまく書けません。
 でも、あるいは間もなく、貴方の…

 ブラームスは、覗きこむようにして待っているカルベックに手紙を渡した。目を凝らすようにして手紙を読み始めたが、暫くすると小さくため息をついた。
「ヨハネス? 貴方は、この手紙が読めたのかい? 私にはとても読めない。最初の数行は何とか判るが、その後はまるでー」
 そう言って、手紙はブラームスの元へ戻された。
 確かに手紙の文字は幼子の悪戯書きのように曲がり、そして時折鉛筆の文字はかすれていた。
 ブラームスは、すこし口元に笑みを浮かべると、ゆっくりとロッキングチェアを動かした。

 私には、みんな判ったよ、クララ。
 貴方の字は四十年間も慣れ親しんでいるのだ。例え一本の線で書かれていたとしても、例えひとつの円で書かれていたとしても、すべてそれは私への言葉なのだ。
しかし、とブラームスはその手紙の文字を見ながら、老いたクララの姿を思いやった。確かに、その文字の弱さには、かつての勝気なクララの姿は微塵もなかった。数年前に、ローベルトの交響曲を編曲し、「そんな勝手なことは許されません!」とブラームスに激しく抗議したクララの姿はなかった。
 
 ブラームスが息せき切ってフランクフルトに着いたとき、クララの葬儀は既に終わり、その亡骸は夫ローベルトに寄り添うべくボンに運ばれた後だった。
 ブラームスは再び駅舎に向かい、太った身体を硬い座席に沈めた。車窓からは、冬が終わったばかりの南ドイツの景色が流れてゆくだけだった。
 なんということだ。
 私は、クララの亡骸にひと目も逢えないままで、残りの日々を過ごさなければならないのか。
 あなたに対して、それほどの罪を犯してしまっていたのか。
 
 ボンにたどり着いたブラームスは、迎えの知人の手を払うように「クララの所へー、クララの棺へ」と、うなされるように言った。
いつもは太った身体をいたわるようにゆっくりと会話をするブラームスが、まるでうわ言のようにクララの名前を呼び続けていた。
 ブラームスの姿をいち早く見つけたのは、クララの孫のフェルディナントだった。
「ヨハネス様! ヨハネス様! こちらでございます!」
 ブラームスの手を取ったフェルディナントは、既に涙が止まらなかった。
 孫のフェルディナントに五月七日がブラームスの誕生日であることを言われて、クララは脳卒中の病床にもかかわらず、「それは大変!」と鉛筆と紙を持ってこさせた。フェルディナントは、そのときのクララの顔色に少し赤みがさしたのをはっきりと覚えています、とブラームスの手を取りながら話した。
 ブラームスは、「有難う。クララの分も含めて、改めてお礼を言います」と言った。差し出した両手の甲に大粒の涙が落ちた。

 小さな酒場の景色が浮かんできた。薄汚れた酒場だった。
低い天井に木製の古い梁がむき出しになり、壁の漆喰はすでにその白さを失っていた。場所は解からないが、間違いなくハンブルクの酒場だ。
 私を生み、しかし決して私を受け入れることのなかったハンブルクの町!
父親の姿が見えた。十人ほどの楽団の隅で、下を見ながらコントラバスを弾いていた。ヨハネスの姿も見えた。化粧の濃い娼婦達に囲まれながら、小さな身体をピアノに向けていた。遠慮のない笑い声が酒場の中に充満していた。
「ヨハネス坊や! そんなしみったれた曲じゃなくて、もっと愉快になる曲を弾きなよ!」
 ブラームスを可愛がったジプシーの女たちは、いつもそう言いながら豊かな胸をブラームスの顔に押し当てていた。
 喧騒と、酒の匂いが充満していた。
 貧しい日々だった。本当に貧しい生活だった。
しかし、貧しいことは、決して苦痛ではなかった。
少し傾いた木造のアパート。低い天井の下で暮らした日々は、先も見えない日々だったが、今の私のように、こんなにも心が痛みはしなかった。

 結局、私のせいなのだ。
 クララを失ってしまったのは、間違いなく私のせいなのだ。
 考えれば、私はこの歳になるまで、自分の妻と、その妻と暮らせるような家も持たなかった。持てる時間も、財力も余るほどに持ち合わせていたのにー。
 クララを迎え入れる事だって、きっと出来たはずだ。如何にクララが喪に服すと言っても、ローベルトが亡くなってもう幾十年もたっていたのだ。
 結局、臆病なだけだったのか。
 ローベルトや、クララのお陰は勿論あったが、今の私は、私の力でここまで来たのだ。確かに、敬愛するモーツァルトのような軽やかで、けれどとてつもなく深みのある音楽は造られなかったけれど、しかし、私を、私の音楽を支持してくれる若い人たちも幾人もいる。
 三週間前にも、カルベックが怒ったように言っていた。
「ヨハネス、貴方は余りにも自分を責めすぎる。確かに、貴方の完璧な性格はわかる。それがあったからこそ、貴方の作品は、全てが傑作の誉れが高いものばかりだ。
しかし、考えてもみてください。貴方が出版を許した弦楽四重奏曲は何曲? たったの三曲だ。しかし、破棄されたものはおそらく二十曲以上はあったのだろう。私が見る事を許された幾つかの曲ですら、既にあのベートーヴェンを上回っていたかもしれないというのにー。それを貴方は、まるで暖炉にマキを入れるように、いとも簡単に破棄してしまった。
 既にあの厭わしいワーグナーも去り、貴方は名実共にこの世で随一の作曲家になっているのです。
 貴方の作り出す一音一音が、やがては人類の財産になるのです。どうか、埋もれている作品があれば、ぜひ見せてください」
「有難う、カルベック君。
しかし、今さらそれを言ったところで、私の性格が変わるものでも、貴方の言われた楽譜が灰の中から蘇って来るものでもない。言っておくが、私はいたずらに楽譜を処分した訳ではない。作品の数なんてものは私には意味の無いことだ。僅かでも破綻のある作品を自分のものだといって、世に出すのは死ぬより辛いことなのだよ」

 窓から差し込む光が、天井に幾筋もの帯を作っていた。
 ブラームスは、クララの棺の埋葬を思い浮かべていた。フェルディナントに手を添えられてたどり着いた墓地では、既に埋葬が始まっていた。
「クララ! 待っておくれ。 クララ!」
 泣く様な声に、参列の人たちが一斉に振り向いた。ざわめきが止まらなかった。
 その間をかき分けて、ブラームスは、転がるように棺の元へたどり着くと、ひとかけらの土を棺の上に乗せた。

 これだけか!
 たったこれだけか!
 四十年間も貴方を慕いながら、最後に私に許されたのは、貴方への悔みも伝えられず、このひとかけらの土だけか!

 ブラームス先生ですよね、と確認しあう声が参列の夫人たちから幾度も聞こえていた。