書評 「絶望の裁判所」講談社現代新書2250 2014年刊 瀬木比呂志 著
「日本の裁判」 講談社現代新書2297 2015年刊 瀬木比呂志 著
元裁判官で明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志氏が、旧態とした閉鎖社会の裁判所の実態を暴露し、司法界に旋風を巻き起こしたとされる著作で、「絶望の裁判所」では最高裁を頂点とする官僚組織としての裁判所の実態を描き、裁判官個々の正義を追求する判断・判決を求めることが制度上できない仕組みになってしまっていることが示され、1年後に出版された「日本の裁判」ではこのような硬直した裁判所組織から出された数々の矛盾・誤謬に満ちた判決を例示しながら、日本における裁判の実態を具体的に描出します。
日本の統治体制は三権分立と言いながら、立法は官僚が作った法案を審議するのみであり、司法も統治行為に関わる判断はしないから行政(官僚)独裁体制であることは中学くらいになると社会科の先生がこっそり教えてくれていましたし、子供ながら「そんなものか」と何となく納得していました。それでも私が中学生であった1970年代は、米ソ冷戦の最中であり、中国は文革が燃え盛り、日本においても経済学は「マルクス経済」以外は大学では亜流とされていた時代。「共産主義は正義」「資本主義は悪」と本気で信じている人が日本のインテリ層に半分はいた時代でした。日本の法学者も裁判官を含めて左翼系の思想を持った人達がかなり多く、反体制的な判決も下級審においては頻繁に出されていたと記憶しています。当時は世界情勢も流動的であり、東西の接点であった日本で司法、特に最高裁が反体制的な判決を下して政治に影響を与えることはまずいという判断は仕方がないことのようにも思われました。
私は愛国者で自国を守る軍隊は必要とずっと考えていたので、周囲からは「軍国主義者」と呼ばれていましたが、家は貧しかったのでプチブルの友人達が変に左翼ぶっている事にはかなりの反発心を持っていました。大学では当時でも数少ない「自衛隊合憲論」の教授に憲法学を教わり(生徒2名だった)、自衛隊の所以外は他の憲法学者の解釈どおりであったので今でも憲法や法に対する基本的な知識は大切に思っています。
1990年代までは左翼=反体制であり、左翼的思想が正義を代弁するという観念もあったことから「体制に固執」することには「ある後ろめたさ」が伴っているものでした。しかし社会主義体制が滅びると、体制と反体制の力関係の緊張がなくなり、体制の維持に「後ろめたさ」が伴わなくなったことは確かです。また「資本主義」や「自民党政治」「日米同盟体制」に反する事と旧来のマルクス主義的左翼思想とは別物であるはずなのに、マルクス主義が否定されてしまったとたんに日本においては「反体制」という概念自体が消滅してしまったようなのです。そうした結果、裁判所という組織においても官僚的な体制維持の統制が「後ろめたさ」なく幅をきかせるようになり、現在では最高裁事務局の統制に従わない者は一生浮かばれないというヒエラルキーが完成してしまったというのが本書の底流をなすものです。
裁判官は体制に関わらない「小さな正義」の実現は可能なるものの、体制に関わる「大きな正義」には頬被りをして触れないようにして過ごす。その小さな正義に対しても事務処理をこなすが如くに件数をさばく、特に民事においては強引にでも和解を成立させることが裁判官の能力評価につながっている。刑事事件においては裁判員制度が導入されたが、それは一般の市民の感覚を判決に導入する目的ではなく、刑事裁判を扱う裁判官(民事と刑事を扱う裁判官が別れていることは知りませんでした)の勢力を強める意図があり、実際成功している、といった指摘は成る程と思わせるものでした。
著者は日本の閉塞した裁判所社会を改革するには、司法の一元化、つまり裁判官、検事、弁護士が適宜入れ替わりで司法を努める制度でないといけないと提言します。米国では司法の一元化がなされており、ベテランの弁護士が裁判官になったり、地方検事になったりしますし、法や裁判のやり方も州によって異なります。よく紹介するテレビ番組「Law & Order」でも地方検事補をしていた検事が別のシーズンで弁護士として登場します。日本では「やめ検」「やめ判事」としての弁護士はいますが、ほぼ一方通行であり、高裁の裁判長が数年前まで弁護士であったといった事例はありません。医師の世界では勤務医、開業医、学者、教育者、内科外科、行政の保健所長など、どの世界にも比較的自由に転職ができ、一元化は達成されていると思います。司法試験という単一の国家資格を持った限られた人達が司法の一元化を図ることは決して国家資格のない一億の日本国民が反対するものではないだろうと思います。反対するのは司法の資格を持った人達のそのまた一部に過ぎないと思います。著者が指摘するように、司法の一元化によって日本社会が得られる果実は想像以上に大きいものになるはずです。何より司法の権威や社会の期待が今までとは全く違ったものになるはずです。一票の格差の問題でも「違憲状態」などという法律判断はないのです。「違憲」か「合憲」の二つしか判断はないのであって、違憲状態で改善が望ましいなどという法律判断は存在しないというのが本来の姿ではないでしょうか。「違憲」であれば「現状を変える」か「憲法を変える」しかないのです。米国のように憲法を「修正・・条」という形に変えて行くのは人間社会において当然の事のように思います。日本では改憲論議というと憲法全てを作り替える話になってしまうので一歩も進まなくなります。9条の問題も「専守防衛と国際救難活動の目的で自衛隊を持つ」という条文を加えるのみであれば、国民の2/3以上の賛成は得られるのではないでしょうか。「閣議決定で憲法解釈を変えて集団的自衛権を容認し、自衛隊を海外派兵して戦闘ができるようにする」などというのは法治国家の常識を覆す暴挙としか言いようがありません。この決定に違憲の判断を下さない司法など存在価値さえ疑われかねないと私は思います。
昨年ある医療裁判にかかわる機会があって、民事ではありますが、専門家の意見(expert testimony)を求められました。医療過誤裁判は2000年代に入ってからかなり質の悪い「結果が悪ければ医療ミス」といった物が目立ち、萎縮医療につながり、医療者にも患者にもプラスにならないと憂慮していたことは以前のブログでも述べました。詳細は書けませんが、今回関わったケースはそれでも医療者側にある程度瑕疵があると考えざるを得ないものであり、客観的なデータを添えていくつかの争点についての意見を裁判所に提出しました。複数の医師が意見提出を行ったのですが、概ね同じ意見であったと聞いています。先頃第一審の判決が出たのですが、内容は私(や他の医師)が出した意見が反映されていてよく練られた納得できる内容のものでした。
そのような事もあり、「裁判官は皆なっていない」といった画一的な判断を下す気持ちはありませんが、「子供が蹴ったボールで交通事故が起きたらその場にいなくても親が責任を取れ」、といった判決や「認知症の老人が踏切事故を起こしたら同居していない子供まで賠償責任が生ずる」といった素人から見ても?な判決、医療過誤裁判における「結果が悪ければ医療ミス」と判断されるような低レベルの判例があることも確かです。日本の未来のために、文系上位1%の上澄みの人達からなる日本の司法官世界の改善を大いに望みたいと思います。
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