rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

コンプライアンス強化で日本人は幸せになるか

2011-09-25 19:14:33 | 社会

世の中コンプライアンス遵守が強く要請されています。ここでコンプライアンスと言う場合には法令、或いは規則の遵守を特に仕事上の社会生活に求めるという意味です。具体的なコンプライアンス強化の意義について、内部統制入門Navi(http://www.internalcontrol-navi.com/request/compliance/outline.html)というサイトから引用します。 

 

(引用始め) 

 

コンプライアンスを直訳すると『法令遵守』となり、文字通り解釈するなら、『法令違反をしないこと』つまり『法律や条例を遵守すること』となります。しかしながら、この様な意味だけならば、コンプライアンスなどとわざわざ取り上げる必要もなく、誰でもわかっていることです。 コンプライアンスが重要視されるのは、その意味に『法令遵守』も含まれますが、法令だけに留まらず、社内規程・マニュアル・企業倫理・社会貢献の遵守、更に企業リスクを回避するために、どういうルールを設定して行くか・どのように運用して行くかを考え、その環境の整備までを含んでいるからです。

 

コンプライアンスを『法令遵守』とだけとらえ、法律を守っても、これは当然のことであり、最低限のレベルに違反していないだけになります。これを逆手にとり法の不備をつき「法令に違反していない」と、違法ギリギリの行為をしている企業もありますが、このような行為は企業の社会的信用を失い、取り返しのつかない事態になる可能性があります。 企業の規模・業種や問題の種類によっては、「法令に違反していない」と説明しても、それが必ずしも納得できるものとは聞こえないことが多々あるからです。

コンプライアンスの原点として、『公正・適切な企業活動を通じ社会貢献を行なう』とい思想があります。 特に、上場企業や企業ブランドを売りものにする企業で、法の不備をつくような行為を繰り返し行なえば、世間の企業ブランドに対する影響力は大きくなります。 これらの企業には、他の企業模範となるべく、積極的に法令や条例以上の企業倫理・社会貢献の遵守し、『常識が法である』という行動が求められているのです。

コンプライアンスの範囲

 コンプライアンスの遵守すべき範囲は、ここまでという明確なものはありませんので、各企業が、法令・社内規程・マニュアル・企業倫理・社会貢献などの範囲で自発的な取り組みとして行なわれます。ゆえに、各企業での取り組み方も千差万別で、『最低限のコンプライアンス』を追求する企業から、信用やブランド力を勝ち取るために積極的に取り組む企業など様々です。

 企業の信用やブランド力の向上には、法令に留まらず、企業理念や社会貢献までを範囲とし、これらを基礎に企業文化や社風を改善して行くことが必要となります。

 法律は完璧ではなく不完全なもので、社会の要求や期待の全てを満たすものではありません。そのため、解釈がわかれたり、その不完全を補うために次々に新しい法律が作られます。 これらからも、ただ違法行為だけをしなければよいというのでは問題であり、その先にある企業倫理や社会貢献までも広く遵守できるような環境整備が、上場企業や企業ブランドを売りものにする企業には期待されてます。

(引用終わり)

これを読むと「商売は信用が第一」と日本で江戸時代から言われているような格言と同じようでもあり、わざわざ「コンプライアンス」などと横文字で言い換える必要はないように思います。しかし日本でコンプライアンス遵守の掛け声をかけているのは何処なのかというと、どうも諸外国(特にアメリカ)と関係のある分野から強い要請が出ているように感じます。それは内部統制に関する法律として新たに会社法と金融商品取引法「日本版SOX法」というアメリカ生まれの法律が新しい法律として制定されたからです。日本でコンプライアンスという文言でわざとキャンペーン的に強調しているのは「商売は信用」といったことよりも「諸外国(主に欧米)の商慣習や法令に従いなさい」という目的の方が本音ではないかと思われます。大きくはTPP導入に向けての地ならしとも言えましょう。

 

私は病院で院内コンプライアンスについて検討する内部委員になっているのですが、どうも「コンプライアンス重視」ということについて何か引っ掛かるものがあるように感じます。それは日本人のエトスに係わっていることではないかと最近考えるようになりました。

 

前にも書きましたが、日本人は体制を維持するための儒教的考え方が身についていますから、物事の善悪を考える時に「自分の属する集団にとって利があるか否か」が判断の基準になります。属する集団は家族、会社、地域、日本全体、世界、将来の日本などどこに基準を置くかはその時々で変りますが、科学的、論理的に誤りであっても「集団に利がある」と考えてある事態が善であると判断され実行されることが多々あります。

 

一方で一神教社会では物事の善悪は神との契約に反するかどうかでまず一義的に判断されて、商慣習などの世俗的な法は「神の法」よりも一段低い「王の法」と考えられるので弁護士を立てていくらでも都合が良いように法解釈できます。自分の属する会社が違法なことをしていれば「これは違法だ」と告発することも「神の法」を犯す訳ではないので倫理的呵責などなく、自分の会社内における立場が危ないという心配だけしていれば良い事になります。外国は日本よりも労働市場に流動性があるから他の会社に再雇用されることも可能ですし、裁判で勝てば不当解雇した会社からしっかり賠償を取る事も可能でしょう。

 

日本でコンプライアンスを検討する時にはセクハラ事例など例外はありますが、多くの場合「属する集団の利」という点で倫理的葛藤を強いられるように感じます。つまり日本人が全てキリスト教やイスラム教に改宗でもしない限り倫理的葛藤を経ずにコンプライアンスを語れるようにならないのではないでしょうか。

 

「商売は信用が第一」という意味で良い製品を作り、誠実な商いをすることに異論はありませんし、「会社は社会を豊かにするために貢献しないといけない」という考えも賛成です。しかし欧米流の考えが絶対であり、全てそれに従わなければならないというのは異常です。欧米もアジア的思考や習慣を半分は受け入れるのでなければ真のグローバリズムとは言えません。強制的欧米化をグローバリズムと言い換えてごまかすのはもう止めにしましょう。

 

コメント
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