20世紀は科学技術が飛躍的に進歩した100年でした。医療における進歩は目覚ましく、先進国の乳幼児死亡率は0に近くなり、出産による母体の死亡も100年前は1割近くあったものが死亡したら医師が刑事事件で訴えられるほど希有な事象になりました。感染症は克服され、心筋梗塞や脳梗塞も克服まであと少しとなりました。癌はまだ治りませんが、早期に発見することでそれを取り除いてしまうという解決方法が取られていて、「早く見つけて取り除く」技術の革新が日々行われています。
医療が行われる目的は「健康」を維持することですが、その「健康」とはどのような状態かは前に「WHOの健康の定義」でも述べたようにいくつかの解釈があるところです。また老いや自然死までも「健康でないもの」と定義して不老不死を求めることを医療が行なって良いのかは大いに疑問があります。また人間が本来持っている「病気を治そうとする力」を補助する医療は人類全てにとって「良い医療」と言えますが、不妊治療や臓器移植、透析、遺伝子治療といった人間がもともと持っている能力にない医療、或いは本来持っている力がかえって邪魔になる(例えば移植医療における本人の異物を拒否する免疫力)ような医療は「神が行われると予想していなかった医療」であって、医療を受ける本人にとっては良い事であっても、未来を含めた人類全体に本当に福音をもたらすかは解らないというのが正直な答えだと以前紹介しました。
今回は種々の医療における新しい技術の中でも、外科において進歩が著しい腹腔鏡手術とロボット手術の話題を取り上げて見ます。皮膚と筋肉を20cm位切開して肉体内部の臓器を取り出したり修復したりするのが通常行われている観血的手術ですが、直径5から15mm位のトロッカーと呼ばれる筒を皮膚と筋肉に数本通して体腔内に炭酸ガスを入れて空間を作り、その空間内でトロッカーに通した種々のデバイス(操作具)を用いて手術を行なうのが1990年代に発達した腹腔鏡手術です。2000年代になるとトロッカーにヒトが遠隔操作しながらコンピュータ制御されたデバイスを通して手術を行なうロボット手術が実用化されて、いままでの腹腔鏡手術よりもより複雑な操作が可能となりました。
腹腔鏡手術はその成否においては極めて術者の力量による所が大きく、巧拙の差が術者によって如実に現れます。それだけ習得に努力と時間がかかる手技といえます。しかも「基本は観血的手術がきちんとできること」が必要で、教科書的な型通りの手術が予想される場合以外はやらない方が良いと言われています。腹腔鏡手術の観血的手術に対する利点は「皮膚筋肉を切らない事」と「ガス圧で出血がやや抑えられる事」の2点以外はありません。欠点は「細かい操作が苦手」「操作の自由度が限られている」ということです。手術成績は観血的手術と同じであることが目標とされていて、従来の手術よりも癌の根治率が高いとか、合併症が少ないといった結果は出ていません。慣れた術者が腹腔鏡手術をやるとあまり慣れていない術者の観血的手術よりも時間や出血が少ないといった成績はあります。しかし慣れていない腹腔鏡術者が行なう手術よりも観血的手術の方が種々の点で良いことは麻酔科医や手術室の看護師に尋ねるまでもなく外科医においては当然の常識と言えます。胆嚢の摘出や副腎の腺腫の手術は腹腔鏡で行なうのに最も適した手術と言えます。
新しい技術であるロボット手術は、腹腔鏡手術に比べると観血的手術ができる医師ならば比較的早く習得できます。それは手技が観血的手術のそれに近いからであり、あたかも自分の手が手術をしているようにデバイスが自由に動いて細かい手術操作をしてくれるからです。従って利点は腹腔鏡手術の「皮膚筋肉を切らない事」と「ガス圧で出血がやや抑えられる事」に加えて「ヒトの手で縫合しにくい細かい縫合が可能であること」という因子が増えます。欠点は「とにかく器械が高い事(ダヴィンチというロボット手術機は一式3億、年間2千万の維持費で元を取るには手術一件100万円近くかかり、年間70−80件は必要)です。今のところ「ロボット手術でないとできない手術」というのはありません。つまり観血的手術や腹腔鏡手術でもできる手術をロボットでもできる、という段階に過ぎません。体に残る傷が少なく、社会復帰も早いというのが腹腔鏡手術やロボット手術の患者さんにとっての利点ですが、今後観血的手術がなくなって全ての手術が腹腔鏡かロボット手術になるか、と言うとそれは100%ありません。事故などの外傷治療は観血的手術以外ありえません。また進行癌や型通りにゆかない手術は腹腔鏡やロボットは不可能であって従来の観血的手術になります(限られた名人はできるでしょうが)。
時に型通りに行かない手術を無理に腹腔鏡手術でやって患者さんが亡くなってしまった(のではないか)という事例をニューズなどで見かけます。腹腔鏡は難しい手術なので「限界への挑戦」として困難例も腹腔鏡手術をやりとげてみたい、という功名心を外科医はもちがちです。うまくゆけば勿論患者さんは喜びますが、観血的手術であっても結果がよければ患者さんは同じように喜びます。困難例においては「傷が小さいことと少し社会復帰が早いという利点」が「外科医が腹腔鏡で手術することにより与えてしまう患者へのリスク」を上回ることは殆どないことを外科医は肝に銘じないといけません。
一方で、現在日本では外科医が不足してきています。医療崩壊のテーマでいつも述べているように「安い給料で24時間リスクの高い医療を行なう病院勤務医」がどんどん減ってきており、私の病院では癌の手術も1ヶ月待ち位で入りますが、医療過疎地の病院では癌の手術が3ヶ月待ちになっています。改革前のイギリスでは癌の手術は1年待ち以上になっていて「その時まで生きていたら手術しましょう」という状態になりさすがに政府国民が目覚めて医療費を倍加させて状態を改善させました。
来年の診療報酬改定について最近政府内で議論がかわされたようですが、結局医療費の増額はなしで配分を調整して危機が叫ばれている分野により重くする、また在宅医療を充実させて病院の負担を減らす、といった方向性が決まりました。「リスクの高い医療を行なう勤務医への優遇」は実質見送りとなりましたので研修を終えた若い医師達の外科離れ(リスクの少ない楽な科を選択する)嗜好は今後も変らないでしょう。
アメリカでは腹腔鏡やロボット手術の技能があることは、リスクの少ない楽な科の仕事をしている医師の数倍のギャランティとして戻ってきますので、型通りの手術ができる症例(リスクを伴わない症例)を集中治療センター(例えば前立腺手術ばかり行なうセンター)病院で多数こなすことで医師にとっても大きなメリットとになり、努力して技術を習得する糧になります。そのような医師は日本の医師のように雑用に忙殺されることもなく私生活も充実しています。
翻って、日本では観血的手術でさえやる医師が激減しているところで、習得が難しい腹腔鏡や、維持費のばか高いロボット手術が今後残ってしかも発展してゆくかどうか危ぶまれます。観血的手術を習得して中堅医師になって腹腔鏡手術を習得しても技を伝える若い人達が育ってこなければ日本の医療においてはそれらの手技が廃れて行くのはやむを得ないことです。
TPP加盟が決まって、アメリカ製のロボット手術の高い機械(ダヴィンチ)を各大学に買わないか、実は厚労省から打診が来始めています。本来ならば新しい技術を取り入れて広めてゆくことは大学の使命でもあるので大学の外科系としてはありがたい申し出と言えなくもないのですが、実際の現場では「えーっ、若い医師が入ってこないのにそんなに高いもの入れてこれから我々が努力して習得して、しかも年間80例とか手術しないと元とれない、自分で自分のクビを絞めるようなものでは?」という反応が出ています。
収益を上げろ、医療ミスはするな、教育の負担増(医学生増加)、研究もやれよ、給料はそのままだぞ、と言われてその上「新しい器械を入れて技術を習得して手術して元も取れ」と言われたら「もう勘弁してくれ」と言いたくなるのも当然でしょう。しかも患者さんにとってものすごくメリットがあるというわけではないのですから。
新しい医療技術も適切に使い分けてゆけば必ず日本にも幸福をもたらすものと思います。外科医全員が腹腔鏡やロボット手術に習熟する必要はありませんが、それらの技術を努力して習得しようという若い医師達にはインセンティブとなるようなメリットがないといけません。「功名心」だけがメリットで努力できていたのは我々80—90年代に医師になった組までであり、時に功名心が仇で患者さんに不要なリスクをかけてしまいます(これは厳に謹まないといけません)。これからは違ったアプローチで医療技術の発展習得をめざしてゆく工夫が必要であろうと私は思います。