2016年8月8日に放送されたビデオによる今上陛下の「生前譲位希望」を示唆するお言葉に対して、各界や安倍総理のコメントなどその対応を巡って議論が交わされています。私は結論的には現行法制通りに摂政を立ててご逝去されてからの新たな即位で全く問題ないと思っています。日本は天皇存在の有無に関わらず民心が動揺する事は無いと考えるからです。しかし改めて天皇の存在を考える時、日本国憲法の第一条に規定されているからには日本国のあり方を考える上で非常に重要な存在であることは明らかと思いますし、再度憲法との関わりについて検討してみるべきであると思いました。
まず日本国憲法と大日本帝国憲法の構成を比べてみると、その構成が殆ど同じであることが解ります。押しつけ云々と言われていますが、日本国憲法は大日本帝国憲法からの移行にパッと見で違和感がないよう配慮されていて、何よりポツダム宣言受諾において必須とされた「国体の護持」が保たれている事を印象付けるように第一章に天皇を置き、天皇が日本国において最初に規定されるべき存在でしかも「今後も存続する」存在であることが示されています。そして今までになかった戦争放棄の規定を二番目に配置して、帝国軍の無条件降伏とこちらは「存続の否定」が明示されたのです(帝国軍の消滅であって専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は別と私は思います。だからこそ帝国軍的な行動を取りかねない海外派兵はもっともらしい理由があっても絶対不可なのです)。それ以降の構成は国民主権、基本的人権の尊重に基づいて帝国憲法に類似の構成で国内の基本的規範が憲法上規定されたと考えれば分かりやすい内容です。
この構成は合衆国憲法とも全く異なりますし、同じ立憲君主制のオランダ憲法とも異なります。また同じ敗戦国であるドイツの基本法ともかなり異なることが解ります。
私は日常生活において天皇のことなど考えることはありませんし、尊敬はしていますが「絶対」の存在などではなく、天皇機関説、超特別職国家公務員(職業選択の自由がなく任免罷免の明確な規定もありませんが)であると考えています。だから本人が何と言おうが、法律に基づいて粛々と公務を行い、過ごされるのが良いと考えます。昭和大帝もそのお考えで亡くなるまで粛々と過ごされていたものと理解しています。「老い」も皇室典範に規定される身体の不治の重患と考えれば良いのであり、皇室会議の議により第十六条の規定通りに摂政を置けばよいだけの事です。これは日本国憲法の第五条にも銘記された事項です。最近、突然「にわか天皇崇拝者」が増殖して、今上天皇が特別のおことばを述べたからには、その遠回しに希望された内容を直ぐにも叶えなければ「不敬」と言わんばかりの雰囲気が世間に溢れていますが、噴飯ものと言わざるを得ません。現行の法律通りに皇室運営を行うことで困る国民は一人もいません。むしろ無理矢理法改正をしようとすることで不要な皇室論議が惹起されて、必要の無い生前譲位や女系天皇論で国論が二分される事になり、かえって国内が乱れる元になるのです。
摂政を置いて、近上天皇が理想とする国事行為を粛々と摂政となる東宮は行う。皇太子は置かない。現行の秋篠宮が今行っている事と同様の皇室外交を秋篠宮家が継続すれば良いだけのことです。宮内庁ホームページにおいて紹介されている「陛下のお言葉」における象徴天皇としてのあり方、考え方は実に正しいと思います。しかし、譲位して天皇でなくなれば、逝去された時の儀式を省略できて国民が楽であると言うお心遣いは無用です。逝去における喪をどう過ごすかは国民の側に託された宿題であって、それをどのように受け止めるかを国民が決めることこそが憲法第一条に規定された「・・この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」の思想を体現することになると私は思います。畏れながらそれを陛下が勝手に決めてはいけません。
残念ながら種々のブログや有識者の意見などにもあまり私のような意見は見当たらないのですが、もう一度日本国憲法の精神に戻って、憲法に規定された通りでは何故いけないのか、(天皇の個人的希望ではなく)憲法の精神を一番尊重するにはどうすれば良いのかを冷静に議論する事が大事なのではないかと、憲法の精神をないがしろにしがちな現行安倍内閣を見るにつけ思います。