書評 帝国憲法の真実 倉山 満 扶桑社新書 165 2014年刊
気鋭の歴史学者で所謂ポツダム史観・東京裁判史観というものに「タブー視せずにおかしい事はおかしいと言おう」という論陣を張って人気を得ている人が書いた、大日本帝国憲法と現行憲法との比較です。
著者は法学者ではないものの、氏自身が憲法研究の専門的研究会にも属して長年研究をし、また教鞭を採っていた事もある由で生半可な知識で解説していることはなく、説明も論理的です。しかし言及はされていませんが、前提となる立ち位置が帝国憲法の時代を「良し」とするものであることからくる種々の根本的な違いについての言及はありません。例えば、憲法は「その民族や国家の成り立ちをふまえた国家のありようを規定した最も基本的な法」であるべきだと述べているのですが、この考え方が正しいかどうかの議論はありません。以前書評で紹介した小室直樹氏の「憲法とは国家権力への国民からの命令である」という本は題名の通り憲法のありようを定義したものですが、これは既に倉山氏の主張とは相容れないものです。現行憲法は英米法的な「法の支配」を前提として国家権力も法の規定の下にのみ国民の自由を制限できるというものであり、本来無限の自由を持つ個人がその自由の一部を国家に差し出すことにより社会を成立させ、逆に国家からの保護を受けるという論理に基づいています。しかし、歴史的な成り立ちから国家のありようを定めたとされる帝国憲法の考え方からは、憲法は国民のありようも規定してよいことになります。氏が主張する帝国憲法1-4条に規定された「国体」こそが日本国のありようの根本を定めた規定であってポツダム宣言においても「国体の護持」は保証されたのだから、現行憲法においてもこれを変えては行けない、という主張は憲法の定義をどうとらえるかを議論しないことには受け入れる事ができない主張といえます。
著者は現行憲法については内容も国語的文体も欠陥だらけであり、その目的とするものは米国(マッカーサー)が「日本人が二度と立ち上がって米国に反撃する事ができないようにするための呪い」であると喝破し、各所に現実と相容れない所や拙速仕事による齟齬があるとかなり批判的です。確かに憲法前文や9条の規定、政教分離などは現実的でない部分や理解不能の部分を含みますし、第7条の4号天皇の国事行為に「国会議員の総選挙の施行」というありえない規定が示されて(本来は国会議員の選挙)明らかな誤植も改正できないという指摘も尤もだと思います。また自民党の改憲案も著者は現行憲法に国民のあるべき姿を付け足した内容であって宜しくないと否定的です。
私自身は確かに現行憲法には不十分な部分があるとは認識していますが、これで戦後70年日本は平和で繁栄した国を築いてきたのですから、慌てて変える必要はないと考えています。強いて言えば9条に「日本国内における専守防衛のために自衛隊を置く」の一文を加憲すれば十分だろうと思っています。日本の憲法は米国に押し付けられたものではありますが、だからこそ戦後の米国の戦争に付き合わずに済んだという事実が大きいのです。今改憲したり、解釈を変えたりすることは「米国の戦争に付き合えるようになるという結果」しかもたらさず、それが「日本の国益に資さない」ものであることが明らかであるから変えるべきでないと私は考えています。改憲して米国の戦争に付き合うことが日本の国益にどのように資するのか、付き合うことで日本国民がどのように幸福になり、諸外国から尊敬されるようになるのかの議論がないから「改憲論者こそが売国奴だ」と私は思うのです。米国からは改憲して戦争の使い走りをしてくれるようになれば口先では良い事を言うでしょうが内心「心からバカにされる」ことは明らかです(せっかく戦争しなくて良い方便があるのに自ら捨て去るとは、私が米国人ならバカにします)。米国にとって、改憲されるより今の日本の方がよほど扱いにくい存在なのです。
倉山氏もこの本において、その辺の議論はなされていません。そこをしっかり書いてもう一度帝国憲法を見直してゆくのならばもっと共感できるところが出てくるように感じました。