rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

合理的であることも邪魔になってきたアメリカ社会

2013-05-16 19:11:50 | 社会

キリスト教文明の社会では、倫理的な善悪の判断は「個人と神との契約」に反するかどうかで決まり、日常的な物事の正邪は倫理観とは関係なく合理的(rational)であるかどうかで決めている。だから利害が対立する場合はより合理的であるかどうかを裁判などの法の解釈で判定するから判定が下されたからにはその決定に従うよう「法の遵守(compliance)」が求められているのだ、という事を以前から主張してきました。また倫理的な善悪と合理性が「正しい事」を判断する所業から分離されたのは日常生活において教会法からの解放がなされたルネッサンス以降の事だろう、と推察しました。イスラム社会においては日常生活と宗教は宗派によって世俗性の違いがあって程度の違いはあるものの、キリスト教社会ほどは分離されていない(日々の生活は倫理観と密着)と思われ、日本の社会も法を守る事も含めて、事の善悪と倫理的善悪は殆ど一緒に扱われていると私は思います。

 

この解釈が私個人のドグマなのか、ratioの思想に詳しく、ルネッサンスについても探求している副島隆彦氏に失礼ながらメールによる質問の形で意見を伺いました。答えとしては「大まかな考え方としてはこれで良いのではないか」と賛同していただきました。氏によると合理性、理性の追求というのはルネッサンス後に限らずキリスト教やユダヤ教の教え自体に含まれる概念ということで、確かに神学という学問体系の各所に合理的思考が含まれていると思われます。氏の返書に、「合理を突き詰めると強欲になる、それが周囲に災いをもたらします。金融取引、金融市場がそうです。爆発するしかない。・・イスラームはそれらの合理と理性を信仰する者達を見ていて本気で、本当に深く嫌がった人達なのだと、分かります。・・合理なくしては今の世界も成り立たないでしょう。でももう本性が分かった。もう騙されたくないよ、という考えに今の副島隆彦はどんどんなりつつあります。」と書いておられました。面識のない私のような者の質問にもきちんと答えてくださる副島先生は一般受けはしないかも知れませんが素晴らしいと思います。感謝です。

 

私は氏が本心から「もう騙されたくないよ」と言っておられる事が分かるような気がします。現在の金融支配者達は「合理性」を主張していても結局それは「強欲」を成就する方便でしかなく、「客観的に非合理であると判断されれば敢えて目先の利益を無視して(損をしてでも)合理的な判断に従うか」と言えばそうなっていないのが21世紀に入ってからの世界ではないかと思われます。

 

前回のブログでアフガニスタンにおいてアル・カーイダを支援するタリバンと戦争しながら、シリアで反政府軍に加わるアル・カーイダに武器支援をしたり、軍を派遣して一緒に戦うのはいくら何でも矛盾しすぎていてできないだろう、と書きましたが、現在のアメリカ社会は利益を追求する上で「合理性」を求める事自体がもう面倒・邪魔な概念になってきているように見えます。

 

アフガン侵攻、イラク戦争のきっかけとなった911事件自体が様々な非合理(飛行機がぶつからないのにビル崩壊・ペンタゴンに突入した飛行機が見当たらない・突入した飛行機の乗客とされた人が後にイタリアで逮捕された、などなどあまりに多数)を示しているのに合理性の追求がなされません。最近のボストン爆破事件でも犯人二人を捕まえるのに軍隊を動員して戒厳令状態にする合理性はありません。しかもその犯人を指名したとされる両足切断の被害者の損傷捏造疑惑がビデオ付きでuploadされる始末。NPR(national public radio)ニュースなどによると撃たれて声が出ない容疑者には市民への脅威が残る間は憲法で保証された権利であるミランダ法(黙秘権や弁護士の同席による取り調べ)も適応されないとか。合理的であることや法によって正邪を決定することがもう面倒くさくなり、「テロへの対応」と言ってしまえば水戸黄門の印籠のように「それを見せれば何でもOK」という社会にしたいということのようです。

 

興味深い図があるので紹介します、hardthinkとうブログからの引用です。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で知られる社会学者のマックス・ウエーバーは秩序を重んずる「管理社会」に対抗するものとして、合理性を戦わせることでより良い社会を建設する「市民社会」というものを想定していたことが分かります。ニーチェが「末人」として蔑んだ「精神のない専門人」「心情のない享楽人」が秩序過剰とされる社会の究極に描かれています。20世紀のアメリカ社会は過剰な裁判社会と言われながらも一応この図では合理性を闘争的に追求する左上の「市民社会」を目指していたように思えます(ナチズム下の社会は多分左下)。それが21世紀のアメリカ社会は次第に右下の方向、(もう合理性の追求は諦めて管理社会として秩序だけ重視する)に向かっているように見えます。その方が1%の富裕層が99%の大衆を支配するには都合が良いからではないでしょうか。

コメント
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